うさぎの村
第6話
飛行機の窓から、地上8000メートルの景色が見えている。美咲は窓の外を眺めたのち、ちらっと隣の男を見た。玉森はシートを少しだけ倒し、長い足を組んでいる。その手にはカバーのかけられた文庫本があった。何を読んでいるのだろうと思っていたら、彼がこちらに視線を向けた。美咲はびくっとして顔をそらす。玉森は本にしおりを挟んで閉じた。
「言いたいことがあるなら、言ったらどうです?」
「いや……飛行機代がかかるけど、いいのかなって」
クーラー代金を惜しむほどのケチなのに。玉森はにやっと笑って顔を寄せてきた。
「あの人形には結構な曰くがありそうでしょう。雪乃さんには倍の値段で売ろうと思っています」
吐息が触れそうな距離だったので、美咲は彼から身を離した。不用意に近づかないでほしい。長時間となりに座っているのも緊張するのに。
「その大事な人形、お店に置いてきぼりだけどいいの?」
「誰も盗みやしませんよ。それに、一応式神を置いてきましたので」
彼はテーブルに置かれた出来合いの弁当を手にとった。包装紙をといて、箸を割る。
「店に張った結界を敗れるのは高位のあやかしぐらいですが、そんなもの今の時代そういない」
「高位って?」
「天狗、妖狐、雪女」
確かに、高層ビルが立ち並び、高速の電波が行き交う現代には似つかわしくないものたちだ。ビルによじ登って雄叫びをあげる天狗を想像していたら、口に何かが押し当てられた。それがシイタケの煮物だと気づいて、美咲は目を瞬く。
「なにっ」
玉森は美咲の口にしいたけを押し込んで、「これ苦手なんですよ」と言った。美咲はシイタケを咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。美味しいけど、びっくりしたじゃないか。
「嫌いなら残せばいいでしょう」
「もったいないじゃないですか。僕は厳しくしつけられたので、食べ物は残さないようにしています」
「なら自分で食べなさいよ」
美咲の言葉をスルーして、玉森は卵焼きを食べている。美咲はため息をついて、彼に背を向けた。なんでこんなふうに育ってしまったのだろう。
子供の時はもう少し可愛げがあった気がするのに……。
玉森と初めて会ったのは、たしか小学校にあがる前だったと思う。その当時彼はメガネをかけていた。視力が悪いのかと思いきや、玉森はどんなに遠くにあるものでも見ることができた。昔、美咲が大事にしていたくまのぬいぐるみがなくなってしまったときも、どこからか探してきて渡してくれた。一体どこにあったのかと尋ねたら、目がいいから見えたのだ、と得意げに答えたっけ。あの頃は、いいところもあったのにな……。かすかな揺れと弁当の匂いが眠気を誘う。美咲はうとうとと目を閉じた。
……きさん。……きさん。誰かが美咲の肩を揺さぶっている。美咲は身じろぎをし、ふっと瞳を開いた。こちらを見下ろしているのは玉森だ。
「……タマちゃん」
「え?」
美咲はハッとして、慌てて身体を起こした。
「つ、ついたの?」
「ええ。もうすぐつきます」
美咲は髪をなでつけるふりをしつつ、赤くなった顔を伏せた。寝起きで油断していたからか、つい昔の呼び名で呼んでしまった。美咲が羞恥に浸っている間に、飛行機は青森空港に着陸した。
青森空港から空港線に一時間乗り、さらにバスで一時間走る。村のバス停に降り立ったときには、すでに時刻は午後6時を回っていた。周りは田んぼばかりで街頭もないので、見通しの悪い道を心細く思いながら歩いていく。暫く行くと、「兎月村にようこそ」という看板が出ていた。美咲は玉森とともに看板の横を通り過ぎ、「役場はこちら」と書かれた看板に従って歩いていった。役場の戸を叩くと、ふとった中年男性が顔を出した。美咲が声をかけると、愛想よく返してくれた。
「こんばんは。どうしました?」
「モリタっていう酒屋を探してるんですけど」
「ああ、モリタさんね。あそこの道まーっすぐ行くとあるよ」
