第3幕
萌芽
目が覚めると、稲田は河川敷の橋の下で横たわっていた。
空は微かに明るく、空気がやたら冷たい。今は早朝なのかもしれない。
そして、ここはもう男の領土なのだろう。
どことなく痛む体を起こしてみる。
自分の体に毛布がかけられていることに気付く。
しかも体の下には段ボールが敷かれている。まるでホームレスだ。
いや、そういう風に見えるよう賀来が偽装してくれたのかもしれない。
毛布の中には、稲田のバッグと見知らぬビニール袋も隠されていた。
袋の中にはコッペパンが十個とペットボトルの水が二本入っている。強制的に追い出されたことには腹が立つが、これには大いに助かった。
賀来が朝布団の中に潜って稲田を驚かせるというようなことを昨日の朝、京都のホテルで話した覚えがあるが、さすがに賀来自身は毛布の中にいなかった。
バッグからスマホを取り出し時刻を確認したところ、午前六時頃であった。
バッグの中身がちゃんと揃っているか見てみると、奥底に茶色い紙包みが入っていた。手触りは柔らかい。
その謎の物体をおそるおそる開けてみる。
中身は茶髪のウィッグであった。
小さなメモ用紙も同封されていて、可愛らしい文字でこう書かれていた。
『餞別です。思い出にどうぞ。 賀来』
お土産まで用意してくれて、至れり尽くせりだ。
「こんなところに潜ってやがったか……ま、ちょっとは驚いたよ」
一人でそう呟き、微かに息を漏らした。
東京へ戻るのならば、最初に考えなければならないことはバイクを回収することだ。パンクしてバイク屋に修理を頼んだ直後に拉致されたから、預けっぱなしになっている。
あれから四日ほど経っていて、まだ稲田のバイクが残っているかどうかは分からない。女の領土とは電話が繋がらないせいで、連絡も来ていない。バイクがあっても保管料を請求されるかもしれない。
ネットで開店時刻を調べてみると、午前十時と書かれていた。それまでの間は、河川敷でコッペパンを食べたり景色を眺めたりしながら時間を潰すことにした。
川沿いの道には、ジョギングしている中年男性や、犬の散歩をしている老人が通りかかった。男を見るのも四日ぶりのことだ。
稲田は川の対岸に見える大きな工場を眺めながら考えた。
この先にある壁を越えた場所に栗生がいる。かつて俺と栗生はずっと同じ領土にいたけれど、今は壁によって別たれている。あいつは今頃、何をしているのだろう。
草地の上で座っていると、賀来に拉致された日のことを思い出す。栗生と二人でここに座っていた。
栗生はあのとき、自分が元の世界で死んでいることを話そうとしていた。賀来が来なかったら、どうなっていただろうか。栗生は壁を越え、実家でこの世界の自分と出くわすことになったのだろうか。考えるだけでも、ぞっとする。
それとも俺は栗生の話を聞いて、この世界にもう一人の栗生がいることに気付けただろうか。
気付いていたらどうなっていただろう。栗生は実家を目指すのをやめ、男の領土に留まったかもしれない。やがて異孤が起こり、途方に暮れることになったのかもしれない。
分からない。結局どうなるのが正解だったのか。
そんなことを考えているうちに十時になった。
稲田はあの小さなバイク屋へ行った。
店内を覗いてみると、あの日と同じ店主がいた。
「すいませーん」
声をかけると、店主は稲田の顔を見て驚いた。
「あっ、君!」
「俺のバイク、まだあります?」
「もちろん。全然取りに来ないから心配したよ」
「すいません、ちょっとトラブルがあって」
河川敷で麻酔銃を持った謎の女に襲撃される。これ以上のトラブルはなかなかないだろう。
「あの、保管料ってかかります?」
「いや、いいよ。何か事情がありそうだし、保管料のことは予め言ってなかったしね」
「ありがとうございます」
パンク修理してもらったバイクを見せてもらう。
二人の命運を分けることになった釘は綺麗になくなっていた。
会計を済ませ、バイクに跨る。
すると、店主が思い出したように言った。
「そういえば、今日はもう一人の可愛らしい子は一緒じゃないの?」
「ああ……」
稲田は俯き、微かな笑顔を浮かべた。
「あいつは、弟ですよ……。今日は来てないですけど」
「ふーん。じゃあ、大きくなったら弟さんのバイクも買いに来てよ」
