89.雪の降った日のこと

 オミクロンが猛威を振るっているが、特に気にもせず病院で作業である。

 オンラインで出来ない作業というものはどうしてもあるし、現場の方が何かと早い。モダリティ装置との接続作業とか、閉じたネットワークの中でのサーバ通信テストとか、特に稼働立会ともなるとユーザのすぐ傍に腰を屈めて話を伺うことも多い。

 大晦日に切り替え作業を済ませた病院での立会作業は七日間に及んだ。休日とはなにか。それはただの符号である。

 お喋り好きの先生の横で「そうですね、冠動脈CTを撮影した場合ですが、画像の処理としましては」なんてシステムの説明をする。実際にはあまりよくわかっていない。ただ相手が納得すればいいのである。我々の仕事の半分ぐらいは、「如何に相手に誠実な態度を見せられるか」にかかっている。発言力のある人に嫌われたらどうしようもない。ステレオタイプの「システムにだけ詳しくてコミュ力が低い」みたいなSEはいないか、早いうちに偉い先生に「その面を二度と見せるな」と言われて現場を去る羽目になる。


「年末年始はずっと仕事をしていたの?」


 偉い先生が尋ねる。私はマスク越しでもわかるように笑顔で肯定を返す。


「そうですね。大晦日が切り替えでしたので」

「大変だねぇ」

「ミスがないように入念に行っていますが、何かあればすぐにお申し付けください」


 丁寧に頭を下げて、自然にその場を離脱する。話が長い。三十分ぐらい話していたので喉がカラカラである。先生は手元に湯気の立つマグカップがあるから良いが、私は何も持っていない。もう少し仲良くなれば「ちょっとお水飲んできますね」とか言えるが、まだその段階には早い。

 自販機のある病院のエントランスに向かおうとして、階段室の扉を開く。寒い。日の光が当たらない地下から続く階段室は酷く冷え切っていた。急いで一階に上がり、そこにあった扉を開いた途端に何か白い物が見えた。雪だ。東京のど真ん中にある病院の、大きなガラス窓の向こうに雪が降っていた。

 天気予報で確かに雪の予報は出ていたが、あまり本気にしていなかった。どうせ雨だろうと高を括っていたところに雪。急いで階段に戻って、地下に降りた。少し離れた場所で立会いをしていた若手の女性に声を掛ける。因みに面識はほぼないし、名前もよく知らない。でもそんなことはあまり気にしない。


「雪降って来たよ」

「え、本当ですか?」


 積もるかなぁ、なんて他愛もない話をする。きっとこの瞬間も相手は私のことをよくわかっていないに違いないが、それはお互い様なので問題ない。何故こんなことが起こるかと言うと、稼働立会の時は「応援」として色んなところから人をかき集めるからである。特に元々女性が少ないので、企画部とか開発部とか、そういう少し畑違いなところからも応援が来る。大概の場合は数日間の付き合いになるから、深く踏み込むことはない。


「お昼早めに行った方がいいかもよ」

「でもプロマネと連絡取れなくて」

「じゃあ探してくるよ」


 そう言って、再び一階へと上がる。当初の目的だった自販機で、当初の目的とは異なるホットコーヒーを買った。雪ともなれば買うものも変わってくる。温かい珈琲を手の中でコロコロと転がしながらエントランスより外に出た。寒い。雪が降っているのだから当たり前である。病院のすぐ近くにあるコンビニを目指して歩き始めてから一分後、今度は別の応援メンバに出くわした。


「プロマネ見ませんでした?」

「いや、見てないですね」

「そうですかぁ。あれ、どこか行くところでした?」


 そう尋ねると相手は困ったように辺りを見回しながら言った。


「西病棟ってどこですかね」


 大きな病院ともなると、いくつも病棟が分かれている。彼のように初めてこの病院に来た応援メンバだと迷うのは至極当然だった。


「呼ばれました?」

「そこに先生が来てるから、操作説明をしてくれって」


 立会いではそういうことも珍しくない。どうやら頼まれて出てきたは良いが、どこに何があるかさっぱり見当がつかずに迷ってしまったようだった。


「多分それだと西病棟3番になるので、あの道を真っすぐ行って、突き当りにある東病棟の中に入って、左手にある細い階段を下って、そこにある道をまた真っすぐ行って、突き当りの扉開けたところですね」

「上から行けないんですか」

「行けるんですけど、道が複雑なので」


 我々は患者さんが使用する道は使ってはいけないことになっている。なので職員が使用するルートを使うのだが、今回はそれにも更に制限がかかっているので、まるでダンジョンの迷路みたいなルートを覚える羽目になっている。


「一緒に行きましょうか?」

「いや、一人で大丈夫ですよ」


 お気をつけて、と見送る。因みにこの人も今回初対面なのであまりよく知らない。しかしやはり困らない。

 コンビニに到着すると、プロマネがいた。百円のホットコーヒーを買って、受け取った紙カップをレジ横のマシンにセットしているところだった。仕事をしろ。


「プロマネ」

「どうしたの? 煙草?」

「西病棟の方からも呼び出しがあったみたいですよ。誰か配置しておきます?」


 大きい病院なので、立会いメンバを増やしても全部をフォローすることは出来ない。なので、立会いが始まってから「意外とここにも人が必要だった」とか「人を増やした方がいいかもしれない」などの調整が発生する。


「今はだれが行ってるの?」

「えーっと、応援メンバの……」


 名前にあまり自信がないので、そう言って誤魔化す。しかし相手はちゃんと汲み取ってくれた。


「じゃあ午後は、今二階で立会いしているメンバの一人を移動させようか」

「そうですね。お願いします」

「淡島さんのほうは順調なの?」

「まぁ先生のお話の相手が主ですね」


 流石だねぇ、とか言いながらプロマネは珈琲に蓋をした。私はそこで、自分の手の中にある缶コーヒーを思い出す。もう少し温くなっていた。


「俺、今から作業部屋に戻ってメールとか色々出すから。稼働報告書も提出期限迫ってるし」


 だからホットコーヒーなのか。まぁ腰を落ち着けてメールを出すには、それなりの環境というものが必要だろう。それが例え、病院の地下にある冷え切った電話室だとしても。

 去っていくプロマネを見送ってから、コンビニの外に設置された灰皿へと移動する。灰皿の中にも雪は容赦なく落ち続けて、汚い水を増やしていく。紙巻煙草を口に咥えて、ライターで火をつける。冷たい空気と一緒に煙を肺に取り込んだところで、ふと気が付いた。

 昼飯の件を相談するのを忘れた。

 あーぁ、と思いながら煙を吐き出す。コミュ力と同じぐらい記憶力もどうにかならないものか。いや、無理だな。というか忘却力を強くすることで色んな嫌な事も消化出来ているので、記憶力などは低くてもいい。精々、一か月間のゴミの収集日と種別を記憶出来ていればいいのである。そうすれば部屋はゴミまみれにならない。

 とりあえず、プロマネが見つからなかったことにして昼飯は勝手に行かせよう。その間は自分が立会いをしていれば問題ない。すっかり冷えてしまった缶コーヒーを持て余しながらもう一度煙を吸い込んだ。吸い終わるころに、また何か忘れないように願いながら。

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