男性が指差した道路には、わずかながら街頭が灯っているのが見えた。この道は通学路のはずだが、それにしては暗い。冬など足を踏み出すのも怖いのではないか。もっとも、こんな時間に子供は通らないか。スマホを懐中電灯がわりに進んでいくと、灯りがともっている店が見えた。近づいていくと、「酒屋のモリタ」という看板が見えてきた。美咲と玉森が店に入ると、カウンターに座っていた男が顔をあげた。
「いらっしゃい」
玉森はカウンターに近づいていき、「こんにちは。私、こういうものです」と言って名刺を差し出した。名刺には「名神(めいしん)出版 ライター 玉森佑」と書かれている。美咲は怪訝な顔で玉森を見た。どこの誰がライターなのだ。名刺を受け取った店主は、感心した声をあげる。
「おお、この出版社知っとるよ」
彼はカウンターの下から雑誌を取り出し、美咲たちの前に置いた。雑誌の表紙には「地方のうまいもん100」と書かれている。玉森は店主に笑顔を見せて言った。
「口コミで「ゆきうさぎ」のことを聞きまして。ぜひこちらの店を取材したいと思っております」
「いやあ、うちの地酒を東京の雑誌が取り上げるなんざ、まんずすげえことだ」
店主はすっかり玉森が記者だと信じたようで、ラックに置かれている酒を取りに向かった。戻ってきた彼が手にした瓶には、「ゆきうさぎ」と書かれたラベルが貼られている。間違いない。マサの記憶の中で見た、あの酒と同じものだ。美咲がうなずいてみせると、玉森が口元を緩めた。
「ささ、一杯どうぞ。ほんとうんめえから」
店主はグラスに酒を注いで、玉森に差し出した。玉森はありがとうございます、と言って、それを美咲に押し付ける。美咲はぎょっとして玉森を見た。彼は美咲の耳元で「飲んじゃ駄目ですよ。万が一のことがあるから」と囁いた。その言葉に、美咲は顔をひきつらせた。店主はご厚意で酒を出してくれたのに――なんと自分勝手な男なのだ。
玉森は美咲に構わず、言葉巧みに店主から話を聞き出していた。
「「ゆきうさぎ」は銀花山の雪解け水を使ってるとか。きっと水がいいからお酒も美味しいんでしょうね」
「くわしいねえ、さすがライターさんだ」
「このお店は何年くらいやってるんですか?」
「えーと、いつだっけな。俺のじいさんからなんで、八十年はたつんじゃねえかな」
店主は父親を呼んでくると言って、奥に引っ込んだ。玉森は美咲からグラスを取り上げて、近くにあった流し台に中身を捨てた。美咲は軽蔑の眼差しで玉森を見る。
「最低ですね。地元の方が一生懸命つくったお酒を捨てるなんて」
「僕は基本的にタダで手に入ったものは信用していないんです」
玉森はしれっとした顔で返す。そういえば、雪乃が出してきたお茶にも、喫茶店で出された水にも手をつけていなかった。どれだけ他人を疑って生きているのだ。店主が戻ってくると、玉森はこれみよがしに空のグラスを見せた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかった」
「へへ、そうでしょう? あ、俺のおやじです」
「森田幸三です。東京から来なさったそうで、ごくろうさまです」
店主に紹介され、傍に立っていた老人がぺこりと頭を下げた。彼らは美咲たちを東京から来た記者だと思いこみ、あれこれ話してくれた。疑うことなど知らないのだろう、人のいい親子を見ていると良心が疼いた。
兎月村は特産がない貧しい村だったが、先代が「ゆきうさぎ」を開発してから風向きが少し変わったこと。最近ではドラマの舞台になって注目されたこと。彼らの話に適当な相槌を打ちながら、玉森はニコニコ笑う。
「本当にいいところですね、人も土地も」
「ええ、皆さんそう言ってくださいますよ」
「こういうところだと、変な事件も起きないんでしょうね」
その言葉に、幸三が曖昧な返事をした。
「ええ、最近はね」
「最近?」
「いや、なんでもないですよ」
幸三はそそくさと返事をして、壁掛け時計に視線を向けた。二時間近く話したせいで、時刻は夜の八時を過ぎている。
「ああ、大変だ。もうこんな時間だわ。あんたら、今日はどうなさるのかね」
「そうですね、どこかに泊まれたら嬉しいのですが」
玉森が小首をかしげると、店主が気さくな口調で提案した。
「親戚が「はごろも」いう宿屋をやっとるんです。よかったら送りますよ」
