一九九〇年

東京は夜の一時

 当時、アメリカ海軍横須賀基地ベース所属の上等水兵だったフィリップ・ヴェリーは、その日経験した奇怪なできごとを後年まで鮮明に記憶している。

 どう考えても、深酒で酔いつぶれて見た夢か、幻でも見たとしか思えないが、それにしてはあまりにリアリティーに富んだ体験だった。


 あれは一九九〇年七月五日の早朝だった。正確な日にちを覚えている理由は、ひとつには七月五日の夜が当直であったこと。非番の者同士で、独立記念日の前祝いを口実に東京の歓楽街へ繰り出し飲み歩いたからだ。

 新宿の何度か通っているバーで飲みながら、イラクとクウェートの間が少しばかりきな臭くなっている、万が一、ことが起これば湾岸行きの召集がかかる、そんな話題が出て、ありえない、ゴセインもそこまで愚かじゃない、と湾岸有事の可能性に言及した当人を含め全員が笑い飛ばした。


 翌月、ジョークの半分は現実のものとなり、イラク軍がクウェートへ侵攻。翌年には残り半分が現実化し、空母・ミッドウェイでペルシャ湾へ派兵されていたフィリップは、湾岸戦争を経験する。あの日の年をはっきり覚えているもうひとつの理由がそれだった。


 陸軍とは異なり、空母ミッドウェイに乗艦する彼が前線へ投入されることはなく、砂漠の行軍に心身をすり減らさずにすんだのは幸いだった。が、永遠にも思えるひたすら長い待機期間はそれはそれで苦痛だった。

 横須賀に配属されてしばらくたったころも、たびたび故郷カリフォルニアが恋しくなったが、湾岸での駐留中は横須賀にさえも近しい感情をいだく自分に気づいた。

 うまい中華の食える中国人街チャイニーズタウンは近場にあるし、もう少し足を伸ばせば東京都内へ行ける。横浜も美しい都市だが東京は別格だった。当時の日本は国じゅうが空前の好景気に沸いていて、街全体に勢いがあり輝いていた。女は外人ガイジンに見境なく股をひらくし最高の街だった。


 それに比べて、中東の洋上の味気ないこと。

 艦の全方位にあるものは、単調な海と空と、それをわかつひとすじのラインだけ。おかに上がったとしても、砂と石油しかない不毛の地だ(当時の彼はなかば本気でそう信じていた)。早く横須賀へ戻り東京でバカ騒ぎしたい、そう願うたび、艦上で思い出したのがあの日のできごとだった。

 強烈に記憶へ刻まれたその経験を上まわる衝撃は、911ナインワンワン、ゴナルド・スランプの大統領就任、妻から「五年前から交際している同性パートナーがいる。離婚したい」と打ち明けられたときぐらいで、数えるほどしかない。


 あの日。

 日付が変わるまで飲んだあと、それぞれ、別の店へ飲みなおしに、あるいは女を抱きに、あるいは翌朝の勤務のため帰投し、解散した。

 だいぶ飲んだフィリップは、路地裏で一度盛大に吐いたあと、しばらくうずくまってから通りに戻った。同僚の姿はもうなかった。


 道ゆくビジネスマンや、娼婦コールガールのように肌を露出した女たちがちらと目をくれ通り過ぎるなか、ふらふらたどり着いた駅はすでに終電後。タクシーは、路肩で一万円札を掲げてドライバーの気を引くジャップどもにかなうはずもなく――むしろ乗車できなかったことはフィリップにとって幸運だったかもしれない。泥酔した頭は、都内から横須賀ベースまでいったい何万円びゃくドル請求されるのか想像する力を少々欠いていた――しかたなしによろめく足で街をさまよった。


 七月上旬の関東地方は雨季だったが、幸い、その夜は一時的にわずかばかり降ったのみでどうということはなかった。

 幸いといえば、この街だ。いつでもどこでも酒が買えるし(自動販売機でさえも!)、飲める。昼といわず真夜中といわず、路上・公園・駅前・地下鉄内と、どこであろうと逮捕もされなければ、銃を持った強盗に出くわす心配もない。

 恋人との国際電話に少々金がかかるのと、日本人モンキー風情が「ニューヨークどころかアメリカじゅうの土地だってまるごと買い占められる」などと豪語するのは気に食わないが、おおむね東京はL.A.ロサンゼルスNYCニューヨークに匹敵する最高の街のひとつだった。

 こいつも女もホットドッグも買えない砂漠への招待状が届かないよう、せいぜい大統領閣下さいこうしれいかんどのにはがんばってもらわないとな。


 バーでのジョークを思い出しひとりにやつく。がこん、と機械の吐き出した缶ビールを開封し、うまそうにあおった。道ばたへ、いくつプルタブと空き缶を放り捨て、路地裏の壁や公園の茂みに何度、放尿と嘔吐をしたか定かでない程度には、ひと晩じゅう、浴びるように飲み都心をほっつき歩いた。

 フィリップは少し、ひとりになって考える時間を必要としていた。


 ベトナム帰還兵であり負傷がもとで退役した父親は、息子が軍へ入隊することも横須賀にほんへ駐留することも、のちに湾岸戦争へ派兵されることも、一貫して反対した。ゴルベスタ・スタゴーンの『Fifth Bloodランゴー』をたびたび引きあいに『戦争は身も心も滅ぼす』と説いたが、フィリップは懐疑的だった。

