第85話 言葉の伝え方

「電波ジャックを起こすんだ」


 病院の待合室。教会から合流した澤田さん達と共に、私は湊先輩の話を聞いていた。

 伏せがちのまつ毛が、彼の頬に影を落としているのが、至近距離からだとよく見えた。


「クリスマスの後。君がいない間、皆で集まって作戦を考えた」


 彼が取り出したのはポケットに入っていたUSBだった。

 いたって普通のUSBに見えた。私達が頑張って作った、怪物イメージアップ作品を詰め込んだものに似ている。だが話を聞くにどうやら違うらしい。


「これはただのUSBじゃない。マスターに作ってもらったものだ」

「マスターが?」

「街中の電波をジャックして、このUSBの中身を楽土町中にぶちまける」

「ぶちまける」

「中に入ってるのは『とある情報』だ。これを楽土町に発信することができれば……もしかすると、戦況を変えることができるかもしれない」

「ほぉん」


 私は溜息とも相槌とも言えない返事をした。ずいぶんと曖昧な表現は、私には少々難しかったのだ。

 そんな私に微笑を浮かべ、湊先輩は説明した。不思議なUSBに入っているその『とある情報』とやらを。

 話を聞いているうちに……私の目はだんだんと見開かれていった。

 USBに入っている情報とは、怪物のイメージアップ作品などではなかった。

 むしろその反対とも言えそうな代物だった。


「うん……」


 だが、そうか。なるほど。と私は唇を舐めて思った。

 情報戦、という言葉があるように戦いにおいて情報というものは強い意味を持つ。なにも、拳や魔法で戦うばかりが戦いではないのだ。

 確かに『この情報』、を流すことができれば戦況を大きく変えることができるかもしれない。

 少なくとも。今むやみに魔法少女ピンクに立ち向かおうとするよりも、ずっと勝ち目がある。


「楽土町に発信って? どうやればいいの。パソコンにでも差せばいい?」

「ああ、普通の通信とほぼ一緒だ。高い所や開けた所、周りに障害物がない場所であるほど電波を広範囲に広げられる。電波の範囲内でさえあれば、どんなパソコンやテレビにだってジャックしてUSBの記録を流すことができる。たとえそれがネットに繋がっていないパソコンだろうとね」

「へえ……」

「ただ、逆にいえばネットワークは関係ないんだ。USBを一つ差した瞬間に全国のネットワークを一気にジャックできる……とかじゃあない。大事なのは距離だ。一つの範囲はかなり狭い。たとえばそこの受付にあるパソコンにUSBを差したところで、ジャックできるのはせいぜい、そこのコンビニの監視カメラまでかな」


 病院から出て一分もしないところにコンビニが見える。あそこの監視カメラをハッキングして情報を流したとこで、それを見るのは数名の店員だけだろう。

 それっぽちじゃ駄目だ。私達が魔法少女に勝つためには、USBの中身をとにかく多くの人に見せる必要がある。全国は無理でも、せめて楽土町一帯だけにでも。


「用意されているUSBは三つ。一つは僕が、一つは雫ちゃんが、一つは涼が持っている。三つ全てを差したとき、マスターが一気に範囲内の電波をジャックして、この情報を流してくれるはずだ」

