第四章 16歳、初春 風邪ひいて寝んね(全4回:短編)

第1話 風邪


 その朝、違和感は突然来た。

 雑多で彩りに満ちた、自分の世界が突然失われる。

 別に珍しいことではない。何回も経験している。

 風邪をひいたのだ。


 不安を感じもするけど、それよりも安堵の方が大きい。風邪をひくと、通常の人と同じ程度にまで嗅覚の鋭さが落ちてしまう。

 でもね。

 それは素晴らしいことだ。


 俺にとって、この鋭すぎる嗅覚は天恵であると同時に呪い以外の何ものでもない。そこから解放される短くて三日間、長くて五日間ぐらいかな、俺は普通の人となる。

 あとは、あんまり熱とか出ないと良いのだけれど。


 という期待は、もろくも失われた。普段からトレーニングしているためか、風邪をひきこむこと自体が少ないけれど、ひく時は酷くなることがある。今回はその流れのようだ。

 自分の部屋を出て階段を降り、居間で座り込んで咥えた体温計が38度7分を指している。嗅覚が落ちたのと体が若干重く感じている以外は、俺としてはそれほど違和感を感じていない。

 でも、姉はその数字に敏感に反応した。

 「寝てなさい」

 姉の問答無用の命令と、同時に配給されたニラ入り粥。そして、加湿器。


 粥をすすり込みだしたところで、姉はびしっと二階を指す。

 「すっこんでろ、自分の部屋に」

 涙が出るほど無慈悲な言葉を吐き出し、そしてそのまま、出勤してしまう。

 きっと、夕食はけんちんうどん。風邪を引いたときは、ニラ入り粥とあわせてうちの二大定番。

 ともに、風邪を引いたときだけの慰めというよりも、もう少し嬉しい何かだ。

 お粥を食べ終わると、白湯の入ったマグカップと加湿器を抱えて、階段を登って自分の部屋。

 そのまま布団に潜り込み、白湯をすすりながら、高校の担任にスマホで欠席連絡をする。そこで、俺の意識はブラックアウトした。



 ふと目を開ける。

 静かだ。

 まだ昼前ではないかな?

 加湿器の僅かな音だけが、空間を満たしている。

 外からの音もしない。

 今年のとんでもない豪雪はまだ全然溶けておらず、普段聞こえてくる音をも吸収してしまっているようだ。関東平野の端っこでは、本来ありえない積雪量だったのだ。


 いつもより、布団の中の自分の湿り気が高い。やはり体温が高いのだ。

 定まらない視線で天井を眺めている俺の耳に、玄関の扉がゆっくりと開かれるわずかな音が聞こえてきた。

 姉なら、あんな遠慮がちに玄関を開けない。

 そして、姉以外は誰もうちの鍵を持っていない。美岬と慧思さとしならば、鍵を開けて入れるだけのスキルがあるけど、ともに学校のはずだ。

 おそらく、玄関を開けたのが空き巣でなければ、訓練を受けた者というのは杞憂ではない。

 俺は、高熱でも訓練の成果で体が動く。

 なんせ、生き延びるためだ。


 そっと、布団から転がり出て、座布団にしているマットを丸める。柔らかく、太い棍棒が完成した。

 こんなものでも顔に正面から突き上げられたら、人は抵抗する力を失う。おまけに、こちらは過剰防衛となる可能性は全くない。相手が単なる空き巣とかであれば、これで話は終わる。

 ただ、相手が訓練を受けたどこかの組織の人間だとしたら、最初の一撃からは立ち直るだろう。でも、そこまでだ。

 ここは二階だ。そのまま顔にマットを押し付け続けて、階段から突き落す。バディがいたとしても、うちの廊下の幅だと二人の男が横に広がることは不可能だ。だから作戦に変更は不要。二階の窓から庭まで足がかりは用意してあるけど、雪に埋もれている。でも、今ならそのまま飛び降りても怪我もしないだろう。退路は確保されている。


 相手が、複数のバディからなる作戦群だったら……。死ぬか、拉致されるか、相手のなすがままだ。ただ、それでも俺が高度な武器を持たないことで、なんらかの組織につながる人間ではないという言い逃れはできる。


 そっと、閉まったドアの前に移動。熱のためにふらつく体幹を、意志の力で重心を下げてしっかりと立つ。

 階段を登ってくる音がする。

 階段のきしみの少なさから、相手が極めて軽い体重の持ち主か、極めて高度に訓練された相手なのが判る。

 嗅覚が死んでいなかったら、階段の上昇気流に乗ったもっとたくさんの情報が得られたはずなんだけど。

 シャーロック・ホームズも、階段の足音からいろいろな推理をしていたっけ。

 いかんいかん、こういう時に雑念が湧くのは俺の悪い癖だ。という考えすら、基本的には邪魔。さらに腰を落とし、「なにか」に備えた。

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