第16話 ジュリエットの薬TXα
「美岬?」
「はい」
「あなたたちの作戦、殺されたふりをするのは基本的に良い考えだけど、技術的ハードルが二つあります。解ってる?」
うん、解っている。
でも、俺たちには対策がどうにも思いつかなかった。だから、こういう考えもあるというだけで、それ以上の検討はできなかったし、プラン以前のアイデアとしてしか書かなかった。
「一つは、誘拐されてから殺害されると思われる時間までの間の安全確保、もう一つは、損壊行為直前のすり替えよ」
「はい。解っています。
二日、耐え抜きます。すり替えは、双海くんたちと坪内佐にお願いするしかないと」
「馬鹿を言っているんじゃないわよ。若い女が、二日間あればどれほどの目に合わされるか、理解していないんじゃないの? 女としての尊厳も、人としての尊厳も全て奪われるのに十分な時間よ。双海くんは反対しなかったの?」
しましたとも、はい。
「双海くんは反対だけど、私は、相手の反応を先読みすれば、なんとかなると」
「なるわけないでしょ。
あなたが、これほど無鉄砲なことを考えるようになるとは思わなかった。呆れるわ。
とにかく、アイデア自体は悪くないので、三つの手を同時進行します。
一つ目、一気に相手を追いつめます。
もう、そろそろ25時間しかないわね、誘拐までは。
そのあとの殺害予告時間まで含めて、余裕を相手から奪います。具体的には48時間から、8時間以内になるまで相手を追い込みます。
そして、その時間の変更を相手側が選択したら、予知とか言っていることが完全に戯言だという証明になるわ。
『自分に有利であれば、前倒しも可』なんて予知はありえません。
二つ目、そちらに、すぐにでもTXαが届くように、坪内佐に依頼しておきます。一度話したけれど、この薬のことは解っているわね?」
「はい」
美岬の返事は短い。
が、なんか、緊張を通り越して、恐怖を感じてないか?
「TXαを飲む決心がつかないならば、この作戦は棄却します。
私としては、この薬を飲まないで欲しいというのが本音で、この作戦自体に積極的な賛成を与えるつもりはありません。
三つ目は、あなたの身体外部に複数の発信器を取り付け、追跡するための手段とします。当然のこととして、敵のセンサーによるクリーニングを受けるでしょうが、一つでも発見しきれないものが残れば乗車車両も押さえられるし、そうなれば警察のNシステムから行く先も押さえられます。TXαが効いていれば、あなたの身体をそうしつこく調べる事はないでしょう。
念のために言うけど、飲み込むなど、体内はやめなさい。死体の内部から発信器を取り出すことを躊躇う工作員がいるとは思えません。結果として、逆にリスクが高まることになります。
その上で、双海、菊池両名は坪内佐手配のヘリで後を追いなさい。悪いけど、二人には、まだ敵を混乱させるための囮役くらいしか任せられないと思います。すり替えの実現性の検討を含め、具体的作戦立案はこちらで行います。すでに、検討は進めていますが、方針を含めまだ話せる状態には至っていません。
二人の参加は、正直言って悩んだけど、それでも坪内佐のバディをお借りするより成功率が高いと見込んだのよ。この判断には、小田、遠藤バディの意見も聞いています。
最後に、私個人としてだけど、基本的に、私も坪内佐の意見に賛成です。あなたたちに実戦は早すぎる。
でも、事態がこうなってしまった以上、自分たちで罠を食い破りなさい。そして、自分たちの安全と生存の場を確保しなさい」
見事に用件だけを言ってのけるな、この人。
親としての情って奴を、押し殺しているんだろうけれど。
美岬が言う。
「もしも、私が、TXαを飲めない場合のバックアッププランはありますか?」
「あるわ。
あるけど、あなたたちの案がベストと思うのは、これからの高校生活、学生生活を憂いなく過ごせる確率が高いから。双海、菊池両名の姉妹も含めてね。
バックアッププランとも言えないけれど、一番安全なのは今までの生活のすべてを捨て、どこかで新たにやり直すこと。
三人揃っての転校なんて、目立ってしょうがないからできない。そもそも、高校生の転校なんてそうあることじゃないし。つまり、ばらばらの高校に転校、もしくは大検受験する事になる。
でも、それは、あなたたちにとって、無条件に取り上げられてしまっても良いものではないでしょう?