「つまり私達が今すべきことは、三つのUSBを楽土町のあちこちに差すってことね? できるだけひろーい場所か、たかーい場所にあるパソコンなんかに」

「『聖母様の攻撃をやり過ごしながら』、『街の安全パトロールをしながら』ね」


 真っ向から挑んでも、私達はきっと魔法少女ピンクちゃんには勝てない。『魔法少女』はヒーローで、『怪物』は敵だと決まっているからだ。パワーでは確実に押し負ける。

 だから私達は奇をてらう。『楽土町中にとある情報を発信する』ことで、違う方向から魔法少女と戦おうというのだ。


「……そうだ。ありすちゃんに、これを渡しておくね」


 ふと湊先輩が私の首に手を回す。僅かな重みを感じて視線を下げれば、私の首にカメラがかけられていた。

 所々血に濡れたそのカメラは、私が逃亡生活中にずっと持っていたものだ。家から逃げるとき、無意識に手に取って持ってきていたのだ。

 湊先輩もカメラを持っていた。湊先輩のお父さんが車から持ってきたものだった。

 この状況にカメラというのは何だかちょっとおかしい気がして笑ってしまうが、その姿は妙にしっくりきた。私も彼も。


「君の戦う姿を撮ってあげるよ。きっと忘れないように」


 湊先輩は小さく言った。


「全部終わったら一緒に写真を撮りに行こう」


 行こう、と湊先輩の言葉に私は頷く。首から下げたカメラを強く握りしめた。

 だが病院から出て行こうとしたそのとき。誰かが私の足首を掴んだ。


「ありす」


 振り返れば、パパが意識を取り戻していた。

 まだ顔色は青ざめているものの、薄く開いた両目がぼんやりと私を捉えている。

 さきほどの会話を聞いていたのか。弱々しく震える指先は、私の足を掴んで離さなかった。

 行かないで、とその指先が雄弁に語るのを感じて、私の喉にぐっと熱い思いが込み上げる。


「……パパ。帰ったら、私の誕生日ケーキを作りましょう」


 苺をたくさん乗せたやつ、と私は微笑んだ。

 パパは小さく咳き込んで私の言葉を聞いている。しゃがみ込んだ私は震えるその指先をさすってやりながら、いつもと変わらぬ調子の声音でパパに語り続けた。


「ケーキを囲んでバースデーソングを歌って、それから『魔法少女ピンクちゃん』も一緒に見ようね」

「…………」

「夜は川の字で寝るのよ」

「……ケホ」

「私とパパとママの三人で」


 ありす、と掠れた声でパパは私を見つめていた。私はその頬にキスをする。


「大好きよ、パパ」


 私は立ち上がって、そのまま一度も振り返らずに病院を出た。パパが最後に何かを言った気がするけれど、その言葉は、私には届かなかった。

 外に出る。吹き付ける冷たい風にしぱしぱ目を瞬かせていると、無言で横に立った千紗ちゃんが、私を見ずに言った。


「もういいのか」

「うん」


 そ、と彼女はか細い声で言った。

 唇の隙間からふぅと抜けていった吐息が、夜空に消えていった。



 深夜。相変わらず街は明るかった。

 ほとんどの建物の電気が付けっぱなしだ。建物の中に、外に、大勢の人がいて、街の現状に混乱している。

 青ざめた顔の人々は誰一人、道の中心を駆け抜けていく私達を見もしなかった。


 まずは北に向かいたい、と提言したのは黒沼さんだった。

 北側の一時避難場所になっている広場でパニックが起こっているらしい。人々を誘導する人手が足りていないというのだ。

 だから私達はまず、北の広場を目指しているのである。


「怪我は治してもらったの?」


 向かう途中澤田さんが私に尋ねた。

 コンビニの光に照らされる彼の高い鼻を見つめ、私はうんと頷いた。


「皆も手当てしてもらったわ。背中の傷も、もう平気」

「それはよかった。ついでに薬も抜いてもらった?」

「薬?」


 訝しげに澤田さんを見る。彼は、あまりにあっさりした声で言った。


「君の血液は薬物漬けになっているだろ」


 私は足を止めた。

 ぱちくりと瞬いて澤田さんを見上げるも、彼はいつも通りの優しい眼差しで私を見下ろしているだけだ。


「薬ってなんのことですか」


 尋ねたのは、同じく横で足を止めた湊先輩だ。

 言った通りさ、と澤田さんは微笑む。


「前にも同じことを聞こうとしてタイミングを逃していた。最後になるかもしれないから、聞いておきたくて。覚えてる? 俺が病院で、君の体について尋ねたときのことを」


 澤田さんと海辺の倉庫で戦ったときの話だと思い出す。

 あの後運び込まれた病院で、彼は私に「自分の病を知っているのか」とよく分からない質問を投げかけた。あのときの私は彼が何を言っているのか分からなかった。何も言わずにいれば、言いたくないなら言わなくていいよ、と彼は話を引っ込めたのだが。


