第7話 陰湿


 西の大国との紛争は、予定されていた。

 それを揺るがせるものはない。

 描かれた図面は実行に移され、スケジュールは着々とこなされている。


 なのに、不意に忍び込んだ違和感。

 その中で浮かび上がってきたのは、「分断」。

 しかも、それは個々に、ケースバイケースで綿密に為されている。

 これは怖い。

 個々に相手側から認識されていて、俺たちは丸裸にされているということだからだ。


 そして……。

 俺と慧思にも、何か盛られている可能性はないのか考えて……。

 今さらに、とんでもないことに気がついた。


 俺、いつもと違う。

 においを感じる能力、ガタ落ちに落ちていないか?

 普段から嗅覚を鋭いままにしておくと、社会生活ができない。だから、普段は無意識にセーブしている。

 でも、嗅覚の世界って豊かだ。悪臭もあるけれど、良い匂いもある。それらは、視界の向こう側まで立体的に描かれる、素晴らしい華やかさだ。

 いつもは、嗅覚に神経を向けるだけで、その華やかさが輝きを持ってありありと現れる。

 なのに……。


 一体全体、いつから俺は鼻を塞がれていた?

 風邪なんか引いていない。

 ということは、俺もなにかの薬を飲まされている……。


 必死に思い返す。

 釣りをしている時、海、魚、餌、船のディーゼル臭、それはそれぞれが圧倒的に強い臭いだ。それらは感じていて当然。そして、強いからこそ、感覚をセーブし続けていた。

 夕食をご馳走になったときの、姉の手のにおい。

 これは……、これも感じていて当然かも知れない。手のにおい、これは、個性が強い。イメージに反して、ちょっと訓練する程度で誰でも判るものなのだ。

 豚肉の生姜焼きでは判らなくても、キャベツの千切りは素手で触るものだ。

 姉の調理手順は、「洗ってから刻む」だ。「刻んでから洗う」だと、ビタミンが抜けてしまうって言っていた。ということは、ちょっと嗅覚が利けば誰でも判ることだ。直接触っていて、かつ、触ってすぐなんだから。

 まして、盛り付けのときに素手で盛っていたら、なおのことだ。


 焦燥感が身を灼く。

 思い返せば、可怪しなことばかりだ。


 そもそも……。

 俺はなぜ、美岬に妊娠を告げられた?

 妊婦はやはり特有のにおいを持つ。まだ、つわりさえ来ていない美岬だから、その違いが判らなかった?

 ただ、体温が上がっているのは判っていたけれど。

 それでも、姉が出産してそう時間が経っているわけでもない。だから、俺はその体臭の刻々の変化を知っている。

 なのに、美岬に対して、気付けなかったのはなぜだ?