 事実、その後の湾岸で壊滅状態に陥ったのは、彼の乗艦するミッドウェイから休みなく飛び立つ艦載機の空爆を受けたイラク軍だったし、続くアフガニスタンとイラクでの戦いも合衆国アメリカは勝利し正義を示すことになった。

 そりのあわない直属の上官以外、隊での生活に強い不満はなかったし、横浜や東京といった、洗練され異国情緒エスニックな空気に満ちた大都市は、L.A.にほど近い町で生まれ育ったフィリップの肌にあった。


 遅い時間でもきらびやかにネオンサインが明滅し華やぐ都会。今どこにいるのかも無関心で、フィリップは当てどなく徘徊し続ける。

 数人の集団とすれ違った。肩にパッドの入った流行の服を、それぞれの女が派手な色でもってまとい、動く花壇、あるいは交通信号機と化し、蜜や外灯に寄せられる蛾や蝶よろしく男たちが群がっている。


 酔っぱらった女のひとりが「こン二千ワ! ゴ‡ゲンい力ガ?」たぶんそう言ったらしい。ひどい発音のあとげらげら大笑いした。同じく顔の赤い男が「ディスゎペンです」とよくわからないこと言い、気色の悪い笑みを浮かべた。

 フィリップは愛想笑いを返して過ぎ去る。


 そうとうまわっている酔いとは対照的に醒めた目で、眠らない街をぼんやりながめた。

 話によると、ジャップの多くはこの好景気が永遠に続くと本気で信じているそうだ。バカげてる。景気には周期サイクルがあり循環することぐらい、ハイスクールのガキだって知っている。ゴールドラッシュは終わるものだ。

 後方でまだバカ笑いする男女と、遅かれ早かれ輝きを失うであろう巨大なサル山をフィリップはあわれむ。

 ――終焉は、合衆国でさえもまぬがれえぬのだろうか。


 歴史上、いくつもの文明・帝国が、栄華をきわめては滅んでいった。

 父親も、よく名前をあげる自衛隊の親友、サツキ・イガラシから聞いた『盛者必衰の理』という日本の言葉を好んで口にした。

 好況がいつまでも続くとの幻想をいだくジャップのように、我々もまた、永久に地球上の覇者であり続けると思い込んでいないか。ソビエト連邦ソれんを筆頭に、この星にはアメリカの敵が多数いる。そいつらににらみをきかせ――可能ならかつての日本のように打ちのめし従える――そのために米軍われわれは世界じゅうに展開している。

 しかし、強大なパワーを誇るアメリカでさえ滅亡は避けえない運命であるなら、自分ひとりの力などなんになる。

 最近、このままでいいのかと、フィリップはしばしば自問した。


 着任当初、国外は国境付近のティファナ――あれはもう半分地元のような地域だ――しか経験のなかった彼は、初めての海外に高揚した。

 日本は想像していた以上に西洋化していたものの、リアル東京はリトルトーキョーよりずっとエキゾチックでエキサイティングな街だった。

 隊での訓練は厳しかったが、休日のたび毎回のように出かける横浜や東京は、見るもの聞くもの、なにもかもが新鮮で、しばらくは熱病のように浮かされた。

 やがて、基地ヨコスカでの生活に慣れ、浮揚していた足が徐々に地につきはじめると、思うところが少しずつ現れはじめる。


 横須賀こっちへ来てからというもの、ろくに電話にも出ない頑固な父。息子の意志を尊重しつつも、できれば帰国し除隊してほしいと望む母。電話するたびに遠距離交際の不満を高めていくガールフレンド。


 そして、アメリカを守るためではあるが、ソ連など東側陣営の脅威に対し米軍の庇護下にあることについて、あまり感謝しているようには見えないジャップ。近年、特に経済力をつけた連中は、金にあかして世界じゅうで我がもの顔にのさばっているらしい。

 望んで国の外へ飛び出したが、犬でも知っている感謝の気持ちと忠誠心を見せず、代わりに不気味ににやつく、そんなアジアのサルを守りに来たわけではない。大切な人たちを国に残して、このまま極東の島せかいのはてにいていいのだろうか。


 投げ捨てた缶が跳ねて転がる。乾いた音に、増えていくアルコール量を思う。

 このごろは薬物ドラッグにさえ関心が向きはじめていた。聞くところによると、上野や代々木にある公園で、不法滞在するイラン人があつかっているらしい。海軍捜査局NISの目を欺き、基地内で隠し持てるだろうか。


 とりとめのないことを脳内で、酒でふらつく体を都内で、延々めぐらせているうち、空がだいぶ白んできた。夏至を過ぎたばかりで夜明けは早い。


 自販機でまたビールを買う。早起きのカラスの声を聞きながら、道沿いの標識や看板を見た。どうやらBunkyoバンキョーという地区エリアにいるようだ。

 どこだかよく知らないが、電車の動く時間になったら適当な駅か地下鉄で駅員に聞けばいい。つたない片言で乗換方法を案内してくれるだろう。品川まで行けば横須賀への帰りかたはわかる。


 何度目かわからない尿意を催して、裏路地へ踏み入ったときだった。

 フィリップはそこでひどく奇妙な――あとにも先にもないであろう不思議な場面に遭遇する。


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