「俺はあのとき君の検査結果を盗み見たんだ。怪物に変身する人間の体って、どうなってんだろうと思ってね。すると驚いた!」

「な、何に」

「君の血液中から高濃度の薬物反応が出たんだ。重度の薬物患者と同じレベルのものがね。……その様子じゃ、どうも知らなかったようだ」


 彼は汗をだらだら流す私を見て笑った。

 何の話かさっぱり分からなかった。重度の薬物反応? そんなの、身に覚えがない。


「俺は最初、君が変な子なのは、日頃から薬物を摂取しているせいだと思っていた。誤魔化しが下手な子だなと思っていたんだ。でも、今日聖母様の正体を知って、納得がいった。君はどうやら日常的に、無意識に、薬物を摂取していたらしい」

「無意識、って」

「ありすちゃん。君が最後に病院に行ったのはいつ?」

「え」

「小さい頃に予防接種を受けた記憶は? 風邪を引いたとき、病院に連れて行ってもらったことはある?」

「…………」


 私は黙り込んだ。幼い頃に酷い風邪を引いたとき、ベッドで眠る私にママが市販の風邪薬をくれたことを思い出していたのだ。あれは、病院のお薬じゃなかった。

 健康診断、予防接種。そういえばママはいつも適当に理由を付けて、一度でも私を連れて行ったことがあるだろうか。

 私は注射が嫌いだ。だって打ったことがないから。皆がいつも酷く痛がっているから、それを見ていて、怖かったのだ。


「そういう教育方針もあるさ。でもありすちゃんの場合は違うだろうね。君の母親は、あえて君を病院に連れて行かなかった。君に薬物を与えているのがバレるからだ」


 どうして、君達三人の中でさえ魔法少女の認識が違うんだ。ありすちゃんと千紗ちゃんの共通点は何だ?

 あ分かった。どっちも頭がラリってる。


 いつだろう。魔法少女の話をしていたとき、湊先輩と千紗ちゃんがそんなことを話していた気がする。まだ私と千紗ちゃんが自分を可愛い魔法少女だと思い込んでいたときの話だ。

 思い返せば同じ魔法少女三人の中でも、雫ちゃんだけが自分の姿を正しく認識していた。

 雫ちゃんだけが特別だったんじゃない。

 逆だ。

 私と千紗ちゃんだけが特別だったのだ。


「黎明の乙女の、灰色の粉……」


 千紗ちゃんは初めて変身する直前、彼氏さんからあの薬物を飲まされていた。黎明の乙女の灰色の粉。あれが私達の脳味噌に幻覚を見せていたのだ。

 千紗ちゃんが薬を飲んだのはあの一回だけ。だから彼女は早くに目が覚めて自分の正体に気が付いた。私は……私は多分、予定通りならば最後まで自分を魔法少女と思い込んだままのはずだった。

 私が途中で自分の正体に気が付けたのは、認識障害という副作用のせいだ。薬物で元々認識が壊れていた脳味噌に副作用が噛み合って、正気に戻ることができたのだ。

 それはつまり。つまり、私は、ずっと、知らない間に、薬物を飲み続けて、いたというわけで。


「ご飯のとき、君の皿だけ区別できるよう特別なトッピングがされていなかった? 味の濃い料理ばかり作ってもらわなかった? 例えば大麻のように香りが強い薬物は、臭いを誤魔化すため濃い料理によく混ぜられると言う。カレーとか」

「…………」


 ありす、おいしい?

 そう言ってママが笑うのが好きだった。ママの料理はとてもおいしくて大好きだった。いつも私は温かい料理をお腹いっぱい食べていた。

 私のカレーライスは甘口で、特別に生クリームがかかっていた。私のケーキにはいつも一番大きい苺が乗っていた。

 澤田さんは薄く笑っていた。私の肩に乗る彼の手が、やけに重く感じた。


「君のお母さんは、きっといつも君に薬物をあげていた」

「…………」

「君の人生は知らぬうちに大きく歪められていた」

「…………」

「君は、娘の人生を平気で踏みにじれる女と、戦える?」


 いつからだろう、と思う。

 いつから、私は今の私になったんだっけ、と。


 姫乃ありすは甘いものが大好きな明るい女の子だ。ピンク色が好きで、魔法少女を愛している、ちょっと不思議な女の子。

 『そう』なったのはいつからだ?

