第3話 それだけで十分
俺は当然だけど歩きで、美岬はベッドのまま赤ん坊を抱いて分娩室を出ると、まずは知らない顔がいくつも。
「誰だ?」って思っていたら、入れ替わりに分娩室に入っていく。
ああ、次の人たちなんだ。
「ありがとうございます」
最後に、分娩室のドアを閉めながら看護師さんが声を掛けてくれた。
「えっ、ありがとうとは?」
俺、そう聞き返す。
「陣痛に耐えられなくて、叫び続けちゃう人がいるんですよ。
それはそれで仕方ないことですし、それを止めさせようともしていません。
ですが、今回みたいに次の妊婦さんが待機していると、前の方の叫び声にビビっちゃって、連鎖的に難産になることがあるんです。
今回、あまりに淡々と静かなお産だったので、私たちも驚いてます。次の方たちも、怖がらずに分娩室に入ってくれました。
ありがとうございます」
そう言って、分娩室のドアは閉められた。
そうか、美岬は辛抱強いからなぁ。
その一言で済ませられることじゃないけどね。
「偉いぞ」
って、美岬の肩を叩く。
美岬のベッドを押すのは、分娩室の班とは別の看護師さん。
引き継ぎの書類もそこで渡された。
そして、改めて廊下を見回すと……。
遠藤権佐と姉の夫婦と姪。
そして久しぶりに見た、ヒグマのような岳父と前の武藤佐。
いくらか白髪が出た以外、見た目に変わりはない気がする。どこでなにをしているのかは、未だに聞かされていない。
まさか、本当にちゃんこ鍋屋じゃないだろうな?
「お義父さん、お義母さん」
思わず声が漏れた。
「真、私より早い。
もしかして、私より心細かったの?」
美岬……。
この場でそれを言うかよ。
というか……。
見透かされてるな、ご名答だ。
正直言って、どれほどの不安だったか君には解らないだろう。
痛みも苦しみも、自分のものであれば耐えられる。でも、最愛の人の痛みや苦しみを見守る辛さは、正直言って耐え難いものがある。
「ま、そんなものだ」
ヒグマのバリトンが温かく響く。
この人も、美岬の出産ときは気を揉んだんだろうか?
「でかい図体で邪魔で仕方ないから、落ち着いてじっとしていろって言われたもんだよ」
「だって、本当に看護師さんたちから見て、邪魔以外のなにものでもなかったからねぇ。
産む修羅場の私から見ても、うろうろうろうろって」
武藤佐が、笑いながら付け足す。
変わらないなぁ。
ただ、なんていうのかな、表情が優しい。
身にまとっている雰囲気も優しい。
うん、落ち着いた生活ができているんだろうね。
それに、武藤さんのしているマフラー、手編みだよね。
怖いな。
あの冷徹な武藤佐が編み物をしている図ってのが、どうやっても脳内に浮かんでこない。
姉にも礼を言おうとして……。
なんか妙な雰囲気。
「もう時効だよね?」
「絶対言うな」
姉の問いに、ぴしゃんと鍵をかける遠藤権佐。
ああ、ここでもなんかあったんだね。
たしか、分娩室から出てきたあと、ちょっとぎくしゃくしていたよね。
「で、どっち?」
「男の子」
姉の問いに、満面の笑みで答える美岬。
そのときになって、初めて俺の頭の中にその意味が接続された。
あれほど不安に思って、ぐちぐちと考えていたことなのに、きれいに忘れていた。
母子ともに無事に生まれてくれた、それだけでもう十分だったんだ。
ついに、十代続いた、「つはものとねり」の明眼がいなくなった。
この血筋が犠牲になることは、もうない。
分厚く大きな手が左肩に置かれた。
「よくやったな。
宣言を実現化した。
大きな一歩じゃないか」
この人も戦った。
この人が戦った戦いを俺が受け継ぎ、ついにここまで来た。
ついに、ここまで来たんだ。
俺、右腕を突き上げた。
こんなに、こんなに嬉しいことはない。
俺は、美岬の一族の十代続いた呪縛を断ち切ったんだ。
もう、俺と美岬の子は、普通の人生を送れるんだ。
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