第5話 歴史とか経緯とかって怖いわ その1
石田佐は、テーブルの下から、菓子鉢を取り出した。
乗っているのは駄菓子だけど、鉢は古く風格がある。というか、それしか俺には判らない。
「少しリラックスしなさい。予約がない客は滅多に来ない店だから、姿勢も崩して構わないよ」
「はい」
きっと、客が来るときは、とんでもない額が動くんだろうけどな。
「南朝の終わりについては、どこまで知っているかな?」
美岬も俺も、なんとなく慧思を見る。
こいつは、歴史マニアに近い。
「1457年に長禄の変が起きました。室町時代ですね。赤松氏の遺臣らが、南朝の血を引いた自天王とその征夷大将軍である忠義王の兄弟を騙し討ちにしました。この際、南朝が持っていた神璽を奪われています」
「ほう、なかなかよく勉強しているようだね。普通の高校生なら知らないよ。
後小松帝が出るかと思っていた」
おお、やはり慧思に答えてもらって正解だった。
「討たれた以上、血統は途絶えたと見るべきなんでしょうけれど」
「そうだな。
そのとおりだが、歴史には、当時の常識にそった必然への理解が必要だ。最低でも十年ぐらいは遡って、その他の事件との関連を総括的に見る必要があるんだ。
長禄の変の八年前に、中国の『明』で『土木の変』が起きている。
異民族が侵入し、時の皇帝が囚われるという、あってはならないことがね。
当時、元寇の記憶が薄れてきていたとはいえ、また、『元』の次の王朝である『明』と関係が良かったとはいえ、南朝派、北朝派はこのことについて協議を行ったんだよ。
『明』との関係が良いからこそ、『明』の次の王朝との仲が、『元』のときと同じように悪くなることは十分に考えられることだからね。
南北朝とも、『しがらみを捨てて話し合った』とは言わないが、他の国からの侵略に備え、複数の血筋を残し続けることが合意されたんだ。
そこで、北朝、南朝共に密かにそのための工作が行われ、それには双方の協力がされた。
将軍足利義教を嘉吉の乱で討った赤松氏は没落していたが、お家再興の機会を与えられ良い道具となった。
そして、より深く歴史の闇に潜行したのが我々の組織だったわけだ」
「『長禄の変』は、偽装だったと?」
慧思が聞く。
「そうだ。天皇家としては、当時の武家による皇室利用を快く思っていたわけはなく、かといって、元寇のような事態に対応できるのは武家のみ。
当時の日本の武士団は、世界最強だった。
その武士団と共存する以上、リスク管理も考えておかねばならなかった。
天皇家自身としては、南北朝と言っても親戚間の話だし、潜行することで親戚間の疑心暗鬼による殺し合いになるリスクも減るから、実は願ったり叶ったりだった。
結局は、親戚間より、それを担ぐ人間の方が争いに積極的になっていたからね」
「内外ともにリスクがあるとされていたから、より深く隠れたんですね。それでは、お話の通りならば、今も主上は表に一人、裏に一人。南朝系が一人、計で、三人有らせられると?」
石田佐は頷いた。
「そういう事になるな。私が知る範囲だけならば。もう一筋ぐらいバックアップの血脈があっても、驚きはしないがね」
そう言って、お茶をすする。
思えば、武藤佐も「もう一筋ぐらい血脈があっても、驚きはしない」と言っていた。二人の佐が、揃って同じようなことを言ったことが引っかかった。佐クラスの人は、知っているんじゃないだろうか。「もう一筋くらい」の存在を。
俺も、お茶を一口。
香りから感じてはいたけど、これほど美味い緑茶を飲んだのは初めてだ。甘みと渋み、ほのかな旨みの調和が素晴らしい。
まぁ、八桁からの単位の買い物をしてくれる客に、百グラム五百円のコンビニのお茶っ葉のお茶は出せないよな。
「中国だけでなく、ヨーロッパでも王朝の移り変わりはありました。そういう情報が入る度に、血筋のバックアップが増えてしまったということはないのですか」
慧思が聞く。
石田佐は半眼になって答えてくれた。
「わからない。我々以外に、より深く潜行した血筋と組織が無いとは言えないからね。
ただ、護衛となる組織もなしに、血筋だけを放り出すわけにはいかない。あとあとに血筋の証明のためにも、ある程度の文物と組織は必要だからね。
そういうことから、無節操に増えたということはないと思うよ。ただ、そういった事件が起きると、『つはものとねり』も改変を迫られることがある。特に、フランス革命の時には大きく変わっている」
石田佐が答えてはくれるけど、いまひとつピンとこない。フランス革命が、なぜに「つはものとねり」に影響する?
