第15話:想像の外にある未来、ストロナペス

 テーブルの上に置かれた二人分の食パンとマグカップ、その中央に真っ赤ないちごジャムの入った小瓶が置かれている。リビングの窓は少しだけ開いていて、朝の涼しい風が部屋を吹き抜けていった。真っ白なレースカーテンが微かに揺れている穏やかな時間。


「お昼と夕飯はここにあるからね。今日も帰りが遅くなるから、ツグム君と二人で食べていてね」


 カウンターキッチンの脇で、母親にそう言われたトワは、コクリと小さくうなづく。ツグムの顔を見ようとしないのは、昨夜の喧嘩がまだ尾を引いているからだ。小学校は全学年が休校となり、ツグムとトワは家で過ごす時間が長くなった。日常生活の中に入り込んでくる社会の不安を、トワもツグムも子供ながらに感じていたのだろう。それが時に、行くあてのない苛立ちとなって表出してしまう。母親はそんな二人を気づかってのことか、夕食にはいつだって、ハンバーグや鶏肉のトマト煮込み、カレーライスなど子供たちの好物を日替わりで用意してくれていた。


 母親が仕事に出かけると、午前中は本を読んだり、学校の宿題をするために机に向かうのが二人のお決まりの行動パターンとなっていた。二階に用意されたツグムの学習机には、トワの父親が買ってくれた様々な図鑑が並んでいる。彼はかつて地球に住んでいたといわれる大型の爬虫類の図鑑が大好きだった。本を開きながら、原始地球環境の中にたたずんでいる恐竜たちを想像する。それは人間社会が作った細々とした線引きを、やすやすと超えてしまうようなスケールの大きさを感じさせてくれた。


 簡単な昼食をすますと、午後はノート型のラップトップを開いて、学校から配信されているオンライン授業を聞く。その時間になると、トワは決まってツグムの傍らで携帯端末をタップしはじめる。


「ちゃんと授業きかなきゃ」


「母さんにメールを送ってから」


「後にしなよ」


「今なの……」


 やがて彼女は、口元に笑みを浮かべながら携帯端末をしまうとヘッドセットを装着する。母親からの返信が来たのだろう。父親はもちろん、母親も帰りが遅い家庭環境はツグムのそれと同じだった。だから彼はトワの寂しさをよく理解できたし、二人で一緒にいることは、彼にとっても心安らぐ時間だった。


 トワは頻繁に母親へメールを送っていた。普段あまり会話ができないことを彼女の母親もまた気にかけていた。携帯端末に届く母親からのメッセージは、トワにとって精神的な安定剤のようなものだ。母親からのメールがいつまでも返信されてこないと、トワは不安に苛立ち、そして口数が少なくなる。その日の返信がないと、彼女は一人で泣いたりもしていた。でも、そんな不安を彼女が両親に打ち明けることはなかった。


 出口の見えない不安やおぼろげな恐怖は、決して大人たちだけのものではなかったのだ。屋外に出ることもままならない状況は、子供たちにとってもまた大きなストレス負荷となっている。教育システムは十分な質を保てないままオンラインに移行したため、教育格差を指摘する声も大きく、この国の何かが大きく崩れかけていることを、生活する全ての人たちが感じていたに違いない。


「ツグム。ご飯を食べよう」


 トワはそう言ってラップトップの電源を切ると、ヘッドセットを外した。窓の外から赤みを帯びた陽の光が差し込んでくる。トワの頬がオレンジ色に染まっていた。


「うん、もうこんな時間。じゃ、夕ご飯を温めてくるね」


 夕暮れのやわらかな日差しが差し込むリビングに、二人で並んで食べる夕食。それはささやかであったけれども、豊かな生活には違いなかった。人類がこれまで培ってきた生活の力が一つ一つ失われていく中でも残るもの。それは大切な人との関係性であり、そこで交わされる暖かな言葉、あるいは感情だ。


 未知のウイルス感染症が人から奪い去るのは、健康や金というよりは、文化的な生活そのものだ。大丈夫だよ、という言葉が温かさを失い、経験に基づく人間味あふれる言説よりも、数字やグラフィックで示される客観的な情報が倫理や道徳に置き換わる。科学はむしろそうしたリテラシーの育成を目指してきたのかもしれない。しかし、この急激な変化を、誰もが「仕方ないこと」として許容し続けた果てに、いったいどんな未来が待っているのだろうか……。


「これが……。人間が目指した文明社会……」


 トワの微かな声が聞こえてくる。ツグムが繰り返し見ていた夢。夢に出てくるその姿や雰囲気はとてもリアルなのだけど、いつもその顔をはっきりと見ることができなかった。光と影の間のような世界で、懐かしい話し方とその声が鮮明に聞こえてくる。


「トワ……」


 唸るエンジン音と同時にガクンと体が揺れる。その軽い衝撃にツグムの意識は現実を取り戻した。両手が背中に回され手錠をかけられているようだ。狭い車の後部座席に座らされている彼の隣には、同じく手錠をかけられたトワが、窓の外を流れる景色を見つめていた。車を運転しているのはツグムを銃把で殴りつけた丸刈りの男。その助手席には如月と呼ばれた迷彩服の男が、腕を組んでフロントガラスの前方をにらんでいた。


 トワの視線の先には新東京市の中心街が広がっている。かつてのメトロポリス、東京に人の意志の介在は見られず、地球という一つの生命体に取り込まれるがごとく、緑の植物で覆いつくされていた。


 車が走行しているのは高架道路らしく、変わり果てた東京の街並みが広く見渡せる。風化寸前の住宅街、倒れた電柱、巨大な水たまりに水没しているショッピングセンター。子供のころ、スマートシティーと聞いて思い浮かべた街並みとは程遠い現実がそこにはあった。


「ツグム、気が付いた? これが捨てられた街。新東京市」


 滅びかけた大都市の風景に、人工美など存在する余地が無いはずなのに、なぜが幻想的で郷愁さえおぼえる。


「あの建物は……」


 やがて前方に姿を現したのは、荒廃した大都市の中にそびえる巨大な建造物。円錐形の最上層には、ライトアップされた田邊重工株式会社のエンブレムが輝いている。


「ユーフォリアシティズムの象徴、ストロナペス……。田邊重工本社ビルよ」


 真っ黒な建造物に点滅する無数の航空障害灯が、朱と紫が混じる夕暮れ空に浮かんでいた。

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