第8話



 沙月を引き連れて勝手口から出てきたマリアを認め、舌打ちをした者がいる。


「あの小娘が使えるか、とも思ったが――。面倒な奴が付いてるな」


 闇の中でぼやいた声は、あの少年だ。暗闇に溶け込んでいて姿は見えないが、この少年はマリアを見知っているのか、その声は苦々しげだ。


「絡め手は使えないか……」


と、一手を諦めたように呟いた。その声を機に、気配は消えた。



 沙月と一緒に歩いていたマリアは、こちらを窺っていた気配が消えたことを知った。どこからとは、はっきり判断出来なかった気配だが、消失したことは確信することが出来た。また、沙月を狙おうとしていたのか、自分を狙ったものだったのかが分からなかったのだが、どうやら諦めた様子であり、そこから推測するに、沙月を狙ったものだろうと思われた。自分が狙われていたのなら、相手も諦めたりはすまい。

 念のためにしばらく同行していたが、気配は完全になくなっている。もう大丈夫だろう。


「沙月、あとは1人で帰れるわね?」


と、マリアは問いかけた。


「……やっぱり、何か、いたんですね?」

「いたけれど、消えたわ。もう大丈夫でしょう。さっきも言ったけど、私も用があるから、もう行くわ。1人で帰れる?」


と、質問を返す沙月に、重ねて確認した。


「大丈夫です」


と、沙月は力強く答えたが、そこに根拠はなかった。強いて言えば、マリアへの対抗心からであっただろう。そんな沙月の心情を知ってか知らずか、マリアはその眼をじっと覗き込んだ後、優しく頷き、


「それじゃあ」


と、踵を返し、元の道を戻り出した。先行しているミケーレと合流するためである。その直前に、呟きほどの小さな声で、


「巻き込んでごめんなさい」


と、言ったことに、沙月は気付かなかった。

 マリアを見送った後に、沙月も家路を辿り出した。しかし、胸の奥に残るもやもやは消えず、沙月は視線を足元に伏せたまま、暗い帰り道を急いだ。



 マリアと協議した後、教会を出たミケーレは当て所なく、街を徘徊していた。〝怪物〟陣営の者を釣り出すためである。ミケーレ自身が、敵を釣るための〝餌〟なのだ。


「どいつか、引っ掛かればいいんだがな」


 しばらく歩きまわっていたが、あまりに変化がない。囮になるのは構わないが、成果が出ないと退屈だ。釣果が上がらない釣りは飽きてしまうものだ。それに、もうすぐマリアと落ち合う時刻だ。釣れれば、仕留めるチャンスが大きくなる。


「そろそろ、何かが起こらないか……な?」


と、ミケーレは背後をさり気なく見やった。振り返ったと分かるほどではなく、様子を窺う。先ほど呟いたあたりから、こちらを窺う気配があったのだ。ちらと見てみたが、気配の主らしき姿は見当たらなかった。上手く人混みに紛れているようだ。


「ふふん?」


 ミケーレは鼻を鳴らして、歩くスピードを少しだけ速めた。

 ほんの僅かだけ――。

 速度を上げたと自覚出来ないくらい――で、だ。

 こちらも芋を洗うような人混みを縫うように歩き、悟られないようにまたも、ほんの僅かずつだが速度を上げる。背後の気配は、確かにいて来ていた。僅かなスピードアップを繰り返し、いつの間にかミケーレの歩く速度は、最初の倍くらいになっていた。

 そっと、脇道に逸れ、次第に人気の少ない所へと外れていく。気配は――いる。

 とうとう、路地裏へと出た。ちょっとした広場のようなところである。辺りにはまったく人がいない。ここは立ち並ぶビルの谷間になり、誰も寄り付かない場所だ。見方を変えれば、ガラの悪い場所なのだ。それを証明するように、周りのビルの壁面には、取るに足りない文字だの柄だのといった悪戯書きが、スプレー缶でびっしりと描かれていた。


「さあ、いいぜ。ここなら、邪魔は入らないだろ?」


 ミケーレは背後の気配に呼びかけた。振り返って見れば、1頭の大きな犬が路地の出入口を塞ぐように、立ちはだかっていた。

 犬――?

