第32話 戦闘開始命令


 ロンドン、ストランドのサヴォイ・ホテルの一室。

 副官格を従えて立つ武藤佐は、戦いの女神の風格があった。

 「戦闘を開始してください」

 口調は早いが、極めて穏やかだ。

 「はっ」

 遠藤も小田も、他のバディたちも短く返答を返す。


 彼らの上司は、通常の任務の時は作戦開始という言葉を使う。が、今回、戦闘開始を宣言した以上、後戻りはない。

 抜かれた刃物は、血を吸うまで納められることはない。

 武藤佐が、実戦部隊の長とはいいながら、最後まで刃物を抜きたがらないタイプなのは「つはものとねり」の誰もが知っている。しかし、一旦抜いたら、なんの躊躇もせずにそれを振るう。たとえ、相手が乳飲児でも、だ。


 そして、それが意味するのは残酷さではなく、辛辣さだ。

 彼らは未だ、この上司から「敵を殺せ」という命令を受けたことがない。

 理由は簡単だ。


 殺したら、生き残った敵は教訓を忘れる。

 殺したら、兵站が楽になる。

 「経験から学ぶ」などという意思も心も折り尽くし、「生きて復讐を」などという余力は残させない。だが、絶望と後悔の中で無為に生きつづける時間は与える。

 すなわち、殺せとは言わないが、それは不殺を意味しない。

 それが、彼らの上司の姿勢だった。娘を持つ母という側面を感じさせることなど、まったくない。

 実戦の場では、「処理」を命令される方がよっぽど楽だし、相手にとっては優しくさえある。「死は救い」という事態はあるのだ。


 遠藤より歴史の造詣が深い小田は、「武田のゆるやじり」という言葉を思い出す。戦国時代の武田軍の矢は、鏃をしっかりとは固定しなかった。これにより、射られた相手は、矢を抜いても体内に鏃が残り、残された命を縮めながら痛みとともに武田の恐ろしさを伝え続けた。

 一方で、徳川家康は、将来、統治するかもしれない農民兵に痛みを与え続ける結果になると、これを嫌った。征服者として、武田より徳川の度量が大きいことを示す逸話だが、現代において、この国が他国を征服することはもはや想定されない。

 したがって、この限定された状況下では、相手の組織内に「ゆる鏃」を残す選択の方がほぼ常に有効なのだ。


 そして、戦闘開始を宣言した以上、「つはものとねり」として無制限の実力行使が行われる。少数の人員しかいないこの組織にとって、実力行使とは振り返って確認する必要のない処理が求められる。

 とどめを刺しに戻るなどという無駄はできないのだ。ゆる鏃と断固たる処理、その二律相反を確実に行う難しさを遠藤と小田は知っている。


 だが、その一方で、無駄のない速度を保証するだけの最優先の準備、装備が与えられた。今回は、武藤佐だけでなく、坪内佐も、そして、主計を担当するもう一人の佐までが作戦コストが無制限であることを容認していると聞く。

 豊富な実戦経験を持つ二人をして、ブリーフィングで腹が冷えるような思いとともに、あらためてこの組織の力を思い知っている。



 − − − −


 「搭乗!」

 戦闘機と一線を画す大きさが、裏腹な薄さが、そしてその黒さが、異質な存在感を示していた。

 遠藤も小田も、複座の戦闘機に乗ったことがないわけではない。

 しかし、機体から吹き上がる猛烈な陽炎と、不釣り合いなまでに大きいエンジンが、通常の航空機とは明らかに違う、むしろ、何かの体温のある生命体に乗るのだというような違和感を抱かせた。


 アメリカからここまで空中給油を受けながら超音速、ノンストップで飛んできたのだ。この機の性能を出し切ったら、着陸後も、機体の発するあまりの熱に近寄ることもできないことになる。マッハ3を超える断熱圧縮による空力加熱は、鉄さえ溶かす。

