第18話 拉致


 会計を済ませて。

 サトシと近藤さんも心配だけど……。

 まぁ、一応、ダメ元って言うことで勇気を振り絞る。

 「送って行くよ、ちょっとだけだけど」

 美岬さん、頷いてくれた。


 うれしい。一緒にいると、なんでこんなに万能感が溢れるんだろう? 自分が、自分の体が、一回りも二回りも大きくなったような気さえする。

 ま、世の中上手く行かなくて、すぐに地獄に突き落とされたのだけれど。


 オープンな空間では、なかなか密談ってできなくてさ。二人で自転車を押しながら、たわいもない話をして彼女の自宅に向かった。

 やっぱり、美岬さん、よく笑う人なんだな。


 初夏の夕方。

 少しずつ長くなる影。照り返しがだんだん弱くなるアスファルト。そして、道横の田んぼでは、生命力を天に吹き上げているような稲。もっとも、まだ稲穂は見えないけれど。

 みんな知らないけれど、この時期の稲は、もう、米の匂いがしている。米と米ぬかが混じった匂い。これに米の花が咲くと、さらにその時期だけの瑞々しい匂いになるんだ。


 彼女の家まで、あっという間だった。「ちょっと送る」が、最後まで送っちゃった。

 俺、何を話していたっけな。一人で一方的にしゃべらないように、気をつけてはいたんだけれど。


 美岬さんの家の、玄関前に着いた。



 着くと同時に、嗅ぎ付けて逃げ出したけれど、やっぱり逃げられなかった。

 つか、そもそも逃げても無駄だわ、これ。

 ハリウッド映画に出てくる逮捕シーンのように、一瞬で車に取り囲まれた。

 映画以上なのは、ハイブリッド車を三台、モーターだけで動かして無音で取り囲むってマジかよ。おまけに、次の路地にも一台づついやがる。

 計五台か。

 たとえそれだけの包囲網でも、相手がガソリンエンジンの車だったら、排気ガスの臭いの温度感で、この通りに入る前に気がついて逃げ出せたんだけれどな。逃げ切れるかは別として。


 彼女の家の敷地の中に突き飛ばされ、家に連れ込まれ、体中を撫で回されてICレコーダーと胸ポケットのペンなんかもすべて取り上げられ、三十秒もしないうちに高級そうな座り心地の良いソファに乱暴に腰を据えさせられていた。

 すべてが無音で行われた。

 両隣の家でさえ、今何があったか気がついていないだろう。

 声? 出せる余裕なんか、あるわけないじゃん。


 ビジネススーツを身にまとった、極めて普通のサラリーマンという感じのが二人、後ろに立っている。人ごみに紛れたら、まったく目立たないタイプだ。

 でも、こいつら、普通じゃない。毎日、相当量のトレーニングをしている。肉体を酷使して、新陳代謝が早い者の特有のにおいをぷんぷんさせている。冴えないおじさんなのは、見た目だけだ。

 トレーニングして、シャワーを浴びて、洗濯の済んだ服を着て。

 それだけじゃ、俺は誤摩化されない。


 おまけに、鉄と油の臭い。よりイカツイ方からは、うっすらと酸っぱい臭いも。……これは加齢臭じゃねぇ、硝煙だ。初めて嗅ぐといえば、初めてだけど、夏の花火の匂いに共通するものがある。

 脳天に穴があく覚悟が必要だね。って、軽く茶化そうにも怖いものは怖い。

 だって、今日、何かを撃っている人間がすぐ後ろにいるんだ。

 その何かは、訓練用の的かもしれないけれど、人かもしれない。で、どちらにせよ、この日本で、銃を撃つことを日常として認められているんだ。


 でも、この状況でも、動転するにできない理由がある。なんせ、美岬さんも横に座らせられている。

 文字どおりのやせ我慢って奴で、今のところ動揺を外に出してはいない。けれども、まあ、ぶっちゃけ余裕はない。あるわけない。


 そして、ソファの前、テーブルを挟んで、魂が冷えきるような気がするほどの美人。綺麗と見ほれるより、底なしの淵をのぞいたときのような怖さを感じる美。年齢はそれなりに行っているんだろうけど、それによる衰えよりも磨きの方が優っている。

 そして、ビジネススーツ、ショートボブのその姿は、豊穣の女神でないことは確かだ。

 理由は一つ。

 眼が……、冷たいを通り越している。冷徹とかじゃないな。ゴミを分別する時の眼だ。外見はキャリアウーマンでも、本質はそうじゃない。


 「おかあさん……」

 美岬さんがつぶやいた。

 あ、やっぱり。

 改めて見れば、よく似ている。美岬さんは、「怖いほどの美」のかわりに、まだ幼さを残す可愛さを持っている。

 「あなたは少しの間、黙っていなさい」

 落ち着いた口調で、美岬さんに言う。

 ぴしゃりとか、言いつけるという感じはまったくない。ないからこそ、反抗ができない口調。美岬さん、反抗期なんて無かったんじゃないだろうか。

 逆らうなら、命がけだよ、これ。


 「はじめまして。娘がお世話になっているみたいね。双海真君」

 落ち着いた、澄んだアルトの声。

 この状況で、力を誇示するわけでもない。当たり前のことを、当たり前にしているだけの口調で話している。人を誘拐することが当たり前なんだな、この人。

 もしかたら、殺すことさえ……。


 「こちらこそ。美岬さんには、いつもお世話になっています」

 無難に返すが、まぁ、無理だな、時間稼ぎは。

 とりあえず、声が震えなかった自分を褒めてあげたい。

 「娘がどう生きるにせよ、豊かに生きるということが、私の望みなんだって?」

 案の定、単刀直入に来た。おまけに、今、ちらっと美岬さんのように、青く目が光らなかったか?

 横で、美岬さんが息をのむ気配。


 すべてを聞かれていたというわけだ。

 意外ではなかったけれど……。

 直前まで不明の場所であっても盗聴してのけ、三十分未満で車と人が用意でき、ぶっつけ本番で拉致・誘拐を鮮やかにやってのける。

 ハードルが高いよな。サトシとの間でのICレコーダーを使った「ごっこ」なぞ、足下どころか足の裏にも及ばない。

 つか、サトシよ、遠くなっちまったなぁ、お前は。もう会えないという可能性も少なからずだし、帰れてもこのことは話せないよな、やっぱり……。

 後戻りはできないと解っていて踏み出した一歩だけど、藪にいるのがここまでの大蛇とは思わなかった。


 などと頭の中を一瞬で駆け巡ったけど、感傷は止めにして……。

 今は、最大限に張り合い、無事に帰るのが目標。

 俺がこの場で殺されて、美岬さんが母親を告発するなんてあり得ない。あ、最悪、美岬さんに殺されることすらありうるな。

 何せ「負け」は決まっている。あとは、どう負けるか、負け方の問題だ。


 とりあえず、美岬さんの母親は、美岬さんと俺の会話をあっさり盗聴し、その上あっさりと拉致し、それができることを誇示しているわけだ。

 おまけに、赤外光レベルで人の表情を伺っている。

 嘘ついて、バレない確率は低い、というより、ない。

 この人たちは、無駄なことはしないはずだ。ということは、早急にこの誇示の目的を推測しないと、文字どおり命に関わるだろう。

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