 幼稚園のとき……お外に行くよりいつも教室で絵本を読んだりお絵描きをしていなかったっけ? 白いクレヨンが一番最初になくなったんじゃなかったっけ? 私は白色が好きで、真っ白な紙にも白い色を塗っては、絵を見せた先生にちょっと困った顔をされていなかったっけ。

 ママはピンク色が好きだった。でも一緒にお絵描きをするとき、ママは何度もピンク色を塗り重ねるから、ほとんど赤色に見えていた。

 血の色みたいなママの色は、私の白色を飲み込んで、じわじわとピンク色に染めていった。


 姫乃ありすの人生はこれまでずっと、山田花子のものだった。


「――戦える」


 私は答えた。

 肩に置かれた澤田さんの手を、強い力で掴み返す。

 大きく息を吸って、飲み込む。澤田さんの話をきいて、心に浮かんだ嫌な思いごと。

 今はショックを受けている場合じゃない。


「やることは変わらないの。ママがどんな人であって、私に何をしてきたのかと知っても」

「お……」

「私は、魔法少女を倒す。それだけよ」


 澤田さんは私の顔を見て僅かに目を見開いた。

 そう、何も変わらない。私のこれまでの人生と、これから成すべきことは、何も関係がない。私の思いもママの思いも、何もかも。

 私はママを止めるためにここにいる。


「大人になったね」


 澤田さんが言った。

 私はその言葉に、静かに微笑んだ。


「今日でもう、十六歳になったもの」






 北側の広場には大勢の人が集まっていた。一時的な避難場所として、幼稚園くらいの子供から車椅子に乗ったおばあさんまで、たくさんの人がひしめき合っている。

 中央にはいくつか小さな焚火がパチパチと燃えていて、人々が集まって暖を取っていた。元々ここに住んでいたホームレスの人達が、避難者のためにと焚火を作ってくれたらしい。広場近くにある地下道にも幾人かの避難者が逃げ込み、冷たい風から身を守っていた。


「湊くん!」


 広場には祥子さんがいた。私達を見つけて駆け寄ってきた彼女は、邪魔な私を突き飛ばして湊先輩の胸に抱き着き、うっとりと頬を赤く染める。


「来てくれたのね……」

「祥子さん……」

「私が見えていないのか?」


 抱き合う二人は地べたで仰向けに倒れている私に見向きもしなかった。横から鷹さんがひょっこり顔を出して「背中汚れるよ」とフグのように膨れた私の両頬をぽひゅっとすぼませる。

 喫茶店で分かれたあと、鷹さんと祥子さんは北側に向かって市民達の非難活動を行っていたのだ。今はちょうど、この広場に来ていたらしい。

 夜空には静かに星が光っていた。上半身を起こして広場を見ると、そこには夜空の静寂と対称的な騒がしさが広がっていた。誘導係の警察官に、避難者が詰め寄って怒鳴っている。「ずっとここにいろって言うのか」「家に戻っちゃだめなの?」という大声に、まだ若いだろう警察官はもはや目に涙を滲ませていた。落ち着かせようとする声も喧騒に飲み込まれてしまっている。

 もうめちゃくちゃ、と祥子さんは溜息を吐いた。


「情報が錯綜してる。あっちの避難所に向かえ、いやあっちは火事に飲み込まれたから駄目だ、いやいや火はすぐに消し止められたって話だ、いやいやいや……。なんて。何が正しい情報か、警察でさえ分かってない」


 耳が痛いよ、と黒沼さんが肩を竦めた。彼の無線のノイズはまだザーザーとうるさかった。

 あちこちから情報が舞い込んでくる。どれが正しい情報なのか、警察も判断ができないのだ。下手に間違った指示を出して被害を拡大させるわけにはいかない。

 広場には幾人かマスコミらしき人の姿もあった。興奮した面持ちの彼らは、マイクを握りしめて広場の様子をカメラの向こうに伝えている。

 彼らも情報を発信している。しかしその『西側の病院ではおそろしい狼の怪物が……』『魔法少女と名乗る、不思議なヒーローが……』といった内容に私は思わず歯噛みをしたくなった。