慧思が、横目で俺の顔を見て、疑問に感じたのを察したのだろう。
説明がてら、その内容を確認をしてくれる気になったらしい。
「石田佐、間違っていたら訂正をお願いします。
今の話で、私自身、一つに繋げて考えることができたのですが、幕府は建前ではオランダ風説書から海外の情報を得ていましたけど、それだけでなくそれなりに諸外国の情報を収集していたんですね。そして、おそらくは、幕府上層部なりを通じて、その情報が一定範囲の周知がされていた。『つはものとねり』も、その情報を知る立場にあった。
そう考えると、
1789年、フランス革命
1790年、寛政異学の禁
1792年、林子平の海国兵談、ロシアのラックスマンの来日
1798年、本居宣長の古事記伝
1800年、伊能忠敬の日本全図測量開始
1808年、間宮林蔵の樺太探検
1821年、伊能忠敬の日本全図完成
1825年、外国船打払令
1828年、シーボルトが伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出すシーボルト事件
ここまでが、一直線につながります。
外国で起きた事件に対する日本の現実的、思想的対応と、外国からの日本に対する働きかけです。これって、この時期に重なっているけれど、必然があったということですよね。その必然に沿って、『つはものとねり』も変わる必要があったと」
なるほど、考えてみれば、重要な事件の時は対応が早く、準備が出来たら次の段階という流れが見えるような気がする。そして、それぞれに繋がることが多い。
フランス革命を経て幕府の思想、防衛構想への対応があり、外国船打払令の前には、国土がどこまでかを定め、防衛の最重要情報である地図ができているんだ。
ついでに言うなら、海国兵談は二年間の執筆期間、古事記伝は五年の執筆期間が必要だったということだったのかな、と俺は思った。
石田佐が、感心した顔になった。
「菊池君、気に入った。
お世辞抜きに、本当によく勉強しているね。
フランス革命の元として、王権に対する貴族の反抗が始まったのは1787年だった。幕府にしてみれば、藩の反逆に相当するから、その行方には注視していたことだろう。
また、古事記伝が書き出されたのはずっと前の1764年とされているが、一般に知られるべきである形である版本としての刊行は1790年だ。
林子平も海国兵談が書き出されたのはずっと前だが、世に知らせようとした時期は、この時期に重なる。ここに意図と作為を感じるべきだ」
あ、そか、執筆期間なんて考えた俺が浅はかだったか。
それにしても、西洋からの情報伝達の時間差を考えても、やっぱりタイミングはいい。
美岬が質問した。
「『その必然に沿って、つはものとねりも変わる必要があった』と菊池くんは言いましたが、様々な手を打つ過程で自ら変わったのですか? それとも、変えられたのですか?」
「当時、北朝側の『つはものとねり』が、表向き、変わらず存続していたのは知っているね?」
石田佐が確認をするように言う。
それはさすがに知っていた。wikiで分かることであれば、読んでいる。
「表向き、ある意味公認された組織であり、それが幕藩体制の中でどのような実態だったかは想像がつくと思う。具体的には、平安時代、平知盛が左兵衛督だったが、官位は、権中納言、従二位だった。
それが幕末には、播磨明石藩主の松平
組織としての存在が軽くなっているんだ。
しかし、南の我々はそれに縛られなかった。それでも、組織成立から長い時間を経て、その活動は形式的になり、組織を代表する督は名誉職となった。実戦的な活動ができなくなる寸前まで行っていたのだ」
俺たちは、無言で聞いていた。
石田佐は、美岬に聞く。
「今の質問が出たという事は、初代の『明眼』の話を知っているのだね?」
『明眼』って、組織の中での、美岬の特異能力の
坪内佐が去年言っていた。美岬の母親である武藤佐が、九代目の『明眼』だと。そりゃ、九代目がいるならば、当然初代もいるよな。
そう思いながら、美岬の方を見る。
「一応は聞いていますが、それがどこまで客観的な話かは判りません」
「そうか。では、私が知っている、客観的事実を話そう。
もっとも、歴史における客観的事実とは、文書による記録が残っていて、それが他の文書、発掘された事実と矛盾しないという意味に過ぎないが……。
そもそも、歴史学上、文書に残らない陰謀など、無に等しい扱いだからね。まあ、なんでも陰謀論にしてしまうのも困ったものだが……。
まあ、アメリカ合衆国との関係にしても、明眼の家系に語り継がれてきた話の方が、より真実に近い可能性は高いとは思うよ」
そう前置きをして、石田佐は、お茶をで口を湿して話し出した。
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