第86話 風邪をひいた美少女は、僕のためには自重しない




 その日は前日の台風が過ぎた、のだが――……。

 台風一過秋の空、とはなんぞやら。今日は記録的な大寒波がやってきていて、さらに雨も降っていてでとても寒い日だった。


 昨日貸したジャージを彩香さんに返されたのは5時間目、体育の授業が始まる前のこと。名残惜しいがお喋りをやめて更衣室に向かう、その別れ際。


「うぅっ……ずびっ……」


 体を震わせて誰かが鼻をするる。

 振り返ると、体操着袋を抱えて二の腕をさすっている彩香さんがいた。やっぱ寒いよねぇ〜とココロの中で共感した。


 ――と、そんなことがあったのが数分前。


 男子のほとんどみんながセクハラ覚悟で教室で着替えるからいつも空いている男子更衣室。僕が体育着に着替えていると、更衣室の外からドタドタと足音が聞こえた。


 何だろう、と首を傾げつつ、ズボンを脱いでいると、その足音がちょうど更衣室の前で止まる。

 そうしてガラガラガラ! と、大きな音を立てて扉が開かれた。見ると、そこには女子。


 黒髪ロングの清純生徒会副会長。清楚系で人気のあるクラスの女子。口調はいつも丁寧で、誰に対しても敬称を欠かさない、まるで僕のような――


 と、そこで状況を理解した僕は悲鳴を上げる。

 それと同時に、隣にいた波賀崎くんが叫んだ。


「きゃぁぁぁっ! えっち!」

「ちょっ! でていけ痴女!」

「るっさいわ! あ……」


 その反応で、初登場の第一言から副会長のキャラが崩壊した。

 彼女自身それに気がついたのか、声を漏らす。

 すると、その後ろにいた行政委員会第一書記の女子が前に出た。


 彼女はいつも正確で明瞭な言葉遣いに定評があり、よく通る冷静な声で終礼前のうるさい教室を静まらせるという、帰宅部にとっては聖女様のような存在だ。

 だが普段は口数が少なく、大和撫子のようでもあり、こちらも人気が高い。


 ちなみに生徒会と行政委員会は犬猿の仲だ。


「彩香たんのカレピッピ、来て!」


 彩香たん!? カレピッピ!? 

 ――どうやら初登場キャラ達は一通りキャラ崩壊するのがセオリーらしい。


 強引に腕を掴まれ、パンツ一枚のまま廊下に連れ出されかける。波賀崎くんがそんな僕に気付いて言ってくれる。

 ——意味不明なことを。


「おい! そいつにも軽犯罪法一条二十号を守らせろ!」


 えっ、なにそれ!?


「カレピッピは露出狂じゃないから大丈夫!」


 へぇ、露出狂を取り締まる法律か。と納得した。——いやなんでそんなの知ってるの?

 ツッコミをするよりさきに、このままだと本当にパンツ一枚で廊下を引きずられそうなので彼女たちを押しとどめて更衣室のドアを閉める。


 急いでジャージに着替え――……あ、彩香さんの家の洗剤の匂いがする。いい匂い。

 ほっと一息、急転直下の状況でココロの憩いの場を見つけた。


 その後、台風の中みたいな展開をくぐり抜けるようにして、彼女らに引きずられて行く方向は――男子更衣室とは校舎全体を見たときに対角に位置する女子更衣室。


「あーしらじゃ運べなく――わ、私たちが運ぶのは難しくて……」

「いや何を運ぶの? マリファナ?」

「カレピッピっ、彩香たんが倒れたの!」


 いや、台詞の順序がどうみても逆でしょ。

 てか書記さんはキャラを取り繕う気はないのね。

 あと僕はカレピッピではない。


 ツッコミを入れるのが面倒になってきたころ、ようやく女子更衣室の近くに来る。そこには、周りに肩を貸してもらってふらつきながら歩く彩香さんがいた。


 その顔は赤く、ぼやぼやした表情をしている。


「彩香さん大丈夫!?」

「ずぴっ……柚……」

「ちょっ、貸して。保健室連れてく」

「おねがいカレピッピ!」


 駆け寄って彩香さんの前に背を向けてしゃがみ、周りの手を借りておんぶする。背中に感じる彩香さんの体温はかなり高い。

 超能力を使う体力もないのか、夏休みにおんぶしたときより重かったけど、運べないわけじゃない。むしろ前が羽みたいに軽かったんだ。


「柚……」

「大方問題ないよ彩香さん」


 教師の許可がないと使っちゃダメだけれど、今は非常事態だから、とエレベーターのボタンを迷わず押して保健室へ直行。

 授業の出席とかは周りがなんとかしてくれるだろう。


 保健室の中はもうストーブが設置されており、かなりポカポカしていた。冷えた足の指先がじんわりと温まっていく。


「あの〜風邪だと思います」

「あらぁ~そう。じゃあそのベッドに寝かせてあげて。ボードの記入もよろしくね。これ冷えピタと体温計。やっといて」

「はい」


 なんだよセルフ式かよ、と気怠げな保健室の先生に不満タラタラ、彩香さんの靴を取り、ベッドに座らせる。

 体温計を渡すと、彩香さんは数秒僕をじっと見上げ、諦めたように自分の脇に体温計を差し込んだ。


 その間にボードに時刻と名前、容態を書き記し、彩香さんが鼻声で読み上げた体温を記入する。

 37.7度。高めの微熱だ。


 その片手間に冷えピタを渡す。


「柚……ずぴっ……」

「ちょっと待ってね。――っと、ふぅ」


 席を立ってボードを先生に渡して、ベッドの仕切りのカーテンを閉める。ついでに拝借してきた箱ティッシュを渡すと、彩香さんは冷えピタを膝において鼻をかんだ。


 ゴタゴタが済んで落ち着いてくると、今度は邪な感情がわいてきた。よくあるライトノベルでは、いつもは冷たいヒロインが風邪を引くと、とても甘えたがり屋になるというイベントがあるのだ。


