要はなにしにバブルへ?

 作業のあいま、窓辺の机から見やる。

 七月の半ばを過ぎても空は連日のようにぐずつき、梅雨の終わるきざしは見えない。

 作業机と同じく、年代ものかつそっけのない代わりに頑丈な木椅子を、艾草もぐさひろしはきしませ、背伸びとともにため息を漏らす。

 モニターのブラウザには、雲と傘マークの並ぶ週間予報。今年の梅雨明けは遅めになるらしい。

 この時期はどうも好きになれない。人が活動的になる夏の端緒が、くさくさとした天気というのが気に入らない。年間で日照時間が一番長くなるはずの夏至に梅雨がかかっているのも気にくわない。まさに文字どおり水を差してくれる。北海道には梅雨がないそうで、出身者の不藁をうらやんだところ、近年は道南西部などでは降るようになったと言っていた。


「ジューンブライド」という言葉が日本でもてはやされるようになったのはいつごろだったろう。挙式に不向きな時期を売りつける方便として広まったが、本場を旅したときのすがすがしい気候には感動したものだ。ヨーロッパを貧乏旅行で放浪したのはバブル崩壊後、たしか九五年だったか。当時はユーロの導入前で、国境を越えるたび両替で辟易した。


 懐かしげに思い返しながら、そのさらに過去へあと一週間あまりで飛ぼうとしていることを、博は奇妙に思う。今年は奇妙なできごとの連続だ。それらは新型コロナウイルスと大正島の事件、このふたつに起因する。前者の影響で、例年ならまだ平日のこの時間に出入りなどしていないはずのあおいが、伯父の背後で一生懸命、だらだらとスマホゲームにいそしんでいる。


 小さめの座卓には、持参の液晶タブレットと紙きれ。新感染症の検査結果が陰性であったことを見せに来たついでに絵の練習をしていくつもりのようだが、すぐに飽きて放りだし、ご執心の『転生したらチートスキルを555個(中略)世界を滅ぼしてしまいました ~オンラインでも無双します!~』を熱心にプレイしている。PCR検査の結果は、不要不急の外出を避けるため画像で送るように言っておいたのに遊びに来るし、出発まであまり日数がないのに過去絵の習得はさぼるわ、絵柄は二十一世紀感まる出しのままだわ。頭痛の痛みがはかどる。


 半身をねじりじとっと見下ろすと、視線を察して姪が顔を上げる。伯父の渋い顔をどう曲解したのか、葵は「今日はチートスキルね、もうふたつもゲットしたんだよ」とにっこり報告。二十五時間以内に五個手に入れたらもう五つもらえるんだ、などとうれしげに端末の画面をぽちぽちなぞる。なんだその一個買うともう一個ついてくる通販みたいなシステムは。チートスキルのバーゲンセールか。あと二十四時間でなくなぜ中途半端なのか。

 どうでもいいツッコミはいちいち口にするのもおっくうで、内心でつぶやいていると、葵は口もとを動かしぽつとつぶやく。「――んがいっしょに行くの、おじさんは気にならないの?」


 画面を見やったまま、姪はなにげないそぶりを装うように尋ねる。伯父の面持ちがいくぶん改まる。

 ゲームの軽快な音楽と効果音が、古びた居室でそらぞらしく鳴る。

 わずかの間、考えをめぐらせ「心配しなくていい」と博はかぶりを振った。


「だって昭和に行く理由って――」


 再びおもてを上げ、このごろの空のように晴れない疑念を投げかける姪っ子に、やんわりと、力強く、うなずいてみせる。「大丈夫だ」


 空気を読まない携帯端末から「チートスキルっ、全属性無視攻撃、発動はっつどぉ〜!」との脳天気なかけ声と派手なエフェクト音が鳴り響く。葵はそっと画面をスワイプしゲームを中断した。

 卓上に端末を置きちょこんと座りなおす彼女に、博も、ごご、と椅子を反転させて向きなおる。


「俺はあいつのことをよくわかっている。おまえも含めて、俺たちのメンバーに仲間を裏切るようなまねをする奴は誰ひとりいない」

「うん、あたしはおじさんのこと裏切ったりなんてしないよ。ほかのみんなだってあたし、すごい信じてるし。でも……」


 信頼しつつも自信なさげによどむ姪が言わんとすること、その複雑な思い。博は痛いほどわかっていた。今の状況で九〇年バブルへの同行を積極的に希望するということは、つまり――


「おまえは気にしなくていい」


 背もたれに体を預け天井をあおぐ。点在する木目と染みに動物の目鼻を連想する。

 いつだったか葵と拓海が、ゴマアザラシに見える、いやゴリラだ、と激論を交わしじゃれあっていたのを思い出す。ゴマアザラシじゃなくてゴマアザラシだと何度訂正しても、姪は間違えたまま脳内辞書を更新しようとしなかった。結局、論争は、どういう経緯をたどったらそうなるのか、ゴールデンレトリバーで手を打とうということで決着したようだ。

 ゆるく目を細めて、博は繰り返す。「大丈夫だ。気にしなくていい」


 釈然としない様子できゅっと口もとを結ぶ姪っ子に、なだめの言葉を重ねようと、傾けていた上半身を起こしたとき、玄関のひらく音がした。


 博さんいる、との若い声へ葵が顔を向ける。「あ、たくみん」

 博の眉間にかすかなしわが寄る。「あいつ――」


 PCRの検査結果を手にして、二葉ふたば拓海たくみがひょこと廊下から現れた。


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