第89話:迷子の子猫ちゃん

 普段ならこの程度のダッシュで息を切らすことはないのだが、焦燥感からくる焦りのせいで呼吸は乱れ、肩を上下に揺らして必死に走る。


「梨香ちゃん……! 梨香ちゃん……!」


 並んで走る楓さんは祈るように名前を呟いた。全力疾走ではないとは言えぴったりと付いてくるのはそれだけ梨香ちゃんが心配ということだ。人間追い詰められたときは信じられない力を発揮するからな。


「どうか、どうか無事でいて……!」


 映画館を目の前にして楓さんが加速した。劇場手前のロビーに設けられたイベントスペースには大人気キャラクターの黄色のネズミの着ぐるみの握手会兼撮影会がまだ行われていた。


「はぁ……はぁ……梨香ちゃん、どこにいるの……!?」


 楓さんと一緒に俺も周辺に目を配る。イベントの待機列は親子連れだけで子供だけということはない。なら少し離れたところで眺めているのではと視野を広げてみるがやはりいない。


 ここじゃなかったのか。そう思い始めたその時―――


「大道梨香ちゃんのお連れ様はいらっしゃいませんかぁーーー?」

「……えっ? 梨香ちゃん!?」


 映画館の女性スタッフが梨香ちゃんの手を引きながら声を張り上げているのが目に飛び込んできた。俺よりも早く反応した楓さんが走り出した。慌てて俺もその後を追った。


「―――っあ! 楓お姉ちゃんだ!」

「―――梨香ちゃん!」


 スタッフさんから離れて楓さんのもとへと笑顔で駆け寄る梨香ちゃん。人の心配も知らないで無邪気な顔をしている少女をしっかりと抱きしめる楓さん。自分が片手にクレープを持っていることも忘れて思いきり。あっ、と声を上げるスタッフさん


「ねぇねぇ楓お姉ちゃん! あそこにいるピ〇チュウと一緒に写真撮ってもらおうよ! 今日しか来ないんだって! って、あれ? どうしたの、楓お姉ちゃん? 泣いてるの?」


 そんなことはお構いなしに簡易ステージの上で子供たちと楽しそうに写真撮影をしている着ぐるみを指差す梨香ちゃん。けれど自分を抱きしめている楓さんが泣いていることに気が付いて怪訝そうな表情に変わる。


「もう……勝手にいなくなって……すごく心配したんですよ! 梨香ちゃんの身に何かあったんじゃないかと思って……」


 涙をこぼす楓さん。梨香ちゃんにはどうして楓さんが泣いているのかわからないのか困惑して、助けを求めるように視線を俺に向けてきた。


「梨香ちゃんがいなくなってすごく心配したんだよ? どうして俺か楓さんが帰ってくるまで待てなかったの?」

「だ、だって……もう会えないかもって思ったら体が動いちゃって……」

「そっか。そうだよね。でもね、梨香ちゃん。俺と楓さんはね、梨香ちゃんが急にいなくなってもう会えないんじゃないかってすごく心配したんだよ。だからこれからは勝手にいなくならないでね?」


 怒鳴っても仕方ない。梨香ちゃんは俺たちと比べてもまだまだ子供だ。好奇心に負けてしまうこともあるだろう。だから俺は優しく諭すように。こういうことをしたら大好きな人が悲しむということをわかってもらえるように話した。


「ご、ごめんなさい……勝手にいなくなって……ごめんなさい、楓お姉ちゃん、勇也お兄ちゃん……」

「……いいんです。梨香ちゃんにこうしてまた会えましたから。いつまでもこうしていたらイベントが終わってしまいますね。写真、撮ってもらわないとですね!」

「うん! 早く行こう、楓お姉ちゃん!!」


 二人は実の親子のようにとても仲良さそうに手を繋いでイベントブースへと小走りで向かった。俺は梨香ちゃんを保護してくれた映画館のスタッフさんに丁重に頭を下げて、二人の後を苦笑いしながら追った。そこで俺は一つ大事なことを思い出した。


「ほらほら勇也君! 急いでください! 私達で最後ですよ!」

「勇也お兄ちゃん早くぅ!」


 手招きして急かす二人のもとにまずは急ぐとしよう。というか気づいていないのかな、梨香ちゃんは。


 写真撮影係のスタッフさんに俺のスマホを渡して壇上へ上る。梨香ちゃんをセンターにして俺と楓さんは屈みながら着ぐるみさんの前へ。


「カメラはお兄さんので? わかりました。それじゃぁ撮りますよぉ? あぁ、もっと近寄ってください! そうです! ではいきまーす。はい、チーズ」


 パシャリと音が鳴り、無事、写真撮影が終わった。最後に梨香ちゃんは国民的電気ねずみと握手&ハイタッチを交わした。


「勇也君、今の写真、私のスマホに送ってくださいね? いいですね?」

「あぁ! 私も写真欲しい! でもスマホ持ってない……どうしよう」

「梨香ちゃん、安心してください。今は写真屋さんで現像できますから。今度一緒に行きましょうね」


 うん、と笑顔で頷く梨香ちゃん。この二人を見ていると本当の親子に見える。もし俺と楓さんの間に子供が生まれたら、間違いなくこの人はいいお母さんになる。そして幸せな家庭を気付くことができる。


「あぁ、二人とも。現像なら俺が今からしてくるから洋服を買ってきたほうがいいよ」

「え? 洋服ですか? 誰のですか?」


 楓さんの頭の上にははてなマークが見える。だが当事者である梨香ちゃんは気づいたようだ。


「梨香ちゃんのだよ。気付いてなかったの? 背中にクレープの生クリームがべっちゃりついているからさ」


 最初に抱きしめたとき、梨香ちゃんの背中には楓さんが持っていた食べかけのクレープが付いてしまっていた。目立つほどの量ではないが確かに汚れてしまっている。


「あ、あぁ……あぁっ!? ごめんね、梨香ちゃん!」

「だ、大丈夫だよ、楓お姉ちゃん。そんな気にしないでいいから!」

「ダメです! 勇也君、私は今から梨香ちゃんに似合うお洋服を買いに行ってきます! 写真は任せましたよ!」


 了解と、俺の答えを聞く前に楓さんは梨香ちゃんの手を引いて猛ダッシュで走り去った。一人残された俺は手つかずのクレープを一齧りして写真の現像に向かうことにした。


 全部似合うとか言って棚買いとかしないよね、楓さん?

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