第2話 アイスクリーム


 「起きてないで寝ていなさい」

 ドアの外から真面目くさった声がかかる。

 美岬の声。

 どうしたのだろう?

 この時間、今日はまだ学校は終わりではないはずだ。

 まさか、サボったのか?


 丸めたマットを背中側に隠し、そっとドアを開ける。そこには、マスクをして立っている美岬がいる。

 ポニーテールが、ほっそりした輪郭を際立たせている。

 俺には、美岬のいるその場所の彩度が上がり、明るくなったようにすら見える。吸い寄せられるように手が伸び、自制する。だって、風邪を移しちゃいけないよな。


 「どうして?」

 短く聞く。

 「ごめんなさい。居ても立ってもいられなくなって。私も風邪をひいたって早退しちゃった」

 「ごめん、健康管理ができてなくて」

 謝りあって、さらに視線で笑いあう。

 「布団に戻って。

 アイスクリーム買ってきたけど、食べられる?」

 「うん、ありがとう」

 俺は、布団の上に座り込む。美岬は、布団の脇の畳に乙女座りに座る。


 そのまま、アイスクリームの蓋を開け、プラスチックのスプーンを袋から出して渡してくれた。

 俺はその仕草の一部始終を記憶したくて、そっと、でも見落とさないように視線を向ける。

 美岬のはハーゲンダッツのクッキー&クリーム。俺のはハーゲンダッツのバニラ。風邪をひいているときはシンプルなのがいい。そもそも、こだわったフレーバーとかも分からないし。

 ただ、熱っぽく、乾いた口には、滑らかで冷たく、クリーミーな甘さがしみじみと嬉しい。

 こういう選択は美岬ならでは、だ。

 姉なら、もう少し凝ったものを買ってきてしまう。きっと、「風邪ひいて可哀想」から、「少しは高いものを買っていってやろう」と思考が働くのだ。それはそれでありがたいのだけれど、俺の体が欲しているものを素直に選んでくれるのは、やっぱり美岬だ。


 付き合いは短いけど、まぁ、敏感な感覚を持つ者同士だ。



 二人とも無言で食べ、食べ終わる。二人とも健康な時ならば、ちょっと交換とかして味見をしあったりもするけれど、今回はなし。


 「ごちそうさま。ありがとう。

 風邪を移しちゃうといけないから、俺もマスクするよ」

 「うん」

 沈黙がふんわりと降りる。

 決して気まずいものではないのだけれど、いろいろ話したくても何から話していいか判らない感じ。

 二人きりだし、この部屋は日課として毎日クリーニングしているから盗聴機器とかもない。そのつもりならば、美岬を抱きしめることも、キスをすることだってできるかもしれない。でも、風邪を移しちゃうという意識が、寄り添う距離を詰めさせない。


 優しい視線を交わすだけで、ただ、無言。


 ふいに美岬は畳に片手をつくと、体重を感じさせない動きで、座ったままくるりと回る。俺の顎の下に美岬のホニーテールが入り込み、制服の背中が俺の胸に密着する。

 動揺しないと言ったら嘘だ。

 風邪をひいて失われたに等しい嗅覚でも、美岬の香りを濃く感じる。

 きれいなうなじも、マスクの紐がかかった耳も、全てが愛おしい。


 もういいや。

 話すことなんて、なくていい。

 そっと腕を前に回し、美岬を抱き寄せる。

 ただ、それだけ。

 なんで、このまま二人の体が溶け合って、一つの存在になれないのだろう? なんで、俺の中に美岬をしまっておけないのだろう? そんな不条理を考えながら、そのまま十五分ぐらいは動かずにいたのは覚えている。




 気がついたら、布団に寝ていた。

 掛け布団もきちんと掛けられている。

 美岬はいない。

 いたという痕跡すらない。アイスクリームの空のカップとかも、みんな持って帰ったらしい。

 嗅覚が生きていれば、残り香は感じられたんだろうな。

 日差しの角度からして、大して時間は経っていないみたいだけど。

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