第2話 襲撃? 交渉?


 遠藤は、ホテルに向かって歩いている。

 すでにこの国に、まともに乗れるタクシーはない。

 ホテルも、寝るだけの場所にしか過ぎない。だが、シーツの洗濯は滞っている。シャワーはあるが湯は出ない。一月から今まで、水しか浴びていない。

 今はまだ良いが、十月を過ぎて寒さが増してきたら、再び辛い季節になるだろう。

 当然、トイレも自分でバケツに水を汲んで流している。


 遠藤は、ふと、通りのまだ割られていないガラス窓を覗き込む。ちょっとした好奇心というような自然な動作だった。だが、目はガラスに映った背後を油断なく走査している。

 うなじを、空気でできた刷毛で擦られるような、強烈な視線を感じたのだ。


 いた。

 モンゴロイド系。

 しかも、報道関係者には見えない。

 

 このS国で、報道でもない異民族が自由に歩ける、しかもモンゴロイドといえば、内戦の体制側スポンサー、すなわち敵国側の人間に他ならない。


 汚れたガラスでは、表情までは判らない。

 それでも、身長、肩幅等、おおよその比率を数値化して頭に入れる。これだけで、曖昧なイメージの記憶は、正確なデータとなる。

 そのまま、ゆっくり歩き続ける。

 先ほどの疲労感は、綺麗さっぱり拭い去られていた。



 ホテル前を素通りする。

 小田は遠藤の帰る時間を把握している。三分と誤差を生じさせることはない。

 一つは、その時間に、小田はホテルの窓から遠藤の後を付けている監視要員を逆監視するからだ。そしてもう一つは、今回のような、素通りという手段がそのまま遠藤の孤立無援な状態とならないようにするためだ。

 したがって、遠藤がホテルに帰らない、それがそのまま小田に対する活動開始要請となる。


 遠藤は、ホテルを通り過ぎたところにある店で水を買う。この国の夏は、一日四リットルの水を飲んでもトイレの必要性を感じない。あまりの乾燥に、皮膚からすべて蒸発してしまうのだ。

 人体だけではない。バッグや革ベルト、キーホルダーでさえ、縮んで堅くなり、細かいヒビが一面に入った。


 二リットルのペットボトルを、一本づつ両手に持った。

 これは敢えてしている。

 どこの国でも、軍人は両手を同時に塞ぐことはない。だからこそ、水を持つというそれだけの行為がカモフラージュとなる。

 また、両手を塞ぐとはいえ、二キロのペットボトルはそれ自体が強力な武器にも防御にもなる。運にもよるが、9ミリ弾は、このペットボトル二つを抜けないのだ。その辺りも、すべて含んだ上での遠藤の行動だった。


 自然な態度で通りを見渡す。

 すでに、遠藤のあとを付けていたモンゴロイドの姿はない。

 そのままホテルに戻る。

 相変わらず、フロントに人影はない。

 階段を上り、定められたノックをし、部屋に入る。


 「ネタはあったか?」

 小田が聞く。

 「相変わらずだ。フリーのカメラマンじゃ、街角を撮るのが精一杯。当局に引っ張られないように撮るだけで、気を使いすぎて倒れそうだ」

 「写真がなきゃ、ライターの俺の出番がないぜ」

 「うるせぇ、テメエも町を歩いてネタを探せや。責任転嫁しているんじゃあねぇ」

 カムフラージュの会話を続ける。いらいらした風で、貧乏揺すりをしながら。


 今回は、貧乏揺すりの揺れが、和文モールスとなっている。

 姑息な手だが、おそらくは室内も監視され、ゴミ箱すら漁られている状況では筆談さえ許されない。簡単なことであれば事前に決めたサインで対応できるが、イレギュラーな事態では他に手がない。

 また、あまりに卓越したコミュニケーション手段を取ると、その手段が発見されると同時に身元が割れる可能性があった。

 『俺を付けていた男は?』

 『このホテルに入った』

 道理で鮮やかに消えたはずだ。そこまで小田が確認しているならば、敵国の人間だったな、などという無駄な話は必要ない。

 『この部屋に来るかな?』

 『武装はしている』

 とはいえ、対応できる手はあまりない。


 武器は持ち込めなかった。

 大使館を通して持ち込まれたものがあるにはあるのだが、フリーのカメラマン、フリーのジャーナリストという肩書きでは持ち歩く危険を冒せない。とはいえ、二人のスキルであれば、ボールペン一本が、財布のコインの数枚すらが、致命の武器となる。

 『武装はしている』とは、残念ながら、このレベルの話である。

 大使館及びパリへの非常時用の連絡手段はあるが、それも使用はぎりぎりまで避けたい。

 相変わらず、口ではネタがないことをぼやき、非難し合いながら対応を考える。


 ない。

 できることはやはり相手に応じて動くことしかない。だが、それでも、手痛い教訓を与えてやることはできるだろう。


 ノックの音。


 遠藤が立ち上がり、ドアの前には立たないようにしながら外を伺う。が、それも短時間で、ドアの正面に立ち、ロックを解除する。

 ドアスコープは、こちらの影を映さないものに変えてある。

 ドアの前に立たないのは、撃たれないための最低限の心得だ。

 だが、それを守ることで身元がバレる危険性も増す。

 相手が銃を手に持っていないことを確認し、それでも撃たれることを覚悟して、ドアの正面に立つのだ。精鋭、強靭、これらの言葉は、肉体への評価に留まるものではない。


 先ほどの男だ。

 招き入れもしないのに無言で部屋に入り、部屋の備品の古椅子に無断で座る。

 遠藤と小田を見やり、話し出す。

 訛りはあるものの、文法的には正しい日本語だった。


 「盗聴はされていない。なぜなら、私がスイッチを切ったからだ」


 最初は、手順どおりにしらばくれる事になるだろう。

 しかし、長い話し合いになりそうだった。

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