 妄想が捗ってきたところで、そこに終止符を打つ。


 風邪で思考がくるくるパーになってどちゃクソ可愛い美少女を襲ったりなんてしない。僕は紳士だ。

 ぐへへ。――まぁでも、向こうから誘ってきたらもちろん乗っかるけどね。来る者拒まず、これもジェントルマンの基本マナーだ。


 結局、妄想は再び始まっていた。

 結局、それを切ったのは彩香さんのツッコミだった。


「柚、私そんなキャラじゃないから……ずずっ」


 鼻をかむ合間に彩香さんは言い、ティッシュを丸めて捨てる。

 どうやら僕のココロを読んだようだ。風邪ひいてて体力ないのに超能力使っちゃだめでしょ、とココロの中で言う。


「ココロ読むのは、慣れてるから」


 言いつつ、彩香さんは僕に冷えピタを突き出し、前髪を持ち上げた。その意図は分かる。

 貼れ、ということだろう。


 それは甘えてるってことじゃないのか? 何が風邪引いてもキャラ変しないだよ。変にがっかりさせないでよ。

 ——まぁ、甘えてくれたら嬉しいし、別にいいんだけど。


「へへ、私、いつも通り甘え屋だから。……ずぴっ……」


 汚いなぁ、鼻かみなよ、啜るのやめなよ、と。自分もよくやることだがそう思いつつ、保護シールを剥がして彩香さんのおでこに冷えピタを貼ってやる。

 すると彩香さんは目を閉じて気持ちよさそうにそれを受け入れた。張り終えた後に上からもういちど押してやると、彩香さんがそのまま後ろに倒れこんだ。


 僕をじっと見つめるので、足に布団をかけて寝させろ、ということらしい。

 仕方がないなぁ、と彩香さんの足をベッドの上にのせ、掛け布団を肩までかけてやる。満足げな顔を見るにこれが正解だったようだ。


 目を閉じた彩香さんを見ていると、彼女はそのまま気だるげに言う。


「柚、授業は?」

「いいよ別に。体育だし、今日はたいした授業ないし」

「そ。寝てる私にキスする気?」

「ちがっ——ちがうよっ……」


 すると彩香さんはパチリと目を開き、枕元のティッシュをとって鼻をかんだ。そして鼻をかむ合間にしゃべる。

 生き急いでるなぁ、かみ終えてから喋ればいいのに、との感想は口に出さないでおいた。


「今日、再試ありの小テストだけど」

「数学? あぁ、休んだら強制再試か」

「そ」

「じゃあ一緒に再試、受けよっか」

「——そ」


 彩香さんはちょっと目の下を赤くして、それを隠すためか布団を顔まで引き上げる。

 かわいいな、と思うとココロをちょうど読まれてて、彩香さんは僕を睨んで、今度は顔まですっぽり隠してしまった。


 その状態で数秒の沈黙の後、彩香さんが呟く。


「人生だる……」

「まだ十数年しか生きてないのによく言うよ」


 ツッコめば、彩香さんは僕に背中をむけるようにして布団から顔を出し、後ろ向きに——つまり僕の方に手を伸ばし、布団からそれを出す。


 首を傾げれば、彩香さんは言った。


「手、握ってて」

「ったく、仕方ないな……」


 僕は熱くて小さな手をとって、彩香さんが眠るのを待った。





 んん……目を開くと、そこは見慣れない天井とツンと鼻を刺す保健室独特の消毒液の匂い。そして、左手に感じる誰かの——柚の、少し冷えた手。

 見ればそこには柚がいて、額の冷えピタの感触を知り、現状を認識し、思い出す。


 柚はすーすーと寝息をたてて座ったまま寝ている。

 これは柚が悪いのだ。寝ている、無防備な柚が悪いのだ。


 誰が百獣の王ことライオンの前で寝るというのか。誰がサメの前で悠々と泳ぐというのか。

 こんなの、捕食されたって文句は言えないはずだ。

 ——風邪がうつるとか、そういった考えを全部デリートして体をそ〜っと起こし、柚に顔を近づける。


 それで——……。


「あら、起きたのね」

「……はい」


 保健室の先生が覗いてきてびっくりする。慌ててキスを中断して、邪魔されたことに不機嫌になってぶっきらぼうに答えると、先生は困った顔で柚を見て、口を開いた。


「そっちの子は——……頭痛にしておくわね」

「お願いします」


 まぁ、空気は読める先生のようだから許してあげよう。

 先生がカーテンの向こうに行ったのを確認してもう一度顔を寄せる。これは柚が悪い。


 少し長めに、息切れするぐらい長めに——気づいたら、別な理由で息切れしていた。



 *



 彩香さんは早退せず、結局お昼休み前ぐらいには平熱に戻った。さすが超能力者である。その後はいつも通り、お昼を食べてからかわれて、からかって、一緒に帰って……。


 さて、その翌日のことである。


 風邪に対して僕は思うことがある。

 よくラブコメで、キスで風邪が移るとかそんな描写があるけど、それはあまりにも人間の免疫力が低くないか? ただのキスだぞ? 粘膜接触ってほどでもないぞ? どうにかした方がいいんじゃないか?


 そう思いながら僕は、ずぴぴっと鼻を啜る。

 保健室の天井を見上げ、僕は呟いた。


「あ~……人生だる」


 そう、僕は風邪をひいた。寝ている僕の膝の上でさらにまた寝ている彩香さんのサラサラな髪の毛に手を通して、僕は目を閉じた。








PS:自重しようぜ、彩香さん。



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