第35話 自衛隊基地にて
自衛隊の基地の官舎の一室に、双海真由と菊池弥生は保護されていた。
それぞれ、弟と兄の事情でここにいる。
その事情を姉である双海真由は知っていたが、妹である菊池弥生は知らなかった。ただ、妹として、兄は信用していた。兄が家から連れ出してくれたおかげで、痛い目にあったり、食事が食べられなかったり、風呂に入れなかったりということがなくなった。
兄がどこから生活費を稼いでいるのは知らなかったけれど、小田という警察の優しいおじさんが、兄があまりに優秀なので奨学金みたいなものが出ているんだと言うので納得はしていた。
兄は、学校が休みの度に出かけた。
一緒に行けることもあった。
兄はどこかの寮みたいなところで、ひたすら勉強し、体を鍛えていた。弥生は、自分の肉親は兄だけだと思っていた。だから、兄が頑張りすぎないかが心配だった。そして、兄の訓練が終わるのを、一人で待っているのは寂しかった。
でも、今回は、寂しくなかった。
弥生の目から見て、真由姉さんは超凄い人だった。双海さんと最初は呼んだのだけど、「真由さんでいいよ」と言われ、年上の女性を単に「さん」付けでは呼びにくかったので、「お姉さん」を付けたのだ。だから、最初は「真由お姉さん」だったのだけど、最初の数回以降は「お」を省略してしまった。
官舎には、家電が一通り揃っていたし、冷蔵庫には食材が入っていた。真由姉さんのお料理は、弥生にとって素晴らしく美味しかった。ただ単に鶏肉を焼いただけでも、兄や自分が焼いたものとはぜんぜん違うものだった。
かろうじて持ち込めた、宿題の解らないところも解りやすく教えてくれた。
そして、大きな声では言えないけれど、弥生の見るところ、一番凄いのはお酒の飲みっぷりだった。
そして、真由姉さんと一番解り合えると思ったのは、弟を心配していることだった。真由姉さんの弟は、兄の同級生の真さんで、まっすぐな目をしていてかっこ良かった。兄は、真さんといつも一緒にいた。そして、真さんもハードな訓練を受けていた。だから、弥生には、真由姉さんの心配が、自分が抱えている心配とまったく同じものだと解っていた。
「弥生ちゃん、今度、うちに遊びにおいでよ。真兄さんもお料理上手だよ。たぶん、私より上手。だから、姉として負けないように、真面目にお料理習っているんだよ。弥生ちゃんがよかったら教えてあげる。慧思お兄ちゃんに作ってあげて」
真由姉さんは、そう言ってくれた。
弥生は素直に嬉しかった。高校生の兄と中学に入ったばかりの自分では、家事の能力が低くていろいろが思うように行かなかった。鶏肉を焼くのに塩水に軽く漬けるなんて考えもしなかったし、その後、焼いて胡椒を振っただけのソテーがここまで違うのだから、他のこともきっと上手なのに違いない。
二晩目がきた。
弥生は、危ないと言われている理由は聞いていない。
けれど、真由姉さんが、周囲にとても気をつけていることは窺えた。部屋のカーテンを昼間も開けなかったし、そもそも官舎からは一歩も出なかった。居ない部屋も、テレビと電気を付けっぱなしにしていたし、狙われているというのが否応なく実感できた。
ここが自衛隊の基地ということは解っていたので、警察の小田さんから聞いていた説明だけでは納得がいかなくなった。弥生は、真由姉さんに聞いてみた。けれども、真由姉さんも、詳しいことを教えてくれなかった。
「そのうちに、弥生ちゃんが解るようになったら、そうね、中学を卒業するまでには、絶対に話してもらえるから。ただね、弥生ちゃんのお兄ちゃんと私の弟は、みんなを守るために戦おうとしているの。だから、私たちが足手纏いになっちゃいけないの」
真由姉さんは、少し寂しそうに言った。
弥生は、それには気がつかない振りをした。弥生も同じ思いを抱いていたからだ。
弥生はテレビの音量を上げた。動揺を共有して自分の弱いところ、真由姉さんの弱いところを見たくなかったからだ。
その時、真由姉さんが弥生の腕を押さえた。
「そのまま、そっと、テーブルに近づいて。なにかあったら、テーブルの上にある非常時用に渡されたボタンを押すのよ」
この部屋に入ったとき、案内してくれた人が真っ先に説明してくれたものだった。ファミリーレストランで、店員さんを呼ぶ時に使うようなボタン。弥生は無言で頷いて、そっと立ち上がった。
その瞬間、ごく小さなガラスの砕ける音がした。ガラスサッシ戸の鍵の周りだけをガラス切りで切り抜かれたのだ。真由姉さんは、そのガラスが切られる時の音を聴いたに違いないと弥生は思った。
テーブルまでの三メートルが、いきなり無限の距離になった。手も足も重くて自分のものではないようだった。それでも、必死にボタンにたどり着き、必死に押す。
そして、そのまま胸に抱え込んだ。
振り返ると、真由姉さんに男が襲いかかるところだった。男の後ろには、更に別の男たちが見えた。口の中がはりついて、悲鳴すら上げられなかった。
隣の部屋からもガラスが割れる音がした。一体何人で襲ってきたんだろうと、弥生の視界は絶望で真っ暗になった。
男が真由姉さんの腕を掴んだ。
次の瞬間、弥生には何が起きたかよく解らなかった。が、男は、口の中で苦鳴をかみ殺しながら膝をついた。真由姉さんは、自分の腕を掴んだ男の手を、もう片方の手で押さえて、上半身を軽く前に倒しているように見えた。そのまま体を引くと、男の体は床で長く伸びたままとなった。その男の体自体が障害物となって、他の男の対応が一瞬遅れた。
弥生があとから思うには、真由姉さんが男の腕を離さなかったので、次に何をするんだと、他の男たちが戸惑ったというのもあるんだろうな。
でも、その一瞬ですべての光景が変わった。
官舎の同じ階の自衛隊の人たちが、次々と乱入してきたのだ。最初の数人が入ってきた瞬間、男たちは逃げようとしたけれど、その時にはもうベランダにも自衛隊の人たちが溢れていた。「どっから入って来たのだろ? こんなにたくさん」と弥生は思った。当然、武器を出す暇もなかったようだ。
もしも、それでも武器を出したとしたら、確実に手加減してもらえなくなるだろうなとも思った。
男たちは四人いた。
弥生にとって恐怖と、その一方でこの経験がトラウマにならずに済んだ理由の、思わず笑ってしまった事態が起き始めていた。
「実戦だ、実戦!」
「馬鹿野郎、独り占めするな、俺にもやらせろ!」
「こんな機会、滅多にないんだ、俺にもやらせろ!」
「おい、腕ぐらいなら試しに折ってもいいのか? いいよな? やっちまうぞ」
男たちは一瞬で制圧され、なぜか解放されては制圧された。
もの凄い迫力なのに、どう見ても、楽しんでいるようにしか見えなかった。
真由姉さんのつぶやきが聞こえた。
「あわれな……」
弥生は、全面的に同意したい気分だった。もっとも、笑っちゃいながらだったけれど。
「敷地外、東と西、車一台づつにそれぞれ一人が待機している。既に退路は断ってある。すみやかに身柄を押さえろ」
あとから入ってきた、偉そうな人が命令した。
数人の見張りを残して、残りの全員が嬉々として走り出して行く。
「次こそ、俺にやらせろ」
とか、想像すると怖いことを言いながら。弥生は、漫画に出てくる台詞で、「殺る」に「やる」とルビが振ってあるのを思い出した。もっとも、制圧された四人は、誰も腕を折られてはいなかったのだけれども。
そう、腕は折られていなかったけれど、結束バンドでぐるぐる巻きに近いまで固定されていた。
なにもそこまで、って感じだ。
嵐が来て、一瞬で去って行ったようだった。
「見事でしたね。二教、実戦で使えましたね」
さっき、命令した人が言った。
「お恥ずかしいです。まだまだ稽古しないと」
真由姉さんは言ったけど、命令した人はそれを否定した。
「いいえ、お見事でした。
週に一度、道場でご一緒していますから、技を使えることは分かっていました。が、実戦で臆せず使えるかというのは別の話です。
あなたたちが人質にされて立て籠られたら、こんな短時間ではどうにもならなかったでしょう。相手の出端をくじいて頂けたおかげです。ありがとうございました」
外から怒声が聞こえてきた。
残りの二人が制圧されつつあるらしい。おもちゃを与えられた猫のようだと、弥生は思った。
弥生は、この時になって初めて安心したけれど、指がこわばってしまって手からボタンを離すことがどうしてもできなかった。
この日の深夜、もう一つ事件が起きた。弥生は寝てしまっていて、目撃できなかったのだけれど……。
乱入した自衛官たちは、その晩、盛大に飲んだらしい。そして、真由姉さんに全員が酔い潰されたらしい。
以降、この基地で真由姉さんは、伝説の女神となった。
もちろん、弥生にとっても、だ。
そして、翌朝、飲んだ自衛官たちは、基地内飲酒がバレて、めちゃくちゃ怒られたらしい。その日、弥生が窓から外を見ると、腕立て伏せとランニングを交互に、えんえんと、そう、えんえんと続けさせられていた
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