 上下の顎には、6対の門歯、2対の犬歯、8対の小臼歯、大臼歯は上が4本、下には6本が並び、黒ずんだ褐色の体毛、肩までの体高は軽く1メートルはあろうか。通常、寒冷地に生息する亜種では大型化が進むが、それよりも一回り、二回りは巨大な個体である。最高時速では20分間ほどだが、時速30キロメートルほどであれば1晩中でも追跡が可能であり、鋭敏な嗅覚と群れでの行動を利して、獲物を追い詰める。

 確かに、イヌ科イヌ属だが、イエイヌはの亜種の1種を飼い慣らして家畜化したものだという説が有力だ。


「ほう? この国じゃ、1900年頃に絶滅したんじゃなかったのか?」


 当然、相手が言葉を理解出来る、と言わんばかりに、ミケーレはそれに話しかけた。


「〝〟って奴は」


 その一言と同時に、〝狼〟は唸りを上げて跳びかかってきた。通常は最高時速にしても70キロメートルだが、これは尋常ではないスピードだった。だが、すでに軽く腰を落とし、如何なる動きにも対応出来るようにしていたミケーレは、難なく回避した。

 と、同時に、銀光一閃――。

 いつの間に帯びていたのか、交差した瞬間には、左下方から右上へと逆袈裟に斬り上げる一撃を抜き放っていた。普通なら真っ2つになるところが、この狼は空中で体を捻り、間、一髪で鋭い剣撃を避けて見せたのである。


 地に降り立った狼は、どこか歪んでいた。

 足の長さがおかしい。

 前肢の角度が妙だ。肘の部分で真下でなく、両側に大きく広げている。

 後肢が長い。普通であれば、肩のほうが腰よりも高い位置になるというのに、それは人と同じ比率を示していたのだ。


 ぐるる――。


 低い唸り声を立てつつ、。2本の後肢だけで――。


「人狼――か」


 ミケーレは呟いた。

 一刀を両手で正眼に構える。いつ差したのか、鞘は腰のベルトに差し込まれていた。対峙する距離は5メートル。しかし、先ほどの人狼の跳躍力を考えれば、この距離はないに等しい。


「〝怪物〟の仲間ってとこか。それとも、使いっ走りかい?」


 ぐるる――。


 ミケーレの挑発と取れる発言に、人狼は低い唸りを上げつつ、間合いとタイミングを計っているのだが、ミケーレが正眼に構えているので、迂闊には跳び込めないでいた。

 正眼の構えは、攻防一体の構えでもある。

 正面から敵が近付けば、突き込むことが出来るし、払うことも擦り落とすことも容易だ。


「どうした。来ないのか?」


 睨み合いに焦れたのか、自らの速度によほどの自負があるのか、人狼は躊躇いを捨て、跳び込んできた。ミケーレは右手側に躱しつつ、すれ違う人狼に合わせて一刀を振り降ろした。同時にミケーレは、右足、左足、右足――と、3歩後退し、人狼が駆け抜けたことも相まって、適正な間合いを確保していた。

 先ほどと同じ距離。刀はすでに、正眼に構え直している。

 攻撃を躱されたと知って振り向いた人狼の左手が、肘の辺りからボトリと落ちた。すぐに血が溢れ、滝のように噴き出した。焼きつくような痛みに、


 ぐごおお――。


と、怒りと恨みの籠った唸り声を人狼は発した。

 斬り落とされた左腕を中心に、2人は等距離で対峙していた。人狼の治癒能力ならば斬り口を合わせるだけで何の障りもなく繋がるのだろうが、地面の腕を拾おうにも、正面でミケーレが切っ先を向けて構えていては、人狼といえども、さすがにおいそれとは近づけない。じんじんと熱く痺れるような腕の痛みが焦燥感を生み、人狼はもどかしさに歯噛みした。


「この程度――か。どうやら、ただの使いっ走りだったようだな」


 ミケーレはさらに挑発するように、人狼にそう言い放った。戦いの最中だというのに、右眼でウインクすらして見せたのだ。バカにされたと感じたものか、激高した人狼はまたしても、ミケーレに跳びかかった。

 だが、今度はミケーレもするりと前進し、間合いを詰めた。威嚇すればミケーレが退くであろうと高を括っていた人狼にしてみれば、それは予期せぬ行動だったに違いない。

 間合いを狂わされ一瞬、戸惑う人狼に、ミケーレは無造作に刀身を突き入れた。間合いを見誤った人狼には、切っ先が無限に伸びてきたように感じられたやも知れぬ。

 切っ先は人狼の口から後頭部までを貫き、その突進をも止めて見せた。


 ぐがあああ――。


 激痛に身悶えし、狂ったように刀身を掴もうとするが、左腕はすでになく、右手1本で掴んだところをすかさず、ミケーレは刃を半回転させて上向け、ほんの少しだけ刀身を引いた。刀身を掴んだ人狼の右手の指は、親指を残して、ぱらぱらと地に落ちた。

 脳を貫かれ、痙攣を起こし出した人狼を冷静に観察していたミケーレが、突然身を翻し、その刀身で人狼を背負い投げの要領で上空に放り上げた。


 ドンッ――!!

 ギャンッ――!!


 落ちてきた影が重なった瞬間、人狼の身体は上下真っ2つに斬り裂かれていた。人狼を投げつけたミケーレはすでに後退しており、影を視界に入れる位置に移動している。

 地に降り立った影がゆっくりと身を起こした。

 影は黒光りする重厚な金属の光沢を放っていた。中世西欧の甲冑を着込んでいるのである。足元では分断された人狼が、断末魔の苦しみに打ち震えていたが、数度の大きな痙攣を起こし、やがて、ぴくりとも動かなくなった。絶息したのである。見る間に上下の身体は、元の大きな狼へと戻っていた。

 切断面付近には、人狼を断ち斬った切っ先があった。

 両刃のそれは、西洋の剣にしても大きく、そして太かった。長さは柄を含めれば、1・5メートルはあり、身幅は細くなっている切っ先ですら、10センチを超え、最も太い柄付近では20センチ近くある。刃も分厚く、その重量はとんでもない重さになるであろう。無闇に受ければ、ミケーレの持つ日本刀程度であれば、その刀身ごと、ぶった斬ってしまえるのではないかと思わせた。

 振り回すだけでも大変な労力であろう大剣を、この騎士は軽々とこなして見せたのである。


「その甲冑、その大剣。噂には聞いてるぜ。お前さん、〝怪物〟側に付いたのか。〝ジル・ド・レエ〟?」


 ミケーレは騎士に静かに語りかけた。騎士が印象通りの重い声を発した。


「いかにも、俺はジル・ド・レエだ。お初にお目にかかる。よ」

「初見なのに、えらい言われようだな。ま、いいや。断っとくが、俺は吸血鬼の悉くを滅ぼそう――なんてつもりはないんだぜ? 人間に対しての天敵――そんな存在だと思ってるよ。俺が狩るのは、調子に乗り過ぎた奴らだけさ。〝出る杭は打たれる〟ってね。何事も、やり過ぎってのはよろしくない。お前さんもそうさ」

「狩れるものなら狩ってみろ。だが、俺にはやらねばならないことがある。それまでは、狩られんぞ」

「やること……ねえ。風の噂じゃ、お前さん、あの娘を甦らせたいらしいな。〝怪物〟が甦らせてやると約束でもしたか?」

「左様。彼女に再び会えるのならば、俺は如何なることでもしよう」

「百年戦争の〝救国の英雄〟が、戦友にそこまで惚れたか。しかしなあ、〝怪物〟をそんなに信用していいのか?」

「言うな。俺には彼奴を信じるしかないのだ」


 先ほどまでは真剣な口調であったが、今の台詞はどうやら、冑の中で苦笑しているらしい。自分でも〝怪物〟の信憑性を疑っているのだろう。

 会話を交わす中でも、二合、三合と打ち合うものの、手練れの2人にとっては、牽制ほどの効果もない。やがて、黒騎士ジル・ド・レエは右八双――右足を引き、右脇に刀身を立てて構え、ミケーレは変わらず、正眼の構え。隙あらば、両者とも一切の手加減なしに、必殺の一撃を繰り出すだろう。


「まったく……。その気持ちは分からんでもないがね。また、えらく好かれたもんだな。ジャンヌ・ダルクって少女はよ」


 睨み合いの中、ミケーレは騎士の言葉に嘆息しながら、そう言った。



 ジル・ド・レエは15世紀初~中期のフランスの男爵であり、イングランドとフランス間で起こった百年戦争を終わらせるきっかけとなったオルレアン包囲戦に於いて、聖女と称されたジャンヌ・ダルクに協力し、〝救国の英雄〟と讃えられた。

 ところが、後にジャンヌが異端と見なされ火炙りとなったことを機に精神を病んだとされており、自領に於いて悪行の限りを尽くし、ついには処刑された人物である。

 その悪行の数々によって、童話の『青髭』のモデルになった――とも言われている。

 しかし、処刑されたのは影武者だったのか、それとも、すでに吸血鬼となって不死を得ていたのか。

 錬金術に耽溺し、その成果を得るために多くの領民を虐殺したとも言われるが、それもジャンヌの復活を目論んでのことか、永遠の命を得るためか。あるいは、吸血鬼となるためだったのかも知れない。


「しかしなあ、あの娘がそれを望んでいるのかねえ」

「分かっている。たとえ彼女に憎まれようと、恨まれようと、俺はジャンヌを復活させたいのだ」

「俺たちと同じ、吸血鬼として――か?」

「出来ることなら、ただの人間として――だ。俺は彼女に、〝聖女〟などではなく、普通に生きて欲しいのだ。だが、それが叶わぬならば、たとえ吸血鬼だろうと構わぬ」


 どうやら、このジル・ド・レエは、かつて、秘かに愛したジャンヌ・ダルクの復活を望んでいるらしい。

 そして、それはどのような方法でも、どのような形で結実しても良いのだろう。

 たとえ、愛する女性が吸血鬼となって甦ろうとも――。

 この吸血鬼は、、生きて欲しいと言う。


「で? 〝怪物〟にあの娘を甦らせる力があるのかい?」

「そう言った」

「それを信じた――と。〝キリストの肝臓〟にゃ、そんな力はないだろうに。そもそも、ありゃあ紛い物だろ」

「可能性があるならば、それに賭けるだけだ」

「融通が利かん奴だなあ。この分からず屋め」


 そう言いながらミケーレは、そろそろマリアと落ち合う約束の時刻だと考えていた。マリアが来れば、この膠着状態も少なからず、動くだろう。

 そんな思惑をなぞるように、高速で飛来する物があった。それをジル・ド・レエが剣で弾き返した。その瞬間にミケーレが間合いを詰める。


「ふっ!」


 面を打つ、上段からの一撃。ただし、これは牽制であった。だが、ジル・ド・レエは後退して躱すしかなかった。飛来物を弾くために、大きな隙が出来てしまったためである。大振りな剣故に、どうしてもテンポが遅れがちになる。後退し、安全な間合いを取り直したジル・ド・レエは、路地裏の入口を見やった。

 そこに立った人影を。


「来たか。さすがに時間通りだな」


 ミケーレが微笑を浮かべ、呟くように言った。

 そこにはマリアが立っていた。美しい金の髪を僅かな風に揺らし、右手には長剣を抜いていた。左手は何かを投げた後、元のように、自然に垂らしている。先ほどの飛来物は、マリアの放った投げナイフであった。マリアを認めたジル・ド・レエが、


「教会の異端審問会の者か?」


と、問いかけた。


「そうよ。そう言う貴方はジル・ド・レエね。貴方、500年も前から手配されてるわよ」

「貴様に俺が狩れるか?」

「そうね。やってみましょう」


 可愛らしく右に軽く首を傾げ、何気ない風に答えてから、マリアは無造作に近づいていく。歩きながら、左手にも剣を抜いた。二刀流がマリアのスタイルらしかった。見れば、マリアの両手の剣は柄が短い。両手で持てば隙間を作れず、両の拳をくっ付ける持ち方しか出来まい。それでは力の効率も操作性も悪くなり、両手持ちのメリットがない。やはり、片手でしか持てない長さなのである。


 3メートルの距離を置いて、2人は対峙した。

 先に動いたのは黒騎士ジル・ド・レエ。

 大剣を上段から、真っ向に振り降ろしてきた。狙うは膂力任せの威力による一撃必殺か。しかし、マリアはひらりと躱す。風に舞う羽毛を掴むのは難しいが、それと同様に、豪剣の生み出す風圧に身体を押されたかの如くに、ふわりと躱して見せた。


 ズン――!!