「ありがとうございます」
電話をすると言って店主が去っていき、部屋には三人が残された。玉森にじっと見つめられた幸三は、そそくさと立ち上がる。
「それじゃ、私は寝ようかね。年のせいか、最近すぐに眠くなって」
玉森は幸三を引き留め、こう尋ねた。
「森田幸三さん、おいくつですか?」
「え? 七十二ですが……」
「なるほど」
玉森はまあ座ってください、と言って幸三の腕を引いた。腕を掴んだまま、じっと幸三を見つめる。すると、玉森の瞳が赤く光った。幸三の目の焦点が、徐々にうつろになる。こんなお年寄りに、何の術をかけるつもりなのだろう。美咲がハラハラするのも構わず、玉森は幸三を見つめたままだ。
「明日朝六時に、一人で「はごろも」に来てください」
玉森の言葉に、幸三はぼんやりとした顔でうなずく。玉森が幸三の腕を離すと同時に、店主が戻ってきた。
「ぜひ来てくれって言っとります。行きましょうか」
父親が妙な術をかけられたことなど知らない彼は、爽やかにそう言った。
「はごろも」は、モリタ酒店から車で十分ほどのところにあった。駐車スペースが3台ほどしかない、こじんまりとした民宿だ。店主は朝10時ころ迎えに来ると言って、来た道を戻っていく。美咲は去っていくトラックを見送って、隣に立つ玉森を横目で見た。玉森は美咲を見返し、「なんですか」と尋ねてくる。
「いつもああいうことやってるのね」
「いつもじゃないですよ。美咲さんには術をかけてないでしょう」
「ブランコで動けなくしたでしょ」
「あれは術ではありません。美咲さんが男慣れしてないだけです」
玉森は言葉尻で嘲笑した。男慣れしてなくて悪かったわね。美咲は赤くなって、ずかずかと旅館に向かう。入り口をくぐると、笑顔のおかみが出迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました」
「お世話になります」
「お食事は取られましたか? 簡単なものならご用意できますが」
「あ、じゃあお願いします」
スリッパを履いてついていくと、広々とした座敷の部屋に案内された。ひとりでこれは贅沢だな。美咲がそう思っていたら、おかみがとんでもないことを言った。
「お部屋、ご一緒でよろしいですよね?」
「ああ、部屋が二つあるんだ。じゃあ大丈夫ですね」
玉森は部屋を区切っている襖を開け放し、戸口に佇む美咲に尋ねる。仕切りがあるとか、そういう問題だろうか。この人と同じ部屋で寝るなんて、不安しかない。寝てる間に妙な術をかけられたりしないだろうか。美咲が普通ならしない心配を抱いていたら、おかみが困った顔で尋ねてきた。
「駄目でしたか? 他にも部屋はあるんですけど、ここが一番いいとこなもんで……」
「大丈夫です。それより食事の用意をお願いします」
玉森は勝手に決めて、浴衣を手にした。
「僕はお風呂に行ってきます。美咲さん、荷物の番をお願いしますね」
「……どうぞ、ごゆっくり」
美咲は顔をひきつらせ、玉森を見送った。おかみは不思議そうに玉森を見て、「あんな男前、来たことあったかね。あっちに浴場があるって教えとらんのに」と言った。あの人お風呂好きなのでわかるんですよ。美咲は適当な言葉でごまかし、荷物を置くため部屋に入った。食事をとっていると、風呂から出た玉森が帰ってきた。彼はテーブルに乗った膳を見て、「美味しそうですね」と笑みを浮かべる。浴衣を羽織った濡れ髪の彼は、本性を知っていても妖艶に見えた。美咲は目をそらしつつ、悔し紛れにつぶやく。
「これは食べるんですか、地酒は捨てるのに」
「お金を払って食べるものですし、美咲さんが食べて平気そうなので」
まさかこの男、美咲に毒味をさせるために風呂に入ったのか。あまりに自由なふるまいを見ていたら、むくむくといら立ちが沸き上がってきた。美咲が叩きつけるように箸を置くと、玉森が不思議そうな顔を向けてきた。
「どうしました?」
「なんなんですか、あなた」
「は?」
「人を何だと思ってるんです? さっきもそうです。善良なおじいさんに変な術をかけて。人間は道具じゃないですよ」