後は、あなたたちで話し合いなさい。こちらはこちらで準備を進める。24時間しかないということは、時間という物理的制約が容赦なく襲ってくると思いなさい。
以上です。
他に何か質問は?」
「話し合ってから、1時間後に回答します」
俺が答えた。そのまま回線は切られた。
時刻、午前2時31分。……所要時間、たった6分かよ。あいかわらず、美岬の母親ってば、恐ろしい人だな。
美岬が母親と一緒にいる時間が少ないという割に、美岬の持っている情報が豊富なわけが解るような気がする。
「で、TXαって?」
慧思が、極めてのんびりした口調で聞く。
慧思の気持ちは解っている。緊張しないよう、自制しながら聞いているのが分かる。自分もだが、美岬をも緊張させたくないという心遣いなのだ。
「仮死薬よ」
美岬の答えは短かった。
そりゃあ、確かに死んでしまえば強姦されたり、拷問されたり、身体検査されたりする危険は減るだろう。美岬の母親が、その可能性のある時間を果てしなく縮めてくれる前提なしでもだ。
でも、それ以外に……、ドライアイスを抱かされたり、冷凍されたり、そこらの崖から捨てられたりする危険は増すんじゃないのか。
あ、2日間だと厳しいけど、8時間なら、激減するな、その危険性。まして、死体を轢かなきゃいけないんだから、捨てるわけにもいかないな。ん、案外良い案かも。
でも、そもそも論として、そんな都合のいい薬があるのかよ?
副作用とか、ないんだろうな?
あ、多分、慧思も同じことを考えている。
美岬の眼が、俺と慧思を交互に見て……。諦めたように白状した。
「TXαの致死確率は、10%を超えるの」
慧思が聞く。
「後遺症は?」
「出た例はない」
美岬は観念したのだろう、話し出した。
「かつて、偶然、この毒で仮死状態になった例がいくつもあるの。
大抵は、仮死でなくて本当に死んじゃったんだけど。でも、仮死状態からの生き残りが無視できない数なのと、仮死中に本当に死んだように見えることから、江戸時代に、共に前田氏が領主の加賀藩、富山藩で極秘に研究が進められた。
仮死の技術が確立すれば、隠密行動に果てしないアドバンテージがあるから。
まず、加賀藩では、この毒の完全な無毒化に成功した。で、日本でも石川県だけは、この毒素を食用にしている。
富山藩では、元々製薬業が盛んだったから、仮死薬の開発を相当の犠牲を出しながら進めていたらしいの。そして、でき上がったのが、通称TXα。和名では、当たらないから空砲丸と呼ばれてる。
でも、どう検討しても、致死率を下げきれなかったのよ」
俺も聞く。
「なんで、そんな話を母親さんとしてるん? たまに会っても、仕事の話ばかりなん?」
美岬は笑った。ちょっと場違いなほど。
「ごめんね、ちょっと可笑しかった。
私だって、この1年で、ロミオとジュリエットを読んだりするわけよ。で、母がそういうことにも詳しいってのは分かるから、軽い気持ちでそういう薬ってあるの? って聞いたら、せっかくの話ができる機会だったのに、予想外の勉強会になっちゃって……。
ロマンチックなものに憧れる気持ちってあるじゃない? それなのに、シェイクスピアが江戸時代の隠密の話になっちゃったから、なんか、許せなかったんだよね。
真が心配してくれたのは解るんだけど、きっかけ自体は、そんなんだったんだ」
そか。
ロミオとジュリエットか。
仮死薬って、もっと殺伐とした世界のみとか思っていたけど、古典で既に小道具になっていたなあ。
でもなぁ。ロミオとジュリエットは、悲劇だぜ。その薬が、悲劇の原因の一つとなったんじゃなかったっけ?
あの話をトレースするのは堪忍して欲しい。
「二日間耐えるっていうのも、無謀な考えだけど、期間を狭めても、その薬を飲むってのも無謀じゃないかな?」
慧思が、相変わらず、あえてのんびり話しているのが分かる。
それが、俺をも冷静にさせ、事態のバランスシートを確認させた。
慧思は、美岬と俺が暴走しないよう、そして心が折れないように気を使ってくれている。考えてみれば、俺と美岬、ともに普通じゃない人間二人を相手に、ここにいるんだよな。
そして、俺たちに心の動きのすべてを読まれているかもしれない恐怖に耐えて、むしろ俺たちのために気を使ってくれている。もしかしなくても、こいつが一番強い人間かもな。
「10%の危険率ならば、その危ない橋を渡る価値がある。しかも、私の代謝は他の人より早い。致死率はもっと下がるはずよ。
それに私、ジュリエットより強いから大丈夫」
必死に、言張っているようにしか見えない。
「強がっちゃダメだ。美岬は怯えているよね。
俺が判らないはずないだろう?」
美岬は、一度目をつぶってから、俺を正面から見た。何かの決意を、もう一度固めたように見えた。
「聞いたでしょう?