 もしも、俺に嗅覚を抑えるような薬を盛るとしたら、昼食しかない。

 朝と晩は、自宅で食べている。水は、店も棚もランダムに選んだペットボトルに依存している。

 昼食は、日々変わる。

 通常は、慧思ですら一緒ではない。共倒れを防ぐためだ。少なくとも、身元がはっきりしていて、店員のすべてを知っている状況でなければ、共には行かない。

 先日まで、俺の昼食ローテーションの中に組み込まれている店は、二軒しかない。そこに手を回されているとしたら、明確に俺は個別認識されていることになる。


 片方は安くて早い定食屋、片方はラーメン屋。今のカバーから、行くのに不自然がない店を選んだ。

 当然、アルバイトで入っている学生の、ひとりひとりまでが個別認識できているわけではない。

 そして、一週間に一度行く店で薬を盛られたのだとしたら、その薬の効き目は一週間ごとに更新されていくものなのか、一回の服薬で一生その機能を失うものなのか。

 それによって、俺の価値は大きく変わる。


 もしも、嗅覚を奪われていたら……。

 俺はこの先どう生きていけば良いのか、判らない。



 「真……」

 「双海……」

 美岬と慧思が、同時に呼びかけてくる。

 動揺が顔に出たな。

 だけど、この場では話さないと。

 特に、戦闘になった時の、俺の持っているアドバンテージは失われている。

 障害物の向こうにいる敵のこと、今の俺には判らないからな。

 それをあらかじめ伝えておかないと。


 「……」

 口が動かない。

 決して歓迎していなかったのに、嗅覚はやはり俺のアイディンティティだったんだろうな。

 美岬も慧思も、嗅覚を失ったからといって、俺に対する応対が変わるはずがないのは解かっている。

 でも、怖い。

 そして、こんなことが怖いだなんて。


 「真、もしかして……」

 ま、そうだな。

 美岬は騙せないよ。


 「ああ。

 俺、嗅覚を失っているかも。

 薬を飲まされているとしたら、その機作が末梢神経性のものか、中枢神経性のものかによって結果は大きく変わるだろう。

 もしかしたら、もう、戻らないかも知れない」

 喉にこみ上げてくるものを、必死で飲み下しながら話す。

 今の俺は、高校生の頃とは違う。嗅覚を失っても、戦う技術は身についている。

 無抵抗を強いられることはないんだ。

 そう思っても、喪失感は激しい。


 「明後日から、明々後日が決戦になるな」

 慧思がいう。

 「なぜ?」

 「お前に薬を気づかれずに盛るとしたら、あの定食屋しかない。

 ラーメン屋の方は、あれで店主の目が行き届いている。店員が運びながら怪しい行動を取ったら、すぐにばれるだろう。

 そして、お前が最後にそこで飯を食ったのは四日前だ。

 薬の効き目が一週間前後で切れ、毎週飲まされていたのだとしたら、その薬の効き目が切れる前に来るぞ。

 明日いっぱいを捜索と確定に使い、半日を準備に費やすとしたら、明々後日がその日ということになるな」

 ……そういうことになるか。確かにな。

 この島に渡るための手立てを考えれば、捜索と確定をより早く終わらせられたとしてもそんなものだろう。


 「タイミングのことはいい。

 了解した。

 だが、今までに何か、すでに完了済みの工作はないか?

 また、攻めて来るわけはなんだ?

 さらに、その最終目的は?」

 「おそらく、ここにいることはバレている。

 双海、お前のアドバンテージが失われているとしたら、お前を見張る目に気がつけていないということになるからな。

 美岬ちゃんでも、障害物の向こうにいる相手は判らない。俺たちは、マニュアルに沿って、訓練されたとおり行動している。だから、通常の相手であれば、完全に振り切っているはずだ。

 でも、今回の相手は、通常の相手ではないし、障害物の向こうにいる相手にそもそも気が付かないようにされていたら……」

 「見られ続けていた可能性を考慮せよ、ということか」

 慧思は無言で頷く。


 俺、頭を抱えてずるずると座り込む。

 俺が蟻の一穴となったか。

 「なにを落ち込んでいるのか?

 ここで敵を迎え撃つのは予定どおり。

 お前たちは、お前たちの組織の象徴だ。それが失われれば、士気に関わるし、他の組織への戦果報告も華々しいものになるだろう。

 罠は食い破れ。

 坪内も、そのための手を打っているはずだ」

 美鈴メイリンの声。

 完全に男言葉になっている。

 日本語は母国語ではないし、ネトゲではこの語調でタイプしているのだろう。

 そして、この場で女言葉を取り繕っても仕方ないと思っているのだ。


 美鈴の声は続く。

 「相手に準備の手を余計にかけさせるために、この島を選んだアドバンテージも揺るいでいない。

 状況はなにも変わらない」

 ……確かにそうだ。

 すべて、上を行かれても、上に乗り切れない、そういう手を打ってきたのだ。



 不意に、頭を、上半身を抱きすくめられた。

 頭を上げるまでもなく気がつく。

 美鈴だ。

 美岬よりも、甘さが強く、スパイシーな匂い。だが、それがいつもより遠く感じる。

 そして、男装であっても、額に当たる小振りな胸。

 「動くな!」

 低い叱咤が全員に向けて飛ぶ。

 特に、その視線は、美岬の行動にストップを掛けている。


 ゆっくりと美鈴の手が、俺のうなじから頭全体を覆う。

 そして、こめかみから額、後頭部から頭頂までを、何度もゆっくりと往復する。

 そして……。

 「初めて触った相手だから、言い切ることはできない。

 でも、これは言える。

 双海の脳の、嗅覚野の活動は落ちている。

 良かったな。

 たぶん、一過性だ」

 「なぜ……」

 「脳パルスが死んでいない。波の大きさが抑制されているだけだ。薬剤によるものだと思うし……」

 美鈴が言葉を切る。


 じりじりとして、俺は聞いた。

 「思うし……、の続きは?」

 「双海、お前、遺伝子をすべて読まれているんだったよな。

 つまり、お前専用の薬を作ることも可能だろうさ」

 美鈴の語調が荒い。


 「お前の利用価値を制御する気はあっても、殺すつもりはなかったということだ。

 美岬を殺さず、妊娠させるという方針も同じだ。

 私の国のやり方は、こんな甘いものではないことはよく知っているだろう?

 おそらく、これは限りなく宣戦布告に近い挨拶だ。

 状況次第で、どちらにも転ぶ。

 相手は、西にも東にも属していない。既存のどの国でもない。

 おそらくは、各国にまたがり、各機関に重なって存在しているのだろう。そういう意味では、お前たちと同じだ。

 ただ、そのやり方は極めて陰湿だ。

 人の人生に介入して、嬲るようなことをする。

 私は気に入らない」


 こんなに一度に美鈴が話すのを聞いたのは初めてだ。

 普段、あまり感情を見せない美鈴が、怒りに満ちている。

 もしかしたら、過去に自分の人生に介入されていて、嬲られ続けていたことへの怒りなのかもしれない。

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