縛るものは、消え去った

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——何だろう。鉄の鈍い音がする。

「……ん。」

耳に入ってくる騒音と、船の異常な揺れに反応して、目を覚ます。

何度も目を開ける度に見てきたこの天井にも、随分と慣れてしまった。

拘束されたままの手足はもう僕の意思では動かなくて、自分のものでは無くなってしまったのかとすら思う。

今は、何時だろう。こうして閉じ込められてからどのくらい経ったのか、もう僕にはどうでも良くなっていた。

そういえば、随分と息をするのが楽になった。

口をパクパクと動かしてみると、さっきまで口を塞いでいた縄が無くなっている。

殺月が一度戻って来て、縄を解いてくれたのだろうか。

確かにもう、自分の中の抵抗心は無くなっていた。

何も考えなくなって、ただ廃人のようになっていても、お腹の虫だけは活発に動いている。

「……お腹、空いたなぁ。」

ふと、口から零れ出した本音は、僕に違和感を与えた。


「ふっ。そんな状態でも、腹が減るなんて。相変わらず蘭月はお子様ですね。」


聞いたことのある嫌味。

僕の心を騒ぎ立てる、嫌な声。

横を見ると、そこに居たのは見たくない顔だった。

その名前を呼ぶと、彼はいつものように影のある笑顔を見せる。


「……紫蘭。」


僕を見下ろす紫蘭は、いつもより少し不機嫌そうな笑みで近くにあった椅子に座った。

「こんな時に熟睡出来るなんて、蘭月は何処ぞののび太君ですか? 全く、これでは命懸けでここまで来た胡蝶蘭と鈴蘭が可哀想に思えてきますね。」

胡蝶蘭さんと、鈴蘭さん?

僕は紫蘭の口から出たその名前に体をピクリとさせる。

どうして、二人がここに?

そんな時、頭に浮かんだのはあまりに都合のいい答えだった。

ありえるはずがない。皆が僕を助けに来てくれたなんて。

だって、僕は自分の意思で皆を見捨てた。紫蘭が一番嫌いだった裏切りという行為を、僕はしてしまった。

それなのに、まだ皆が僕を必要としてくれてるなんて。

どこまでも愚かな考えだ。

何も喋らない僕に対して、紫蘭はただじっと見つめる。

そして、僕に尋ねてきた。


「いつまでそうして、他人事にしているつもりですか?」


その言葉が、心に重く伸し掛る。

ほら、やっぱり紫蘭は怒ってるんだ。

他人事、なんて。僕は知ってるよ、全ての元凶が自分なんだって。

だからこうして殺月と一緒に居るんだ。

もう、彼が皆に、街に手を出さない様にって。

心の中でそう答える僕に、紫蘭は続けて話す。


「考える事をやめて。責任を放棄して。戦意喪失? 子供だからって調子に乗るのもいい加減にして欲しいですね。そうやって殺月の言いなりになっていれば、傷つかないで済むとでも思ってるんですか?」


そうだよ。これで皆傷つかない。また、前にみたいな楽しい日々に戻れるんだから。

「貴方の自己満足で、誰かに責任を押し付けるなんて、愚行にも程がある。いいですよね、蘭月は。そうして何もかも他人に委ねれば、嫌な事から目を逸らせる。忘れる事ができる。……けれど、それはあまりに無責任だ。」

椅子から立ち上がった紫蘭は、ベットに横たわる僕の肩をガッと掴んで、眉間にシワを寄せた。


「貴方のそれは、胡蝶蘭や鈴蘭の存在を否定するのと同じです! 胡蝶蘭が今誰の為に戦っていると思います!? 鈴蘭がどうして、泣いたのか分かります!? 貴方の為なんですよ。あの二人の頑張りに、貴方が答えなくてどうするのです!? 」


胡蝶蘭さん……。

鈴蘭さん……。

今、僕の為に戦ってくれているの?

僕の為に泣いてくれたの?

でも、僕は何も出来ないよ。僕は皆の幸せな関係を壊してしまう。

皆を傷つけてしまう。

所詮、僕は化け物だ。殺月無しでは何も出来ない弱虫だ。

なのに……どうして僕の為にそこまで……?


