第44話 俺の戦い


 背中のすぐ後ろから、犬の足音と息遣いが大きくなっていく。

 空気の流れより走るほうが速いので、犬のにおいは嗅げていない。

 暗い中、もつれる足を動かす。

 ああ、毎日走っていてよかった。一年前の俺ならば、絶対、ここまで走れない。右腕の痛みで、本来のスピードではない。

 それでも走れる。走っている。


 慧思は、風上に向かって走っている。あいつの行き先には川がある。川のにおいがしていた。だから、あいつは大丈夫なはずだ。においは川で撹乱できるし、最初の体当たりさえ防げれば、水に沈めることもできる。

 こちらは、ただひたすらに、風下に向かって走っている。風下、すなわち車で走ってきた道に徐々に戻りつつある。


 もうちょっとで追いつかれる。

 ドーベルマンは人の倍近い速さで走る。

 でもな、嗅覚は一緒でも、ヒトとしての記憶はイヌより良いはずだ。って、犬と頭の中身を競うのは、ちょっと情けないか。


 とにかく、風下に向かって走っているから、ドーベルマンにはこの先に何があるかは分らないけど、ここに来る時に車窓から見た俺には分っている。

 障害物を利用し、一直線に後ろのドーベルマンを走らせないようにする。スピードがのってしまったら、どうやっても太刀打ちができないからだ。コンマ数秒ずつを浪費させ、積み重ね、追いつかれないように走る。

 美岬の髪もポイントポイントで撒き、嗅覚へのフェイントにする。二度、においを嗅ぐために足止めさせることができた。

 野球場の防護ネットを潜った。数秒だけど、ネットに阻まれてドーベルマンの動きが遅れた。ここでも、貴重な数秒を得たことになる。


 野球場を抜け、さらに数歩走る。

 背中で感じている殺気が、一気に膨れあがった。

 野球のグラウンドに障害物はない。存分に走られた。髪の毛を撒くフェイントも学習された。もうその手はきかない。

 もう、無理だ。時間を稼げない。

 でも、間に合った。

 一瞬伸び上がるようにフェイントをかけ、次の瞬間には逆に体を丸めて、そのまま来る時に何気なく見ていた農業用水路に転がり込む。幅は八十センチほど、深さは一メートルを越えるほどだ。

 流れている水自体は、かろうじて仰向けになった俺の体が沈む程度しかない。でも、夏だから、水がないことはないという読みは当たった。


 全身をそのまま伸ばして、沈み込む。

 水はきれいではない。藻も生えていてヌルヌルする。なによりも、臭気は相当のものだ。普通ならば絶対入りたくない。

 でも、相手は軍用犬、まともに戦って勝てはしないし、もし、勝てても大怪我するだろう。って、怪我ならもうしているか……。


 せめて冬ならば、腕に服を巻き付けて噛み付かせるなどの方法もあるんだけれどな。夏では服が薄すぎて、その手は使えない。今は与えられた条件で、最善の方法をとるしかない。

 ドーベルマンは俺のフェイントで農業用水路を飛び越し、振り返ってこつ然と消えた目標に呆然としている頃だ。俺のにおいまでが全く消えているはずだし、水路の底は目で探せる明るさではない。もともと、犬はそこまで目は良くないし。


 水の中で息を止め、流されないように水路の壁に全身を使って突っ張って、そして待つ。

 俺は、遠藤さんのしごきのおかげで、どんな状態からでも一分は息を止めていられるようになっている。条件が整えば、三分が可能だ。

 ゆっくりと三十を数えてから、そっと顔だけ水から出してみる。ちゃっちゃっちゃっ、という軽い音。犬の爪がアスファルトに当たる音だ。水路沿いを小走りに駆けながら、俺を捜しているのだろう。


 俺が倒されたら、次は美岬の番になってしまう。ここで確実に無力化しないと。


 一つ大きく息をする。

 犬の足音が止まる。気がついたようだ。ここの水深は二十センチほど、俺の計画には十分過ぎるほどだ。


 待つ。

 不意に視界が暗くなる。ドーベルマンが一気に、真上から飛びかかってきたのだ。四肢を広げ、牙をむき出しにして落ちてくる。

 予想した通りだ。

 良い鼻だ。

 おまけに、相当の訓練を積んだらしく、犬のくせによい判断だ。

 俺の顔の位置を正確につかみ、そこに最大の武器である牙を持ってきている。別のところに着水してから走り寄っても、水深からまともなスピードで走れないということまで判断しているに違いない。


 だけど、それこそが俺の狙いだ。

 ここに人としての矜持を掛けていた、といってもいい。

 左腕をフックのように伸ばし、ドーベルマンの脇腹を横から攫う。リーチは人の方が長いんだよ。


 本当は利き腕の右を使いたかったけど、もう動かないんだ。

 犬の怖さはその突進力にある。でも、突進による加速もなく、ただ落ちてくるドーベルマンはたいして恐くない。で、この状況でのスピードは、自由落下以上のものじゃない。


 そのまま一気に回転して、ドーベルマンを自分の体の下敷きにして水に沈めようとしたけど、水路の幅が狭く、水路の壁に思い切り叩き付けてしまうことになった。

 「ギャウ!」

 ドーベルマンが、悲鳴のような声を上げる。水路の壁と俺の腕に脇腹を挟まれて、肺の空気が叩き出されたのだ。本来は吠えないように、訓練されているはずだ。


 しかし、結果として、一気に回って水面下に沈められない。それでも、動きが鈍ったドーベルマンを力づくで水路に沈め、自分の体重でのしかかる。

 ドーベルマンの首の下に前腕を差しこみ、顔が浮かび上がれないようにする。首輪に付いた鋭い突起が前腕に食い込むけど、犬の牙よりはマシ、構ってはいられない。さらに、激しく両手足を動かされて爪が痛い。でも、所詮牙ほど鋭くはなく、また、服の上からだ。その抵抗自体も、訓練で作った筋肉の壁と体重で押さえこむ。

 ドーベルマンの顔を水から出したら、こちらがおしまいだ。なんせ、ドーベルマンと一緒に水路の壁に思い切り叩き付けた左腕も、もうまともには使えない。


 全身で押さえつけて、三十秒。

 水路が狭いのが幸いした。

 ドーベルマンが、俺の体の右か左から逃げようとしても、水路の壁を使って正面から押さえ込み続ける。

 ドーベルマンの四肢が俺の身体を浮かせても、その顔は水面から出させない。


 一気に泡が立つ。水を飲んでいる。

 泡からは、ドーベルマンのアドレナリンと絶望、そして諦めのにおいがする。

 俺はなにをしているんだろう?

 今まで動物を殺したことなんかないのに。


 こいつはまともな生き物ではない。

 銃よりはるかに恐ろしい兵器なのだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 ここで手を緩めても、感謝なんかしないし、改めて襲われるのは自明のことだ。そして、そうなったら、もう俺に勝ち目はない。喉笛を噛みちぎられるだけだ。


 ごめんな。

 「許せ」なんてことは言わない。

 でも、本当に、ごめんな。

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