第17話:青空がキレイだって、そう感じていたい

佐伯洋介さえきようすけ、君のお父さまだよね」


 大柳おおやぎハルタは無表情な視線をトワに向ける。彼女は答えるでもなく、壁にもたれながら窓の外を見つめていた。眼下には荒廃した建造物に群がる植物の丘が広がっている。灰色と黄緑が入り混じるその光景は、人間文明と自然の均衡が釣り合った調和の象徴でもあった。その調和を崩すかのようにそびえ立つ田邊重工本社ビル。かつてストロナペスと呼ばれたこの巨大な高層ビルは、今では新東京市の行政府、工程院として機能していた。


「君のお父さんが厚生労働省いたころ、どんな仕事をしていたのか……知っているかい?」


 トワの知る父親の記憶は少ない。休日の午後になると、リビングのソファに腰掛け、分厚い本を片手にページをめくりながらコーヒーを飲んでいることが多かった。平日はほとんど家にいなかった父だったが、トワはそんな彼が嫌いではなかった。国家公務員という難しい立場で仕事をしていたことも子供ながらに理解できたし、血の繋がっていないツグムに対して、トワと分け隔てなく接していた父親を尊敬さえしていた。


「君のお父さまはね、田邊重工 科学院の医薬衛生工学部に対する指導監査を行っていたんだ。地方厚生局の指導監査科ではなく、本省の医系技官が民間企業を直接に監査することは異例なんだよ」


「指導監査……」


「そう。で、問題なのがお父さまが作成した調査資料なのさ。これはね、いろいろと厄介な代物なんだ。すべて抹消したはずだったんだけどね……。そのコピーが、どうしたわけか残ってる」


 相変わらず抑揚のない声でそう言ったハルタは、ネクタイを締めなおすと、窓際に近づき、眼下に広がる大都市の影に視線を落とした。吹きつける強い風が分厚いガラス窓にぶつかり、かすかな振動ともに、ゴウっと音を鳴らした。


「ハルタ、君は一体……」


「ここでは主席院士などと呼ばれているよ、ツグム。まあ、そんな大した仕事はしていないさ。全てはミソラが決めることだからね。僕はその意思決定を忠実に執行する役割を与えられているに過ぎない」


「君が主席院士!?」


「驚くようなことじゃないんだ。眠りから自分の意志で覚醒したものは、誰でもその素質を持っているのだから。ツグム、思い出したか? 君の生い立ちを、そして君がなぜここにいるのかを」


「自分の生い立ち……」


「思い出せないのならいいわ。いずれにせよ、残された調査資料の抹消がミソラの意志であり、その意志を確実に執行するために、あなたたちがここに招かれたということ」


 サオリは苛立ちを交えた声で二人の会話を遮った。


「話がそれてしまったようだね。すまない、サオリ。さて、ここからが本題だ。君たちには、このビルの地下にある情報電子工学部に向かってもらう。入り口と端末のセキュリティーを解除してくれればそれでいい。たったそれだけだ。難しことは何もないさ」


「セキュリティーの解除くらい、あなたたちでもできるはず」


「そうもいかないのよ、佐伯トワ。あなたの母親のせいでね」


「サオリ、少し落ち着こう。深呼吸するといい」


 ハルタは隣に立つサオリの肩を軽くたたくと、話を続けた。


「情報電子工学部は科学院直属の研究組織でね。田辺重工の幹部社員や工程院の人間でも勝手に立ち入ることができないんだよ。科学院は極めて独立性の高い組織なのさ。そんな情報電子工学部の上級研究員だったのが君のお母さま、佐伯陽子さえきようこさんだ。彼女は、スマートシティー推進派だったのは知ってるよね」


 トワは黙ってうなずく


「つまり……、工程院の方針とは真っ向から対立していた組織なんだよ。むろん、セキュリティーを解除するためのパスをそう簡単には譲ってくれない」


「なら、あなたたちが奪った母のパスを使えばいい」


「それができるのなら、わざわざあなたたちを呼んだりしないわ。ダブルエントリーシステム、あなたの家の金庫と同じ仕掛けよ。自分の子供、二人の同時認証が必要だなんて、まったく手間のかかる小細工を。今頃、どんな夢を見ているのでしょうね、陽子さん。自分の計画がまさか筒抜けだっただなんて、考えもつかなかったでしょう」


「母の……母の名を軽々しく呼ばないでっ」


 トワはサオリに駆け寄ると、その胸倉をつかんだ。彼女が感情に支配される姿は珍しい。ツグムは思わず言葉を失った。


「おっと、そこまでにしよう。さっきも言ったけれど穏便に済ませたいんだ」


 ハルタはそういいながら背中から拳銃を抜き取りトワのこめかみに押し当てた。彼女は横目でハルタをにらみつけると、額に押し付けられた冷たい銃口に動じるでもなく、掴んでいたサオリの襟元を離す。


「すまない。時間がないんだ。我々が必要としているのは、指紋認証をクリアできるだけの素材だよ。君たちの命なんで正直なところどうでもいい。どういう意味か分かるよね」


「ハルタっ! やめろ、やめてくれ」


「動かないでくれツグム」


 ハルタは片手でもう一挺の拳銃を背中から抜き取ると、今度はツグムに銃口を向けた。


「繰り返し言うようだけれどさ、穏便にいきたいんだよ。それは本当さ。なぜなら君たちにはとても期待しているからなんだ。あのユーフォリアシステムの中でも自分を保つことができる遺伝的体質は、僕らのそれと同じだからね。院士たる素質が潜在的に備わっているといってもいい。だからこそ協力してほしいのさ。分かってくれるよなツグム」


「わからない。僕には……わからない。この世界が、こんな社会の在り方が人間にとって本当に幸福なのかわからないよ、ハルタ。僕は青空がきれいだって、誰に言われるでもなく、誰に強制されるでもなく、自分の意志でそう感じたい」


「あら、でも少なくともあなたは幸福を感じていたはずよ。平和な町で、何事もなく高校生として過ごす、そんなささやかな生活にあなたは十分に満足していたじゃない」


 サオリはそう言いながら、乱れた襟元を正した。


「あれは君たちが見せていた幻想に過ぎない」


「幻想と現実をより分ける根拠なんて、人間の認識にの中には存在しないのよ」


「たとえ根拠がなくても、僕は今この瞬間に、現実に少しでも手を伸ばそうとあがいてみせる。その現実がたとえ絶望にまみれていようとも、その中で生きていく強さを持てるのが人間だ。絶望の中にだって、両手で数えるくらいの希望はある」


「残念だよ、ツグム。君とはもっと仲良くなれると思ったのに……」


 ハルタは両手に握る拳銃を構えなおした。


「トワっ」


「大丈夫、ツグム。ありがとう」


トワはそう言ってゆっくり瞳を閉じた。


「ハルタっ、せめてトワだけでも……」


「はいはい、そこまでだっ」


 輪郭のはっきりした声。ツグムの背後から靴音をならせて前に歩み出てきたのは如月浩太の広い背中だった。やはり両手に拳銃を持ち、その銃口をハルタとサオリに向けている。


「拳銃をさ、そんなふうに構えちゃいけないよ」


 そう言って如月はニヤリと笑った。

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