玉森は笑顔を浮かべた。
「もちろん。一緒になんてしてません。道具は文句を言いませんから」
その言いぐさに、美咲は絶句した。彼は扇子を広げ、蛇の式神ぐーちゃんを出した。
「この子は僕が十歳のときから一緒ですが、一度として逆らったことはない。優秀な式神です」
「ならぐーちゃんとあなたと、2人でやればいいじゃないですか」
「そうはいっても、あなたと僕は契約をかわしている」
玉森はカバンから、美咲のサインが入った契約書を取り出した。
「僕はあなたを幼少のころから知っていて、あなたの出自や人柄もわかっている。陰陽師には、そういう相手はほとんどいません」
「まさか、玉森佑って……」
「本名ではありません。本名を知られるのは陰陽師にとって死活問題です。相手を呪い殺すには、「諱」が必要。僕が名乗っているのは「字」です」
諱とは「忌み名」とも呼ばれ、死んだ人間を本名で呼ぶのは憚られるという意味らしい。しかし玉森は生きている。諱を知られると、霊的な力を持つ者はその人物を支配できるのだそうだ。だから陰陽師は「字」と呼ばれる偽名を使う。名前すら本物ではないなんて。美咲がその徹底ぶりに驚いていたら、玉森がテーブルに置かれていた「ゆきうさぎ」の瓶を掴んだ。
「勝負をしませんか、美咲さん」
「勝負?」
「あなたが勝ったら本名を教えましょう。店を辞めるのも僕を呪い殺すのもご自由に」
呪いたくなるほど玉森を恨んでいるわけではないが、彼が負けるところは見てみたい気がした。将棋では一度も勝ったことがないのだ。美咲は姿勢をただし、「します、勝負」と言った。とぷとぷとお猪口に清酒が注がれる。玉森はおちょこを翳して言う。
「いいですか、勝負は単純。早く酒を飲みきったほうが勝ちです」
「わかりました」
二人はお猪口を突き合わせ、一気に煽った。はずだった。しかし、美咲のお猪口には酒が残っていた。なんで? 飲み干したはずなのに。困惑している美咲に、玉森が酒瓶を差し出してくる。
「どうです、もう一杯」
ようし、今度こそ。美咲はきりっとした辛味のある清酒を飲み干した。美味しいが、かなりアルコール度数が強い。数杯飲んだところで結果は変わらず、美咲はふらふらになりながら玉森を見据えた。彼はいつもどおり涼し気な表情を見せている。
「あなた、のんでない、でしょ」
「そんなことありませんよ。おちょこは空っぽでしょう」
「じゃあどうして、酔わないのよ」
「もう降参ですか?」
美咲はまだよ、と言って酒瓶を掴んだ。しかし、玉森はやんわりとそれを取り上げる。もうやめたほうがいいですよ。顔が真っ赤だ。なんなの、それは。そっちが勝負を仕掛けてきたんじゃないか。どうせ毒見役くらいしか思っていないくせに。美咲はずるずると崩れ落ち、畳の上に寝転んだ。玉森が近寄ってきて、美咲のそばに膝をつく。彼は美咲の頬を撫でて囁いた。
あなたは僕には勝てないんですよ、そういう契約だから。
「ん……」
美咲は身じろぎをして、ゆっくりと瞳を開いた。ぼんやりとした視界に、古びた天井が映り込んだ。障子から明るい光が注ぎ、ちゅんちゅんと鳥の鳴く声が聞こえてくる。もう朝か……。昨日はたしか、酔いつぶれてそのまま寝てしまって……そのはずだが、美咲は畳ではなく布団の中で寝ていた。一体いつ布団を敷いたっけ? なんかすごく頭が痛い……。二日酔いなんて初めてだ。ガンガンと痛む頭を押さえていると、襖の向こうから声が聞こえてきた。
「美咲さん、起きてますか」
「あ、ええ」
からりと襖が開いて、玉森が顔を出した。彼は美咲を見下ろして、くすっと笑う。
「髪がボサボサですよ」
美咲は慌てて髪をすいた。状況的に、玉森が布団まで運んでくれたのだろう。礼を言うべきか悩んでいたら、玉森がこう言った。
「お風呂に入ってきたほうがいい。もうすぐ幸三さんが来ます」
「わ、わかってる」
美咲は布団から起き上がり、そそくさと風呂場へ向かった。風呂から出て戻ると、幸三が玉森と向き合って座っていた。寝間着ではなかったが、どことなくぼんやりして、まだ夢の中にいるように見える。おそらく術にかかっているのだろう。幸三の瞳を覗き込む玉森の目は、赤く光っていた。