「……貴方は、我々の仲間です。自分達の仲間が苦しんでいるのなら、助けるのは当然でしょう?」


目を向けて見えた紫蘭は、酷く穏やかな顔で笑っていた。

でも、何処か辛そうで、なのに暖かくて。

紫蘭に人並みの心なんて無いって思っていたのに、その笑顔は凄く優しくて。

紫蘭の言葉が、心にゆっくりと落ちていった。


伝えたい。今、僕がどう思っているのか。

僕がどれ程二人に会いたいか。

なのに、体が動かない。声が上手く出せない。

でも。僕の為に皆が頑張ってくれたのなら。

少しくらい、その頑張りに、応えたいよ。

だから——。


「……た、すけて……。——助けて、しら、ん……!」


揺らぐ視界で、僕は紫蘭に助けを乞う。

何も出来ないままなのは、もう嫌だ。

頬に流れる涙は、ゆっくりとシーツにシミを作っていった。

声にならない声が漏れ出して、とめどなく涙が溢れる。

そんな僕の涙を拭った紫蘭は、僕の頭に優しく手を置いた。

そこから伝わってくる温もりは、じわじわと僕の強ばった心を溶かしていく。

「良く言えましたね。それでこそ我々の知る蘭月です。」

紫蘭は僕の頭から手を離し、服のポケットから何かを取り出す。

それは、掌サイズの小さな小瓶。中に入っているのは、赤い液体だった。

小瓶の蓋を開け、親指を噛んだ。

「言霊は、誰でも容易く使う事の出来る力。それは、人の体だけでは無く、心も縛る事が出来ます。そして、縛ったのが殺月ともなれば……それは殆ど呪いの様なもの……。なら、それを凌駕する呪いを貴方にかければいい。」

親指から流れ出る血を、小瓶の液体に混ぜる。

禍々しい赤黒い光を放った液体を見て、紫蘭は嫌味を零す。

「まさか、これを使う時が来るとは。本当に皮肉な話ですね。」

紫蘭は、何処か怒りと悲しみが混じった顔で目を細めた。

紫蘭は、自分の血液を瓶に流し込みながら、静かに唱えだした。


「乞い願うは、現世の御魂。血と血の契約において、理想郷の扉をいざ開かん。欲望の塊を余すところなく喰いつくし、全ての欲望を解放せよ。」


注ぎ込まれた紫蘭の血液が、小瓶の液体と反応して、赤黒い光から紫色の光に変わる。

「この液体は、ある魔女の血です。この液体を飲めば、貴方を縛る呪いは解かれるでしょう。」

紫蘭は小瓶を僕の口元まで近付け、液体を口の中に注ぐ。

乾いた喉を通っていく液体は、不思議と血の味がしなかった。

飲みやすさを求めている訳では無いけれど、血腥い感じは無く、スっと体の中に入っていく。

小瓶の液体を全て飲み干すと、体の内側から何かが湧き上がってくる様な感じがした。

それは決して嫌なものでは無く、むしろ愛おしいとさえ思ってしまうような、そんな感覚だ。

心地いい感覚に意識を委ねていると、紫蘭は僕の手をギュッと握る。

「今の貴方なら、この拘束具を壊せるはずです。」

僕の自由を奪っていた拘束具を見て、僕は口を開いた。


「言の中に眠る魂よ。今我の力のもと、真の姿を表せ。我が名において、その封印を解く。

我を縛る全てのものを否定し、破壊せよ。解《カイ》!!」



僕の手に現れたのは、大きなハサミのような物だった。

紫蘭はそれを受け取ると、僕の手足を拘束していた手錠と足枷を切る。

開放された自分の手は、手錠の跡がしっかり残っていた。

さっきまで、指一本動かせず、喋れなかったのが不思議なくらいによく動く。

自分の体におかえり、と心で唱えながら僕はベットから降りた。

まだ少しふらつくけれど、心はスッキリしている。

多分、紫蘭が飲ませてくれたあの液体のお陰なんだろう。

僕は紫蘭の正面に立ち、彼の顔をじっと見詰めた。

今まで、ろくに目を合わせてこなかったけれど、今日からは違う。

だって、紫蘭は僕の仲間だから。


「紫蘭。僕、戦うよ。皆の……仲間の為に。」


もう、過去の殺月に依存するのは終わりだ。

この名前を貰った以上、僕は蘭月として成すべきことを成し遂げよう。

紫蘭は、優しく微笑み、僕の頭に手を置いた。

「ええ。蘭月がそれを願うなら、私はその手助けをしましょう。」

紫蘭の大きな手が、僕の髪をかき回す。

撫でられる度にふわふわした感じがして、何だか落ち着かない。

赤くなる顔を見られたくなくて、僕は俯いてしまっ。

けれど前のように撫でられるのが、嫌だとは感じ無くなった。

「それでは早速——蘭月。」

その声に顔を上げると、紫蘭は真剣な眼で、僕を見つめていた。

僕の頭から手を離して、真面目な顔で僕に告げる。


「今からお話するのは、貴方の力、言霊についてです。私の憶測が正しいのであれば、殺月を止められるのは貴方だけ。ですから、これから話す事をしっかりと胸に刻んで下さい。」


ゴクリと固唾を呑んで、僕は紫蘭の言葉に耳を傾ける。

そして、紫蘭の話が終わる頃、遠くで聞こえていた衝撃波は、消えていた。

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