鬼の姫が見た夢 後編
「成程のう。『魔術師』を応用した『付術師』とは……」
あの『アイスクリーム』の仕組み。
どうやら四角い箱に魔術を付与しているらしく、外気に関わらずに冷温を維持できる仕組みらしい。その中でアイスクリームを保持しているとのこと。
今は着ておらんが、儂のワンピース――黒の帳――の応用版であろう。
「俺も専門じゃないから詳しくないけど……その『付術』のおかげで生活はすごく便利になったよ」
「他にもあるのかのう?」
「マッチや火打石なしに楽に着火できるとか、そもそも火を使わず暗闇を照らせるとか……そんなものもあるな」
儂の常識を覆す発明ではないか!
かろうじて、喉まで出かけた言葉を飲み込む。
アイスクリームを食べ終えた後、再びセスに手を引かれて街を歩いていた。
儂の質問にセスが答えつつ、時々気になる店を眺めたり、食べ物があれば買って二人で食べ……穏やかな時間の流れを感じつつ過ごしている。
「次はどこに行くのじゃ?」
「もう着くよ。……ほら、あそこ」
セスが指さした先、そこは船着き場……いや、もっと小規模なものがある。
わからん。
……次は何をするつもりじゃ?
ただ、胸の鼓動が高鳴っているのは感じた。
「はい、お手をどうぞ」
「うむ……と、」
セスの差し出した手を取り、借りたボートに乗り込む。改めてこの子供の身体、こういう時に不便じゃと思う。
「じゃあ、出航だ」
セスが乗り込み、ボートを漕ぎだして湖へと進んでいく。他に家族連れや……恋人、らしき男女も同じようにボートで過ごしておる。
静かな湖面を切り裂き、どこか心地よい揺れと共に、どんどん湖畔のボート乗り場が離れていく。柔らかな風と長閑な日差し……全身がぬるま湯に浸かるような、安息に満たされる。
他の者も同じ……「ぬおっ!」
ビクッと驚いて体を震わせたセスが、ボートを漕ぐ手を止める。
「えっ! なに、どうかした?」
「な、何でもない! 気にするでない!」
尚も心配そうな視線を向けてくるが……気にする必要はないのじゃ。
「具合が悪かったら、すぐに言ってね」
セスの気遣いは嬉しいが、何でもない。
確かに儂は何ともない。
そして何に驚いたかは言えん。
向こうの恋人……人気がなくなったからと言って、せ、接吻をしていたなどと!
この時代では、そういうものなのか?
……再びボートを漕ぎ始めたセスを見、ふと思う。
儂らは、どう見えておるのか。
セスがまさに、何もないところで漕ぐ手を止める。
周囲に他のボートはおらんし、湖畔からもボートがあるという程度にしか見えん場所。いや、湖の真っただ中。
「よっ、」と軽い掛け声とともに、セスが背をボートに預けた。
「……見てみなよ」
セスの視線……つられて空を見ると、当たり前だが空しかない。
ただし、それは本当に空のみであった。
少しも空を隠すものがない。
木々も建物も宙を舞う木の葉ですら存在しない、空。
なんとなく、圧倒されたかのように儂も背を倒す。
空は些かも変わらず、ゆるりと流れる雲と日差しのみが存在を許されている。
背中から伝わる水の揺らぎ、それがまた心地よい。
「……」
「……」
お互い、何も言わず……ただ時が流れるのに身を任せた。
「少しは息抜きになった?」
帰り道、セスが問いかけてくる。
もう人込みもなかったが、軽く手を繋いで並んで歩く。
「そうじゃな……また、来たいのう」
あの後もそのまま、温かな風の中何をするでもなく、ボートに揺られて過ごし続けていた。「そろそろ帰る時間だね」セスがそう言うまで、何も考えずにいた儂自身に一番驚く。
街で遊び、湖で何もせずにただ過ごす。
言葉にすればこれだけ。
しかしそれが、どれだけ心嬉しく安寧で満ちたものであったか……
ああ……そうじゃ、楽しかったのじゃ。
今日も、次に連れてきてくれた時も、その次も……どうしようもなく幸福で満たされておった。
そう、幸福とはこうあるべきと言える時間じゃった。
不意に、手が離れる。
「セス、どうかしおったか?」
優しく繋がれておったそれ、何の前触れもなく突然離れることに苛立ちを感じた。振り返ってセスを見ると……
「フィルミナも、やっぱり楽しく感じるよな?」
紅い瞳に決意が宿っておる。
言いようのない不安、胸に滲みだすかのようにそれが発露してくる。何も……言えずに見るしかない。
「俺……叶えたい願いが出来た」
早鐘を打つかのように、心臓がうるさく鳴る。
よせ、それは……言うでない。そう言いたいが言葉が出てこない。
「聞いてくれ、俺は……」
やめてくれ! 頼む!
聞きたくない!
「 」
黄昏の中、最も聞きたくなかった言葉が、確かに届いた。
「……かっ、はっ!」
擦れた呼吸と共に、視界には木の天井が広がる。
鼓動が嫌な律動を打っている。全身がじっとりと汗に濡れている。
微かに荒くなった呼吸を整え、背を起こす。
隣に目を向けると、整えられて空っぽになった寝台が目に入った。
カーテンの隙間から日が差しておる。セスの仕事は朝早い。とっくに家を出て働き始めておるだろう。
先程の夢……それから安心するため姿を見たかったが、そんな我儘は通らない。
「……忌々しいのう」
夢の内容と眷属の姿を見られないこと、何よりもそんな甘えたことを考える自分自身に向けて呟く。
「夢なら夢で……あったことだけ見せんか」
街を出歩き、湖にボートを出した。
そこでの安息の時間、それに偽りはない。何度かそうしたことがあったのにも違いない。
ただ、セスは『その願い』は口に出していない。
出すはずはない。少なくともここで満たされている今は……平気であるはず……願いはしないはず……
寝台から抜け出て、カーテンを開けると部屋全体に朝日が差した。
「今日は……ロレンタ殿が湖畔の広場に連れて行ってくれると、言っておったのう」
偶にはチェスだけではなく、散歩でもどう? とロレンタ殿が気遣ってくれた。
それが今日である。
「着替えるとしようかのう……」
一人呟き、今日の支度を始める。
先程の嫌な夢と感覚を塗りつぶすかのように。
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