 アスファルトの地面にめり込んだ大剣を、ジル・ド・レエはそのまま、横殴りにぶん回した。破片を飛ばしながら迫る剣を、マリアは身体ごと、くるりと飛び越えて躱した。ジルはもう1度、大剣を大きく振りかぶり、真っ向から斬りつけてくる。

 マリアは右手の長剣を、柄頭が上に来るようにして刃を斜め下にし、頭部から左肩までを刃で護る形で受け、そのまま擦り落とす。そして、がらんどうになった胴を左手の短剣で打った。ジル・ド・レエは胴を打たれる寸前、左腕でガードした。腕宛には、剣筋を変えるための剣受けが付いている。それで防ごうというのだ。

 ところが、当てる間際にマリアは左の剣を引き、大剣を擦り落とし終わった右手の剣を素早く斬り返して、ジル・ド・レエの左腕を斬り飛ばした。

 洋の東西を問わず、甲冑という物は着用する構造上の都合から、裏側の防御は手薄になっている。関節も、曲がる方向はどうしても装甲が薄くなるか、付けることすら出来ない。マリアはそこを狙ったのである。

 切断された肘からは多量の血が噴出したが、しばらくすると治まってきた。まだ滴ってはいたが、それほどではない。これも吸血鬼の不死性故か。


「ぬう……」


 左腕を肘から斬り飛ばされ、ジル・ド・レエは低く呻いた。けして侮っていたわけではないが、想像以上にこの審問会の女は手練れであった。感心する間も有らばこそ、視界の端からミケーレが踏み込んできた。ジル・ド・レエには大きく跳び退がるしか、術はなかった。


「どう?」


 マリアが、じり……と間合いを詰める。ジル・ド・レエは分が悪いと認めざるを得なかった。マリアだけでなく、ミケーレもいるのだ。1対2である。この2人、どちらも一言も、1対1で勝負するとは言っていない。


「……やるな。ここは退くとしよう」


 そう言って、ジル・ド・レエは後退し、闇に溶け込んだ。左腕を回収したかったが、状況が許さなかった。マリアが素早く、投げナイフを投擲した。金属音が鳴り、弾き飛ばされたナイフは再び、マリアの手に戻った。ジル・ド・レエが正確にマリアの手元に戻るように、弾き返したのだ。投げナイフを掴んだ時にはすでに、黒騎士ジル・ド・レエの気配はなかった。


「逃がしちゃったわね」


と、マリアが言った。意外なことに、悔しげではなかった。


「まあ、これを戦果としておこう」


と、ミケーレが落ちていたジル・ド・レエの左腕を刀で突き刺し、持ち上げた。途端に、さらさらとした塵が零れ落ちた。見る間に、腕の体積分の塵が積もり、残ったのは空になった手甲だけだった。


「さすがに500年も経っちまうとボロボロだな。何にも残りゃしない」


 刀をして、空になった手甲を振り落したミケーレが、珍しくもなさそうに言った。がちゃりと音を立てて落ちた手甲も、いつの間にか錆だらけだ。所々が朽ちて、穴すらも開いている。ジル・ド・レエから離れて、本来の経年劣化が起こったものらしい。ミケーレは納刀しつつ、マリアを見やり、


「やけにサバサバしてるな」


と、訊いた。マリアも剣を収めながら、


「そう?」

「うん。そうさな……。どこか、吹っ切れた感じだ。いい意味でな。何かあったか?」

「沙月が来てね。話をしただけよ」


と、言った。


「沙月と?」

「そ。あの娘なりに、気を遣ってくれたみたい」

「ふうん……。ま、女2人、積もる話でもあったか」

「そうよ。女同士、色々とね」


 優しく微笑むマリアを見て、ミケーレも口元が緩むのを感じた。


「あの娘ね……」

「うん?」


 やや躊躇った後、一拍の間をおいて、マリアが続けた。


「ミケーレのことが好きみたいよ」 



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