「あなたは森田幸三さん。モリタ酒店の二代目ですね」
「ああ」
「あなたのお父様の名前はなんとおっしゃいますか」
「森田源治だ。「ゆきうさぎ」を開発して、モリタ酒店をひらいた」
「立派なお父様ですね」
玉森がそう言うと、幸三の顔が僅かに緩んだ。
「ああ、自慢の親父だった」
「あの店の前は、小学校への通学路になっていますね」
そう尋ねられ、幸三がうなずいた。
「おれもあの道を通って学校へ行った」
「同級生の名前を覚えてますか?」
「六十年も前だぞ。とてもじゃないが全部は……」
「印象に残った子だけで結構です」
幸三は子供の名前を列挙していった。けん坊、吉岡、新田。この3人とはよく遊んだ。夏は田んぼで泥だらけになったし、冬はそりすべりをして遊んだ。ふるさとを出ていったやつもいるし、残ったやつもいる。病気で亡くなったやつもいる。みんないい仲間だった。玉森は相槌を討ちながら話を聞き、「他には?」と尋ねた。
「他って、なんだ」
「女の子で覚えてる子はいますか」
「女子とは、あんまり遊ばんかった」
「好きだった子でもいいですよ」
幸三は照れくさそうに顎をかいて、「クラスに1人、美人になるだろうと思った子がいた」と言った。
「その子の名前は?」
「しゃれた名前だった。たしか、ゆい」
美咲はハッと顔をあげた。玉森が補足する。
「原田ゆいさんのことですね?」
「そうだ。でも……あんなことになっちまって」
「あんなこと?」
「消えたんだ」
原田ゆいは消えた。神隠しにあったんだ、と幸三は言った。神隠し? あの可愛らしい少女が……。美咲はマサの記憶に出てきたゆいを思い返した。
玉森はそれ以上聞き出そうとはせずに、幸三の瞳を覗き込んだ。あなたは3秒数えたら、今話したことを忘れます。いきますよ、1,2,3。玉森がぱちんと指を鳴らすと、幸三はハッとして、キョロキョロとあたりを見回した。
「え? なんだ?」
「いやあ、ありがとうございました」
玉森は幸三の手を握って上下に振った。
「貴重なお話を聞けて嬉しいです。さっそく東京に戻って記事にしないと」
「え? あ、ああ……」
幸三はまだどこか浮ついた様子だった。心配になった美咲は、幸三に付き添い玄関へ向かった。幸三は車に乗りこみながら、ここまに来るまでの記憶がないのだと話した。それ、操られたからです……雇用契約のせいで教えられない美咲は、丁重に礼を言って彼を見送った。にしても、神隠しってどういう意味なのだろう。美咲が考えていると、玉森が横に並んだ。
「化粧してないんですね」
美咲はハッとして右頬を隠した。しまった、急いで風呂に入ったせいで、化粧をしてくるのを忘れてしまった。身体をこわばらせていたら、玉森がさらりと言った。
「そっちのほうが綺麗ですよ」
顔をあげると、玉森と視線が合った。
「……何企んでるのよ」
「別に? お腹減りましたねえ」
彼は踵を返し、宿屋に入っていく。なんだったのだ、今の台詞は。何かの術だったのだろうか? 美咲は自分の身体に何か異変がないか調べてみたが、特に変わったところはなかった。
朝食を食べて表に出ると、酒屋の店主が迎えに来ていた。美咲は車に乗り込んで、気になったことを尋ねてみる。
「あの、幸三さんは?」
「え? おやじなら、近所の公園でやってるゲートボールに行ったけんど」
ゲートボールに行く元気があるのなら、心配する必要はないか。美咲がほっとしていると、玉森が口を開いた。
「すいません、バス停じゃなくて、図書館に寄ってもらえますか」
「図書館? なして?」
「コピーしたい資料があって」
人のいい店主は、玉森の頼みを快く了承した。「とげつむら図書館」という表示のある建物の前で美咲たちをおろし、バス停の場所を教えて車を発進させた。青空に映える美しい山の稜線を見て、いいところだと改めて思う、幸三さんも息子さんも、本当にいい人だった。しみじみする美咲を置いて、玉森はさっさと図書館に入っていく。彼は児童本コーナーの前を通り過ぎ、カウンターへ向かった。カウンターには退屈そうな顔をした女性が座っていたが、玉森を見てハッと顔をあげた。