 搭乗可能な機体温度になるまでの待機時間を節約するため、ロンドン手前から速度を落とし、機体を冷ましながら着陸してきたのだ。


 遠藤と小田は二機のSR71、ブラックバードの後席に体を押し込む。前席は米空軍のパイロットだ。

 見た目がほとんど宇宙服と変わらない専用の飛行服は、着るのに、いや、着せられるのに三人掛かりで小一時間かかった。既に背中は汗でびっしょりだ。

 「クリアード・フォー・テイク・オフ」

 前席が管制と話している。


 出発だ。

 これから離陸、ロシア空域手前で空中給油、燃料を満タンにする。その後は、偏西風の中をマッハ3強で移動し、ロンドン、新潟間の9000キロ超を二時間前後で踏破する予定である。

 新潟空港に着陸後、遠藤と小田を下ろして再び離陸、太平洋経由で空中給油をしてアメリカに戻る計画になっている。


 滑らかな離陸だ。

 後席の小さな窓からかろうじて見える地上が、遠く小さくなって行く。

 そのまま北海上に出る。

 後席から見ていても極めて少ない機体操作で、滑らかに空中給油機に近づいて行く。パイロットの腕は特級品だ。下手なパイロットほど操縦操作が増える。僚機も、窓越しに見える位置が、窓に貼り付けた写真のように全く変わらない。こちらも素晴らしい腕だ。


 二機のブラックバードに給油を終えると、給油機は大きく翼を振って帰還して行った。


 「よう、相棒、日本人の少佐(Major)だってな」

 それまで無言だったパイロットが、遠藤に話しかけてきた。

 「つはものとねり」での階級は大尉だが、自衛官としては三佐だ。

 「つはものとねり」での階層は、大尉の方が三佐よりよほど高いのだが、自衛隊では逆に大尉すなわち一尉の方が下である。混乱することはないものの違和感はある。しかも、Majorと呼ばれると、自分が何者か更に困惑する。もっとも、その困惑を楽しんでいる自分もいるのだが。


 パイロットのヘルメットを取った姿を見ていないので、人種も年齢も判らない。だが、その声は若いと表現するには苦みがありすぎた。

 高度計は、今も上昇を続けていることを示している。


 「ああ、世話になる」

 「まずは、ありがとうと言わせてもらおう」

 「なぜだ?」

 「再び、これを飛ばせる日が来るとは思わなかった。こいつは金食い虫でな、しかもメンテに時間はかかるわ、ミッションは選ぶわ、パイロットは選ぶわで、ずっと前に退役よ。

 だからな、こいつを操縦したパイロットは百人といないんだぜ。四千回以上のミッションをこなしているのに、だ。

 だが、こいつほどいい女はいない。もう一度乗りたいと願っていた。

 熱望していたと言っていい。僚機を操縦している同僚も同じだ。だから、本当に感謝している」

 声は年配のものだが、口調は少年のものに近い。

 それほどに、この機で飛ぶのが好きなのか。

 「悪いな、偵察任務っていうより、単なる操縦手をさせちまって」

 「いいんだ。敵の捕虜になったら、後席はスパイ、前席は雇われ運転手って自白するというジョークがあるくらいでな。今回も、そのまんまなんだよ。再びこいつを飛ばせて、敵の尻に蹴りを入れられるってんだから、気分は申し分ないぜ。

 フロントガラスにヒビが入るまで加速してやる」

 「おいおい、僚機は付いて来れるのかい?」

 「ふん、あいつも同じ思いだよ。この機は特別なんだ。この機に乗った人間にしか解らない世界があるのさ。ニイガタに着くまでに、お前にも解るよ」


 あまりに細かい機器に囲まれているので、身をすくめるようにして後席から外を見る。夕方が近づいている。とはいえ、この緯度では夏の昼間は極めて長い。

 星が見え出した。高度を稼ぎ、宇宙に近くなったのだ。ここまで来ると、昼間でも星が見える。


 姫、双海、菊池、待っていろ。

 今、行く。

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