第2話 下宿にて


 「つはものとねり」で生きていく。

 それを最終的に決心したのは、大学四年になった春だった。

 就活の方針を決めるのには、もう遅すぎる時期だった。

 公務員試験の準備が整っているからこその余裕ではあったけど、先延ばしにも限界がある。


 「バイト、急遽休みになった。

 美岬ちゃん呼んで、いい加減進路について覚悟を決めよう」

 慧思からメール。

 「了解。

 美岬に声かける。場所は俺の下宿で。

 あと、石田さん、風邪でも引いたか?」

 「なにかあったらしい。

 石田さん、教えてくれない。ま、いつものことだ」

 そんなやりとりがあって、夕方五時半には俺の下宿に三人が集まっていた。


 俺がいい加減にでっちあげた、パスタとピザトーストをかじりながら話を始める。

 美岬は大学で少しおしゃれを覚えた。

 女子力増強の効果は高く、垢抜けた感がある。色白の顔に桜色の唇、黒く長い髪。それは変わらないのに、さっくり着込んだ淡い色合いのニットのシャツがよく似合っている。

 慧思は、ユニクロの黒くて薄い、くたびれたダウンジャケットを部屋の中でも着たままだ。

 こいつ、大学でも「白衣の下は無法地帯」を地で行っているから、下手にダウンジャケットを脱がせるとなにが出てくるか分からない。妹の学費もあって金が無いのもあるけど、半分はバンカラ風に染まった趣味だ。

 作家の北杜夫さんがいた大学だから、その影響も大きい。さすがに弊衣破帽まではいかなくても、お洒落まではしたくないらしいのだ。さすがに今やバンカラを売りにする学生は多くないけど、未だ一握りは残っている。


 なお、だけど、俺の1DKの下宿だけは三人で集まれるし、盗聴対策もしてある。

 美岬は男子禁制のマンションだから、建物自体のガードが高い。必然的に、盗聴自体はされていても「泳がしておく」状態になる。

 慧思は伝統の寮生活だから、そもそもプライベートがあってないようなものだ。その野蛮さ、凄まじさは、伝統なんて飛び越えて聞くだに恐ろしい。


 バイトして、AVシステムを買った奴が夏休みに帰省した。秋に戻ってきたら、自室はドアからAVシステムまでの間に獣道ができていて、それ以外の場所は使用済みテッシュペーパーで床が埋め尽くされていたそうだ。汚ねぇ話で、これ以上の説明は勘弁してくれ。

 ともかく、俺はその状況(嗅覚的にもだ)を想像したら、文字通りに鳥肌が立ったよ。俺は間違いなく、そこでは暮らせない。

 でもって、そんなところに盗聴器を仕掛けるってのもないだろう。


 「進路自体には変更はないんだ」

 口火を切る俺。

 クルミ入りのボロネーゼのリングイネをフォークに巻きつけながら、美岬と慧思が頷く。

 話が終わりっちゃ終わりなんだけど、問題はそこから先の細部でいつも躓くのだ。


 「お前さんたちはいいってか、いいから良くないんだよな」

 慧思が言う。

 その言葉は、絶妙に俺と美岬の思いを表している。

 前半分は「お前たちはいいよな、その超越した感覚で『つはものとねり』でも安定した居場所があるし」で、後ろ半分は「だからこそ、他に進路の選択肢がないよな」と言っているのだ。


 そうなのだ。

 毎回表現は異なるけど、慧思のこの指摘は俺と美岬の戸惑いを端的に現している。

 俺も美岬も、「つはものとねり」で生きていくしかない。

 でも、それは、自分の視覚と嗅覚を隠さなくて済むということと同義で、一生それを隠して生きていくと決心しさえすれば、普通の人生を送ること自体は可能なのだ。


 結局は、そのことに対する未練だ。

 皮肉なことに、経済的に「つはものとねり」に縛られている慧思が、結果として一番腹が据わっている。

 俺と美岬は奨学金を返却するようにして今までの恩を返すことが可能だけど、慧思は妹がいて、自分の卒業後もまだまだ掛かるその学費を考えれば、「つはものとねり」を抜きにした未来なんて考えられない。


 俺、別に「つはものとねり」に関わる二重生活が嫌なわけではない。

 覚悟もある。

 問題はあくまで、強いられた進路に対する「ささくれ」のようなものを解消できないことで、それに過ぎない。


 結局は、いろいろ考えてしまうのだ。

 美岬もそうだ。

 俺が美岬を就職しても数年で辞めさせると宣言をしたことが、ここへ来て尾を引いている。「つはものとねり」に数年務め、何事も成せずに辞めるくらいならば、最初からどこかでまともな公務員になる方が正しいのではないか? そんな疑問が解決できないのだ。


 そんな各論に入ると、大元の幹の「進路」に疑問が生じてしまう。

 でも、あくまで枝葉の思いだから、「じゃ、『つはものとねり』への進路選択をやめりゃいいじゃん」という考えにも賛同できない。

 かくして、どうどうめぐりの愚痴にちかいものが空気に漂うのだ。

 きっと、公務員試験なりの日程が近づけば、自動的に解決してしまう問題だと思う。

 強制的に結論を出させられれば、実際には「つはものとねり」以外に進路はない。

 だからこそ、モラトリアム期間に揺らげるだけ揺らいでいるのだ。

 自覚しているけど、完全に「無駄」な揺らぎなのだ。



 「双海、それはそうと連絡があって、石田さん、東京らしいぜ」

 「そか、それでバイトが休みか」

 「なんかさ、今度の立太子の礼の関係でいろいろあるらしい」

 「あの人? いや、あの御方?」

 とっさに用語が出てこないけど、この程度の単語で良かったっけ?


 一度だけ、俺と慧思は会っている。

 俺の身代わりになってくれて、帝国ホテルからアークヒルズの手前の虎ノ門病院まで一緒になったのだ。あれは、十七歳のときだったから、もう五年近くも前になる。

 で、南の御今上の唯一の男子だったから、立場的なものは揺るぎなかったけども、今回正式に立太子される儀式があるんだよね。もっとも、それを知らせる先がそうあるわけじゃないけれど。ただ、手順だけはしっかり踏んでいないと、次の南帝としての正当性を失いかねないからね。

 同い歳ぐらいに見えたから、もしかしたら一つ歳上で、大学なりを卒業するのに合わせたのかも知れない。


 「どんな御方だった?」

 興味津々といった体で、美岬が聞く。

 そか、美岬は会ったことなかったのか。

 「なんか、俺たちより育ちが良さそうで、喋り方もゆっくりで品がよかった。

 だけど、怒らせると辛辣かもって感じはしたよ」

 そう説明する。

 慧思が横で頷く。

 遠慮して特にどうこう慧思と話すことはなかったけど、同じイメージを抱いていたんだな。


 「そっかぁ……」

 と美岬。

 「んだな」

 「ああ」

 などと、俺と慧思から、言葉にならない感嘆詞みたいなものが漏れる。

 まぁ、「つはものとねり」で働くとしたら、これからの人生はあの御方のために生きることになる。

 なんか、それが初めて具体的になった瞬間だった。


 結局、その日もなにも進展しないまま、解散となった。

 皿は、慧思に洗わせた。

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