「な、なにか御用でしょうか」
「こんにちは。新聞記事を見たいんですけど、何年前まで保管されてますか?」
「あ、一応、明治のころから」
「六十二年前のものを見たいんですが」
司書はしばらくお待ち下さい、と言ってそそくさと蔵書庫に入っていった。狭い村なので玉森がよそ者だということはわかっただろうが、何の疑問も抱かれなかった。容姿がいいというのは得だな。美咲はそう思いつつ、児童書のコーナーに向かった。ふと、絵本コーナーに可愛らしいうさぎの絵本が置かれているのを見つけ足を止めた。タイトルはシンプルに「ゆきうさぎ」である。毒気のある男といると、こういう癒やされる本が読みたくなる。
美咲は子供用の小さな椅子に座って絵本をめくりはじめた。
――あるところに、とても可愛い女の子がいました。女の子はミヨという名前で、真っ白な肌にりんごのような頬をしていました。ミヨは、なぜか生まれてからずっと男の子として育てられていました。
「どうしておら、男の子のかっこなんだろ?」
ミヨは不思議に思って、おばあさんに尋ねました。おばあさんはこう答えました。
「ミヨはとくべつにめんこいで、さらわれんようにだよ」
雪山には女の神様がいて、可愛い女の子を見つけると嫉妬するのだそうです。
「女の子だと知られたら、きっと命を奪われてしまうよ」
ミヨは他の女の子のように、可愛い着物を着たいと考えていました。それに、髪も伸ばして綺麗に結いたいと思っていました。そんなある日、ミヨのお姉さんが嫁入りすることになりました。家には、お姉さんが着る花嫁衣装が置かれていました。ミヨはその美しさにみとれました。着てみたいなあ。ミヨはそう思って、着物を手に取りました。だけど、着たらおばあさんに怒られてしまう。
ミヨは迷った末に、角隠しだけならいいだろうと思いました。ミヨはさらさらした髪に、角隠しをかぶりました。
その瞬間、ミヨの息は止まりました。
死んだミヨを見つけたおばあさんは大層悲しみました。
「ああ、どうして! あれだけ言ったのに」
おばあさんは神様にお願いして、ミヨが生き返るようにと願いました。すると、神様が現れていいました。
「ミヨを生き返らせよう。ただし、人間にはなれないぞ」
「それでもいい、お願いします」
おばあさんは泣きながら神様に懇願しました。神様はミヨを生き返らせて、雪うさぎにしました。それ以来、女の子が死ぬと、神様のしわざだと言われるようになりました。そうして、山に住む真っ白なうさぎは、死んだ幼子のうまれかわりだと皆信じたのです。
最後まで読み終わった美咲は、暗い気持ちで絵本を戻しに行った。まさか子供が死ぬ話だなんて。可愛い絵本かと期待したのに、まったく癒やされなかった。
ため息をついていると、新聞の束を抱えた玉森がやってきた。彼はどさりと新聞を置いて、「どれかに原田ゆいの失踪事件がのってるはずです。そっちをチェックして」と言った。こういうの、式神に探させることはできないんだろうか……。美咲は新聞をめくり、ゆいの名前を探した。半分あたりまできたとき、それらしき記事を見つけて手を止める。
「これじゃない?」
玉森に見せると、彼は新聞を手にして読み上げた。
「195△年2月15日、青森県兎月村で原田ゆいさん(10)が失踪。ゆいさんは下校途中で姿を消し、村内にある銀山神社の境内には、ゆいさんの手袋だけが落ちていた。警察は近くに住む無職の男を逮捕し、取り調べたが捜査途中で死亡。その後も捜索を続けたが、ゆいさんは見つかっていない──犯人は死んで、子供も見つからなかった……ゆいさんはどこかで遺体になっている可能性がありますね」
それは神隠しではなく、れっきとした刑事事件ではないか。だとしたら時効になっているだろうし、捜査もとっくに打ち切られているだろう。人形の持ち主が死んでいるとなると、見つけるのが難しくなる。美咲は、玉森におそるおそる尋ねてみた。
「でも探す……のよね?」
「もちろんです。人形は必ず見つけ出す」
玉森はそう言って、新聞を畳んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます