第14話



 ミケーレが疾った。あっという間に数メートルの距離を詰めた。〝怪物〟が黒衣の内側から、あの突起状の物体を2本、突き出した。その2本の隙間に身体を滑らせ、肉薄する。〝怪物〟に後退する暇も与えず、抜き打ちの銀光が一閃した。

 〝怪物〟の首がゆっくりと滑り落ちた。黒衣の身体がどっと倒れた。ミケーレはすでに納刀している。ミケーレは数歩後退し、様子を窺う。

 〝キリストの肝臓〟を喰らって力を得たという割には、拍子抜けするほどあっさりと〝怪物〟は斬られた。それが不自然で、ミケーレは倒れた〝怪物〟をじっと眺めていた。マリアも同じだった。訝しんでいるのだ。


 しばらく見ていると、黒衣の内側が、ざわざわとし始めた。何かが蠢いているような感じだった。無数の何かが、〝怪物〟の黒衣を押し上げ、表に出ようとしていた。

 黒衣を破り、どっ、と溢れ出したのは触手だった。イソギンチャクの触手が、ぴたりとイメージに嵌る。サイズの大きなイソギンチャクだ。

 無数の触手が〝怪物〟の身体を中心に拡がり始めた。触手が増殖し出したのだ。〝怪物〟自身を飲み込み、見る間に直径3メートルに範囲が膨れ上がる。

 どうやら、あれは周辺の物を喰らって増殖しているらしい。

 ミケーレとマリアは距離を取った。試しに――とマリアがナイフを1本投げてみるが、何の変化もない。そもそも、どこを狙えばいいのか。

 マリアは息を吐いて、


「やっぱり、効果なし……か」

「あれも〝肝臓〟の効果か?」

「さあ? そう……なのかな」


 ミケーレの問いに、マリアは肩を竦めて見せた。

 触手はさらに拡がりを見せ、横たえられていた沙月をも飲み込んだ。砂に埋もれ、水に沈むかのように触手に飲まれていく沙月に、ちらと視線を送ったミケーレは何を思ったのか。


「こいつはもっと拡がると思うか?」

「その可能性は高いでしょうね」

「触れるもの、すべてを喰い尽くして?」

「多分……ね」


 マリアの見解は、ミケーレの推測でもあった。

 〝怪物〟はこの世のすべてを憎んでいた節がある。世界そのものを喰らい尽くして、滅ぼそうとしても、不思議ではないだろう。あの触手はその望みが、喰らった〝キリストの肝臓〟を通じて具現化されたものなのだろう。

 ミケーレは、やれやれ、と大きく息を吐いた。それから、しょうがねえなあ……と呟き、


「みんなは逃げ終えたか?」


と、マリアに確認した。


「ええ。残ってるのは、私たちだけよ」


とのマリアの返事に頷き、


「なら、いいか。マリア、こいつを預かっといてくれ」

「えっ?」


 戸惑うマリアに、拳を突き出した。反射的に出したマリアの掌の上に、月明かりを映した、あのロケットが転がった。ロケットを見つめるマリアに、ミケーレが続けた。


「もし、俺が暴走したら、お前さんが。マリア」


 その言葉を聞いて、マリアがミケーレの腕を掴んだ。ミケーレの顔を見詰め――、だが、何も言わずに押し黙った。何と言ったらいいのか、分からない。そんな体のマリアを見て、しばらく考えた後でミケーレが言った。


の話だよ。そん時ゃ、俺に触れないで殺せ。そんな芸当――、マリアにしか出来ないだろ?」


 そう言って、マリアが以前に投げつけたナイフを渡した。あの夜の物だ。その数、4本。マリアは黙って受け取った。何も言わないが、マリアの憂いが深くなった。

 それを見たミケーレは、マリアの頭に手を乗せた。子供にするように、優しい微笑を浮かべ、金色の髪をにした。俯いて、ミケーレにされるがままになっていたマリアだが、


「死なないで……」


と、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。


「うん?」

「死なないで……」


 もう1度、さっきよりは大きな声で言った。ミケーレに縋りつき、顔を上げた。眼には涙が溢れていた。今にも涙が零れ落ちそうな瞳で、ミケーレを見上げた。


「あなたが死んだら、今度こそ私は独りぼっちになっちゃうじゃない! そんなのは嫌よ……」


 最後の方はまた、小さな呟きになっていた。ミケーレは困ったような顔をして、


「これはまた……。告白みたいだな」

「そうよ……」

「ん?」

「沙月と話をしてて、それで気付いたの。私は、ミケーレが好き」


 マリアの頬を涙が伝った。


「あなたが好きよ、ミケーレ。……ずっと前から、あなたのことが好きよ」

「そうか……。……うん、ありがとう、マリア。こんな俺にも、好きだと言って、泣いてくれる女性ひとがいる。それで十分だよ」


 積年の想いを告げるマリアの瞳に溢れる涙を、ミケーレは優しく指で拭い、微笑んだ。


「それにな。別に、死ぬ心算はないんだぜ? だから……さ。そんな顔はするな」

「……ん」


 涙を拭われながら、マリアが頷いた。


「さ……。少し、離れてろ」


 ミケーレはそう言ってマリアに背を向け、元〝怪物〟に向かって、数歩進んだ。

 それから、左腕の袖を肘まで捲り上げた。刀を抜き、それを左肘に当てた。そして、何とそのまま、刀身を引いた。肘から先が、ぼとりと落ちた。滝のように、血が噴き出す。ミケーレは落とした左腕を拾い上げた。その切り口からは、なおも血が零れている。それを顔の上に掲げるや、零れる血を飲み出した。嚥下する咽喉が大きく動いている。ごくりごくり、と飲み干す音が響く。

 腕から流れる血の量は弱くなったが、左腕は肘から先しかないのに、未だ、血が溢れてくる。飲むのが間に合わず、口から零れ出すほどの量が、の腕から出続けるのだ。

 ミケーレの顔が、零れた血で赤く染まっていた。

 やがて――。


 在り得ないほどの量の血を飲み干したミケーレが、左腕を肘に当てると、腕は繋がった。手を離しても、腕は落ちなかった。

 ミケーレはそのまま、〝怪物〟の触手に向かって歩き出した。触手の目前まで行っても、歩みを止める気配はない。

 餌がやって来たとばかりに、5本、10本と触手を伸ばした。絡め取ろうというのだろう。それに対して、ミケーレは腕を振った。素手を、ただ平手で振ったのである。ミケーレの平手に触れた触手が消えた。文字通り、掻き消すように、消滅したのである。描かれた砂絵を、手で均した様に似ていた。

 先端から途中まで掻き消された触手が、慌てて引き戻された。どうやら、痛みは感じるらしい。ミケーレから距離を取り、どうしたものかと、寄せては退いてを繰り返して様子を窺うように波打っている。明らかに戸惑っている。


 ミケーレがさらに触手の輪の中に踏み込んでいく。すでに直径50メートルを超えていた触手の中央を目指して躊躇なく、ずかずかと進んでいく。腕だけでなく足や胴など、部分にかかわらず、ミケーレに触れた触手は例外なく、消滅した。

 触手同様に喰らっているのか、それとも、無と帰すのか。

 自らを凌ぐ浸食に対し、触手にミケーレの進攻を防ぐ術はなかった。


「ハハッ!」


 顔は血に塗れ、遠くからでは、その表情までは分からない。だが、零れ聞こえる声からすると、やはり笑っているのか。


「クハッ! ハッハハ!!」


 いつもとは違う、狂気を孕んだ笑い声であった。


「あの人、大丈夫ですか?」


 ミケーレを見つめていたマリアが、不意に声をかけられて、驚いたように振り向いた。全く気付かなかったからだ。

 いつもなら、そんなことはあり得ないが、今のは完全に不意を突かれた。それほど、ミケーレの動向に注意を払っていたのだ。

 声をかけたのは、先ほどマリアが抱えて助けた隊員だった。他の者は触手から遠く離れたか、とっとと逃げ帰っていたが、彼は恩人のマリアが気になって、1人だけ引き返したのだった。

 心配そうに覗き込んでくる彼に、マリアは心中の不安を覆い隠すように、精一杯、笑顔で返した。


「ええ、多分」

「そうですか? なんか、さっきまでと雰囲気が変わってますけど……」

「私は見たことがないけれど、ミケーレは以前に2回ほど、なったことがあるらしいわ。1度は大暴れしたそうよ。どうやって、元に戻ったのかは言わなかったけれど。後の1度は何とか治まったらしいわ。そんなことがあったから、彼は自分の血が嫌いなのよ」

「血が嫌い……って、吸血鬼なんでしょ?」


 隊員がどういうことか、理解し難い――と言った顔でマリアを見た。


「彼は元々、血を吸わないから」


 マリアはミケーレを見ながら、そう言った。

 ついに触手の中央に到達したミケーレは、そこで屈み込んだ。手を伸ばすと、触手の発生源である〝怪物〟の身体が現れた。さらにその身体に腕を突っ込み、何かを探るような動きを見せた。しばらくして、抜き取った手には、何か肉の塊のようなものが握られていた。それを抜き取られた途端、〝怪物〟から発生した触手が、動きを止めた。それどころか、拡がりを見せていた触手が、見る間に縮んでいく。依り代であった〝怪物〟から肉塊が失われたことで、触手が収縮し始めたらしい。

 やがて、触手はすべて消滅し、〝怪物〟の身体も、急速に本来の歳月を経たことで崩れ落ち、塵と化した。すでにミケーレに首を落とされており、力の源であった〝キリストの肝臓〟を抜かれたからであろう。


 触手が1度は飲み込んだせいか、芝生も根こそぎ吸収されて、地面が剥き出しになっていた。死亡した隊員たちも、パオロも、ジル・ド・レエや〝人形使い〟、そして沙月の姿もどこにも残っていなかった。

 ただ、月が辺りを照らす深夜の静かな公園に、ミケーレがぽつりと立っているだけであった。


 ミケーレは手にした肉塊――〝キリストの肝臓〟――を高く掲げた。大きく口を開き、飲み込もうとした。肉塊を喰らった〝怪物〟がどうなったのかを知ってなお、それを喰らおうというのか。


「ミケーレ!」


 鋭いマリアの声とともに、光る物がミケーレに向かって飛んだ。ミケーレは振り向きざまに、左手で飛来した物を掴んだ。肉塊を掲げていたミケーレの動きが止まった。腕を降ろし、左手の物を見つめた。投げナイフが飛んできたと思っていたが、手の載っているのは、あのロケットであった。ミケーレは静かにロケットを見つめ続け、そして、右手の肉塊を見つめた。それから、大きく息を吐いたミケーレは、右手に載せていたを握り潰した。

 歩き出したミケーレが止まった。は沙月が頽れた場所だった。沙月の姿はもう残っていないが、確かにそこだった。ミケーレはしゃがみこみ、左手のロケットをそっと女面に置いた。


「助けられなくてすまなかったな、沙月。これは手向けだ。それじゃあ……な」


 ぽつり、とそう言って、ミケーレは立ち上がった。

 ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくるミケーレの顔を見たマリアが、安堵して眼を閉じた。それから、隣にいた彼を見て、


「教会本部に連絡を。すべて終わった――と。事後処理班の要請をお願いします」

「あ、はい。了解しました」

「今回の件で被害に遭われた方々のご遺族には、特に厚いケアを……と」

「はい。了解です」


 こちらを見るマリアの顔が心底、嬉しそうなのを見て、彼も何だか嬉しくなった。だが、ミケーレに向かって駆け出して行くマリアを見た時、彼はのだと知った。


 マリアが駆けてくるのを見たミケーレは、立ち止まった。マリアの嬉しそうな顔を見ると、つい口元に笑みが浮かんだ。それから、思い出したように、服の袖で顔を拭った。まだ所々、血がこびり付いていたが、今まで血塗れだったことを思えば、ずいぶんとになった。

 立ち止まると思っていたが、マリアはそのまま、ミケーレの胸元に跳び込んできた。


「お……!」


 ミケーレは慌てて、抱き止めた。


「おいおい」


 腕の中のマリアに、ミケーレが呆れ顔で声をかけた。マリアがこんなことをするとは思ってもみなかったのだ。胸に顔を埋め、マリアが回した腕に力を込めた。想いの丈が詰まった抱擁であった。

 顔を埋めたまま、


「良かった。ミケーレが帰ってきてくれて……本当に良かった」


と、言った。ミケーレも、


「ああ、ただいま。マリア」


と、答えた。マリアは顔を上げた。少しだけ、悪戯っ気を含んだ顔で、


「ところで、ミケーレ。私は告白したんだけど、その……まだ、返事を聞かせてもらってないわよ?」


と、微笑んできた。


「そう……だな。うん……」


 ミケーレは天上の満月を見やった。どうやら、照れているらしい。どう答えたものかと、少し考えた後、マリアを見やり、


「俺も……だよ、マリア。俺もマリアを愛してる。これからも、ずっと……だ」


と、言った。マリアは微笑んだ。ぽろぽろと涙が零れた。


「ま、及第点……かな」

「相変わらず、容赦がねえ」


 ミケーレは苦笑を浮かべ、また夜空を仰ぎ見て、そう言った。


 

 そして――。

 月明かりの下――。


 2人はどちらからともなく、唇を重ねた。

 

 

  

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