葵駆けて、ヨコハマ駅、アレな人から逃げる
七
博は、くわ、とひとつ盛大なあくびを噛み殺した。
けして気が緩んでいたわけではない。が、徒労に終わった実家への朝駆けから、大荷物を抱えて満員電車で――
三十年の歳月は一瞬のうちに飛び越えてきたが、時間帯は、日暮れの出発から夜明け前の到着と大幅のずれがあった。現地時間は朝でも、タイムトラベルでやってきた一行の体内時計は今や夜。二十時ぐらいだろうか。
半日の時差ぼけは、寝不足と大はしゃぎの重なった女子中学生にひっきりなしのあくびを強い、伯父と拓海に伝染する。仕事がら、睡眠不足に耐性のある千尋と不藁は、感染・発症を防いでいた。
「うわぁー、同じ場所なのになんか感じ違うね」
駅舎を出た葵は、お疲れ気味の目を見ひらき、駅前の一望に感嘆をあげる。何回、同じ
なにせこの姪は、自分の知っている場所を目にするたび、壊れたレコードのように繰り返すのだ。そう揶揄したら「レコードってなに?」「それって、壊れるとリピート再生だけになるの?」これだ。
「おまえと話していると疲れる」
「ええー、あたしって癒やしキャラのポジじゃないの?」
時と場合による、と追い払うように手をひらひら振った。
伯父にあしらわれるのは慣れっこなので、彼女はとがらせた口をすぐに戻し辺りを見わたす。「どこ行っても、みんなもっさりした黒髪やビミョーな服ばっかだねえ」
またもや、おのぼりさんモード。まあ、未来から過去へさかのぼってきたという点では、ある意味正しいか。
「恥ずかしいからあまりきょろきょろするんじゃない」
「おじさんだって恥ずかしいかっこしてたじゃん。アニメの昔のオタキャラみたいな」
「リアルに昔のオタクだからいいんだよ。って、むやみに写真を撮るな、人に見られる」
「えー、なんでー?」
「この時代に誰もスマホなんて持っちゃいないんだ」
「そんなに高級品なの?」
「五千兆円積んでも手に入らん」
「へえぇ〜」
あまりわかってなさそうな顔で、わあ、あの
「実際に来てみると空気感が違うね」
陽を避け、駅舎の壁ぎわに立つ千尋が、出勤途中の人々へ高みの見物としゃれ込む。博と違い、毎朝、通勤ラッシュに揉まれるがわの彼女としては、優越感もひとしおなのだろう。
「駅前の風景、案外、変わってないようでいて、時代の空気に触れてみるとな」
違うもんだ、と千尋の視線の先を追う。雑踏を急ぐ――姪の言葉を借りるなら、もっさりとした黒髪の――群衆が織りなす、
古い記憶のかなたに忘れていた、三十年前の横浜、日本。
自分たちは本当に一九九〇年へやってきたのだと改めて実感する博は、すがすがしい朝日を浴びるなか、無意識にポケットを探る自身に気づいた。時代の
驚き苦笑する彼に千尋が、どうしたの、とにやついた。
「葵たちにヤニカス呼ばわりされると思ってな」
「ああー」二本指をそろえてみせる博に、彼女は会心する。「これが『ダメ絶対』に手を出してしまった人間の末路ね」
「大げさな」
「この時代ってものすごく安いんでしょ? スモハラとかやめてよ」
「今の俺はすっかりきれいなカラダだぞ。こっちの時代の俺だって、たしかその一歩を踏みだしたはず」
「いや、モグさん、七〇年生まれよね」相棒が、じとっとあきれのまなざしを向ける。「はー、これだから昭和生まれは」
自分だって今年生まれるぎりぎりの平成生まれだろう――博は言い返そうとする自身にぐっとブレーキ。
「宿探しを不藁にばかりさせられん」
俺らもやるぞ、と博はごまかすように拓海と葵を呼ぶ。また勝手にうろちょろしていた彼らは、見知らぬ女に目を閉じられ、なにやらぶつぶつつぶやかれているところだった。
そっと抜け出し戻ってきたふたりは、くたびれ顔でリーダーにすがる。
「博さん、聞いてくれよ。やべー女に捕まってさあ」
「『五分間、あなたたちの幸せを祈らせてください』って言ってきて、ずーっと魔法の詠唱みたいなことしてるの」
あれが昔のおじさんの言ってたやつなの、と葵は引き気味に女を見やった。葵たちの離脱に気づかず、彼女はまだうつむきかげんに合掌している。「なんなのあれ。ネタ?」
「ヤニ以上にダメ絶対のやつだ」少なくとも俺の中ではな、と博は、ぽかんとするふたりを尻目に、駅構内から博たちの身辺に留意しつつ電話帳をたぐっている不藁のもとへと向かった。
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