「そうですね。いつか、きっと……」
もちろん、そんな日は永遠に来ない。
アクセルを吹かし、一人でバイク屋から去った。
女の領土へ戻ることは考えていなかった。というより、現実的に不可能だ。仮に侵入できたとしても、どこかで捕まってしまうだろう。
とりあえず東京の自宅へ帰るしかない。稲田はそう思った。
それから、どういうルートで帰るのか考えてみた。往路では栗生を乗せて安全運転で走ったから、二日もかかってしまった。
高速に乗るか、違反だけど……。
躊躇することなくそう決めた。
稲田のバイクは125ccなので高速道路を走ることは禁止されているが、栗生を送り届けた今となっては大して気にならなかった。見た目はごついから意外と大丈夫かもしれない。バレて違反切符を切られようが別に構わない。なかば、やけになっているのかもしれない。もう何もかもがどうでもよくなっていた。
一般道を十分ほど走ったあと、インターチェンジに入った。
料金所の付近に警察はいない。
そして、稲田はこの世界に来てから街中で警察を見かけた覚えがないということに気が付いた。それも、中瀬が言うところの「人類の良質化」の影響なのかもしれない。
問題なく料金所を抜けたあと、稲田はバイクのスピードを上げた。
一気にスロットルを開け、エンジン音を聞きながらリズム良くシフトアップしていく。
時速八十キロメートルまで加速したあとは、その速度をキープするようにした。
何の面白味もない道を一人で走っていると、今までとは違う感覚を覚えた。何かが決定的に足りないような気がした。
背中が寒いなぁ……。
ふとそう思った。
女の領土を目指しているときは、後ろにずっと栗生がいた。
子供のように稲田に掴まり、ときには景色を眺めながら騒ぎ、ときには何も言わずただ温もりだけを伝えていた。
そのことを思い出すと、急に寂しさがこみ上げてきた。
彼女の優しい感触や明るい声が恋しくなった。
でもそれは、稲田の手には二度と届かないものだ。
心が空っぽになった気分になり、孤独なハイウェイを走り続けた。
昼時になると、パーキングエリアで昼食をとった。メニューはごくごく普通の月見うどんだ。フードコートの片隅にそれを運び、一人で黙々と食べた。
そういえば、あいつは昼でもハンバーグセットとか味噌カツ定食とか濃厚ラーメンとか、がっつりしたもの食ってたな……。
稲田はここでも栗生のことを思い出していた。
彼女がいないと昼食の時間もすぐに終わってしまい、山に囲まれた無機質な長い道を再び走りはじめた。
そのあとも時折休憩を挟みながら走り続けたが、夕方には高速道路を抜け、東京にある自宅のアパートに着いてしまった。往路がどれだけチンタラとした旅路だったかということを思い知らされた。
しかし、そうだったとしても栗生と過ごす時間はとても楽しかった。
もしかしたら無意識のうちに移動に時間をかけていたのかもしれない。彼女との時間を引き延ばしていたのかもしれない。
今思えば、それは人生の宝物のようであった。
稲田は自室のベッドに腰掛け、思い出した。
あいつ、俺のことが好きだって言ってたな……。
なんだか心の奥がくすぐったくなり、体がじんわりと熱くなる。
栗生が死ぬだの死なないだの、元の世界に戻るだの戻らないだの、今までそんなことばかりに悩んでいたせいで、彼女の好意についてちゃんと考えていなかった。彼女の気持ちと向き合おうとしていなかった。実は一番大切なことなのかもしれないのに。
そのことを意識すると、無性に栗生に会いたくなった。彼女の顔が見たくなった。下らない話で笑ったり怒ったりしたくなった。彼女のそばにいたいと思った。
でもそれは、叶わぬ願いであるようだ。
どうして男と女は一緒に生きているんだろう。稲田はふとそう思った。やはり子孫を残していくためだろうか。
でもその理屈はここでは通用しない。
この世界では、男女が一緒にいなくても子孫を残せるシステムが構築されてしまっているから。
男女が助け合わなくても社会が成り立ってしまっているから。
結局、自分が栗生と一緒にいていい理由を、稲田は思いつくことができなかった。
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