第32話 世の中は驚異に満ちています
いい加減うんざりしてきた。
十分間ほど、泣き言を小田さんあて通信の上で愚痴る。
姉が殺されたりしたら、俺も死んだほうがマシだ、などと極端なまでに悲観的に話す。
聞かれているのを前提にした演技だけど、その演技が自分の心象風景に良い結果を及ぼすことなんかあるはずもない。
美岬は、武藤さんの指示を文書化するため、MacBook上で偽の指令文らしきものをこしらえている。美岬も相当疲れているはずだ。各所に辻褄を追わせ、矛盾を生じさせない嘘を付くというのは、極めて高度な知的作業なのだ。すでに、このMacBookはリアルタイムで筒抜けになっている前提で書類を作っている以上、偽の指令文を作る推敲に至るまでが矛盾なく偽装である必要がある。
飲み飽きたコーヒーのカップを押しやり、ぼんやりと視線が家の外のモニターに走り、思わずぎょっとした。
ディスプレイに集中している、美岬の袖をそっと引っ張って注意を引く。
俺の視線に誘導されてモニターを見た美岬の体も、一瞬、驚きのあまり強ばったのが分る。
この部屋は、おそらく会話はもう筒抜けだけど、もともとカメラはない。
とはいえ、おそらく美岬の使っているMacBookのカメラは、すでに乗っ取られているだろう。
その死角をついて、俺、玄関から石田佐を無言のまま案内する。
武藤さんも目を開けて、さすがに一瞬驚きの表情を浮かべた。
「なぜ?」
唇の動きだけで問う。
石田佐、紙を手渡してくる。
ああ、すべて書いてきたんですね、さすがです。
そこにはこう書いてあった。
「骨董市に行商に出かける、仲間のトラックの荷台に潜り込んできた。
遠回りして五時間かけた。
歳だな、全身が痛い」
美岬と二人で、同情的な眼差しになる。頭が白髪ばかりになる歳で、本気の隠れんぼを強いられれば、それが辛くないはずがない。
「上品」ってのがキーワードみたいなこの人が、汗臭くて埃っぽいなんてありえないと思うし、全身の疲労は相当のものなのだろう。
その一方で、揺れる荷台の中で、教科書みたいな達筆で愚痴をメモっている姿を想像すると、そこはかとなく可笑しいのも事実。
とはいえ、実際に笑えはしねーけどさ。
石田佐、次の紙をぺらりと差し出す。
「グレッグは、私の思いどおりに泳いでいる」
なんですと!?
「遺伝情報を盗ませるために、君たちをアメリカに連れて行った」
ちょっと、待て!?
どういうことだ、それは!?
美岬が唇の動きで、「坪内佐はそれを?」と聞いた。
もう、今回のことについて、驚くことはないと思っていだけど、ここに来てこれかよ!?
そこへ武藤さんの声が響く。
「疲れただろう。しばらくペットボトルでも開けて、口を湿しながら休憩しなさい」
「はい」
二人で声を揃えて返事をする。
無言での石田佐とのやりとりを続けていて、盗聴傍受している相手に不自然な間を悟られないように演技を入れてくれたのだ。
ぺらり。紙が裏返される。
「坪内君から、独立専用回線で連絡が来た。たった一回の使用で物理的に遮断されて使えなくなったが、その一回で用は足りたよ。
双海の姉の件も認識している」
なるほど。
「なぜ、ここに?」
唇の動きだけでも、こんな短文であれば間違えようがないだろう。
別の紙。
「加藤景悟郎の血液と、加藤景悟郎と妻の美緒の娘である、三代目明眼の美和の血液を持ってきた」
三回繰り返し読んで、ようやく頭が理解の拒否をやめる。
さっきまで、今回のことについて、驚くことはもうないだろうとか思っていだけど、もう、無理。
世の中は驚異に満ちています。
だいたい、なんでよ!?
なんで、幕末の人の血液があるんだよ!?
石田佐は、バッグの中からジップロックに入ったなにかをごそごそと取り出した。
一つは、手ぬぐいを裂いて、末端のみが茶色と黒の混じったような色に染まったもの。
もう一つは、小さな桐の箱に入った……、へその緒だよな、これ。
思わず、武藤さんと視線を交わす。
この手拭、もしかしたら、真気水鋩流のサインじゃないかな?
一本ならば「味方」。
二本ならば妥協できぬ「敵」。
三本ならば「敵という偽装で実は味方」。要は、トリックありということだ。
これらは、武藤さんから一番最初に教わった。流派内でのサインの方法だ。
三本の意味の説明をされたとき、思わず「聖極輪の構えですね?」と言ってしまって、武藤さんに笑われてしまったのだ。そして、武藤さんも漫画を読むんだと思ったのだった。
石田佐に、この裂かれた手拭の意味を明かししてあげたいけれど、それは残念ながらできない。それがちょっと、いや、かなり申し訳ない。
ぺらり。紙が裏返される。
「ペリーが浦賀に来た時に、なんらかの信号を送るために、こういうのを使ったらしい。
朱がなく、しかたなく加藤景悟郎が自分の腕を傷つけて、赤く染めて使用したということだ。
そこまでして染めたものなので、妻の美緒も処分できなかったらしくて今に伝わっている。
もう一つは見て分かるとおり、加藤景悟郎と美緒の娘のへその緒だ。
俺、今ほど、歴史ってのが現在につながっていると実感したことはない。
両方足しても、重さが百グラムなんて行くわっきゃない。
でも、感覚的にはトンの単位の重さのものに見えた。
ぺらり。
「DNAの解析は無理でも、ここでも血液型ならば分析できるのではないか?」
できる、できる!
大型救急医療キットの中に、緊急輸血の際に使う簡易判定セットがあるはずだ。
ここは組織の拠点の一つだから、そのキットはあるはずだし、それは血痕からでも分析ができるタイプだったはず。
美岬が弾かれたように立ち上がって、昨夜武藤佐が取り出しておいた荷物をひっくり返す。
そして、両手で紙の箱を胸に抱いて戻ってきて、血液型の判定キットを取り出した。そのあと、二人でざっと取説を読み下す。
救急キットの中から薄いゴム手袋とメスを取り出す。手袋をしてから、それぞれの試料から慎重にメスで赤黒い粉を削り落とした。
その試料を生理食塩水で懸濁し、少量の抗体試薬の中に数滴ずつ落とす。
結果はすぐに出た。
加藤景悟郎、AB型。
美和、B型。
新生児の血液型の判定は難しくて、A型やB型をO型に誤認することがある。でも、その逆はない。ほぼ間違いなくB型だろう。
さらにだれど、俺たちの拙いサンプル採取で、へその緒の外側に二代目の美緒さんの血液が付着していて、それを分析してしまった可能性もあるだろう。けれど、要はご先祖様の誰かが美岬のO型と異なれば良いんだから、分析の価値は変わらない。
横にいる美岬が、息を呑むのが分かった。そして、混乱に近い感情の動きを示すにおい。
代々の明眼は、クローンじゃなかった。
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