バックアッププランはないのよ。少なくとも、私にとっては。
真と、一緒にいたいの。
そして、菊池くんとも、学校のみんなとも。
それができないプランならば、ないのと同じよ!」
目の前が、真っ暗になったような気がした。
俺のために飲むのか、その薬。
俺が、美岬を死亡確率10%の危険に追い込んでしまうのか?
慧思が言う。俺への助け舟を出すためだ。
「大学で、また一緒になれる。それは、間違いないと思う」
美岬、泣く一歩手前のにおいがしてる。
「先を考えてよ。母が言ったことの意味をきちんと取って。
『そもそも、高校生の転校なんてそうあることじゃないし』と言ったのよ。
日本中のすべての高校の転校生を追跡調査しても、その労力はたかが知れている。
その少ない高校生のうち、私たちが名前すら変えたとしても、三人が同じ大学に行ったら、今回捨てた過去が無駄になって、もう一度以上、一から戦わねばならない。今なんとかしないと、少なくともこの先6年は一緒に居られないのよ。
母は、『それはあなたたちにとって、無条件に取り上げられてしまっても良いものではないでしょう?』とも言ったでしょう?
せっかく巡り会えたのに、離れ離れになるのを覚悟しなさいって意味よ。
解ってる? ねぇ、解ってるの?」
美岬は、両手で顔を覆って泣き出した。
美岬、君は、こんなに激しい口調で話すことがあるのな。
あの、強い、耐える美岬は、1年で感情豊かな美岬になった。そして、無鉄砲な決断をしてでも、今を守りたいと思うようになった。
俺が、1年前、美岬に言ったこと。
もっと笑え、もっと泣け、そして身近な人を守ろうということ。それがこんな残酷な形で返ってくるなんて。
俺が、間違っていたんだろうか。1年前の美岬ならば、淡々と受け止め、淡々と転校して名前を変えたんだろう。それが正しいとも思えないけれど、今の状態が正しいとも言い切れない。
俺にはもう、何が正しいのかすら判らない。
1年か。
確かに長いな。長過ぎるよな。
長過ぎる、長過ぎるけど。
俺は美岬の肩に手をかけた。そして、そのまま抱き寄せる。
慧思、悪い、見せつける気はないが、堪忍しろ。
「俺は、美岬、君を信じることができる。
6年がたとえ60年でも、君を待つことができる。どれほど離れていても、美岬が生きていてさえくれれば、俺は大丈夫だ。
でも、たとえ10%の可能性であっても、美岬の死の方が俺には耐えられない。あとを追う方が、はるかに楽だ。
そういう意味で、危険率が10%といっても、その賭けに掛かるのは美岬の命だけじゃない。二人分の命を賭けるのを解っているのか? と、俺は問いたい」
美岬は、俺の腕の中でいやいやをするように首を振った。
俺の服に、美岬の涙が染みてくる。
俺は、胸から喉にこみ上げてくるものを必死で飲み下し、押さえつけた。
身体が震える。身体がかっと熱くなる。
この後に及んでも、くまさんパジャマは可愛い。
そして、それがひたすらに辛い。
でも、無駄な願いだけど、この動揺を美岬に悟られたくない。
「あいつらは、俺たちの未来まで奪うことはできない。だから、10%の可能性であっても、自ら未来を投げ捨ててはいけないよな。
飲んじゃダメだ、そんな薬。俺たちは、ロミオとジュリエットじゃあないんだ。
待っていてくれ、俺は、まだ君にも勝てないほど弱い。でも、6年後、今の決断を美岬が後悔しないだけの強さになって迎えに行く」
ぐずぐずの美岬の声が、腕の中から聞こえる。
「真、強すぎるよ、本当に。私なんかとても釣り合わない」
俺が強い? そんなわけないだろ?
みんな、みんなやせ我慢だ。でも、やせ我慢しないと美岬が死んじゃうかもなんだよ。その可能性とトレードするなら、自分の死すら遥かに楽なんだよ。だから、そんな可能性、考えさせないでくれ。
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