『落ち着いてください!』


 突然の大声に、皆がハッと顔をあげた。

 どこからか拡声器越しの声が聞こえてきたのだ。ハリのある力強い声は、喧騒の中でもよく目立つ。私は周囲を見回して声の主を探した。

 広場の中央には噴水がある。その縁に立って、周囲より頭一つ分抜けた男性がいた。五十代ほどに見える男性は拡声器を握りしめ、力いっぱいに声を張り上げている。


『大丈夫です。必ず助けは来ます、落ち着いて』


 不思議と説得力のある声だった。大したことは言っていない。けれど、ずっしりとした重みのある声は、聞くだけで荒れていた心をなだめてくれるようだった。

 だが、私の横にいた祥子さんだけはポカンとした顔で男性を見つめていた。

 かと思うと、みるみるうちにその顔が歪み、彼女は戸惑った悲鳴をあげる。


「パパ!」

「パパ?」


 祥子さんの声には驚きが、私の声には疑問が含まれていた。キョトンとした顔をする私達に説明するように「祥子さんのお父さんだよ、政治家の」と湊先輩が呟いた。

 政治家か、と私は納得がいった。妙に迫力のある声は仕事で鍛えているからだろう。

 普通の声は通らずとも、彼の声は人々の耳に届いた。怒りに騒いでいた人々も無意識に拡声器の声に耳を傾け、静まっていく。若い警察官がようやく息ができたというようにほっと溜息を吐いた。

 だが、


『必ず、魔法少女が私たちを助けに来る!』

「な」


 続いた言葉に私達は目を見開いた。

 噴水上に立つ彼の目は熱狂的な光をおびていた。ギラギラとした必死な顔で、彼は拡声器を強く握る。


『彼女は空を飛んでいる。きっと人間ではないのでしょう。どこから来た何者なのかも分かりません。……けれど、彼女は怪物を倒してくれている。それだけは確かです。私達を傷付ける怪物を倒してくれる者は、どんな存在であろうと、味方なのではないでしょうか』

「ち、ちが」

『彼女はきっと私達を助けに来てくれる。彼女は味方だ。今は、彼女を信じましょう!』


 違う、と叫びたくなる。だが直後周囲からあがった歓声に、私は息を呑んだ。

 熱狂的な光は皆の目に浮かんでいた。焚火に照らされ赤く染まる肌の上に、興奮の汗が流れていく。広場中に響くのは魔法少女を讃える歓声だった。周囲の熱狂に、私達だけがついていけずに茫然と立ち尽くす。


 突然の大騒動に人々の恐怖は爆発寸前だった。そこに現れたのが、不思議な力を持つ魔法少女だ。次々と怪物を倒していく彼女の姿は彼らの目にどう映ったのか……この歓声を聞けば分かる。

 魔法少女は今、楽土町の皆にとって強い希望の光となっている。

 彼女は危険だとここで叫んだところで、きっとその声は届かない。


「南だ」


 それはどこから上がった声だったか。


「魔法少女は南にいる」

「ここより安全じゃない?」

「待ってられない、行こう」

「南に向かおう。大丈夫。魔法少女が助けてくれる」


 狭い広場から逃げたがっていた人を中心に、広場を出て南へ向かおうとする動きが生まれ始めていた。小さい子供やお年寄りまでもが、その流れに乗ってぞろぞろと広場を出ていこうとする。無闇に外を歩くのは危険だと、誰も忠告さえしない。

 黒沼さんの無線に連絡があったのはそのときだ。

 連絡を聞いた黒沼さんの顔がザッと青ざめた。どうした、と澤田さんが怪訝に問いかければ、黒沼さんは険しい表情で私達に告げる。


「南側から巨大な怪物が一体、こちらに向かっていると連絡があった。広場から誰も出すな。鉢合わせるぞ!」


 一瞬空気が凍り付いた。青い顔を見合わせた私達は直後、背中を叩かれたように駆け出し、広場から出ていこうとしていた人の前に立ちはだかる。


「待ってください、危険です!」

「え……誰?」

「ごめん、どいてくれる? 俺達早く南に行かないとだからさ」

「話を聞いてください。怪物が来るんだ、そっちの方向から……聞いてくださいってば!」


 私達の声は届かなかった。出ていく流れを必死に食い止めようとしても、素直に従ってくれる人などほとんどいない。中にはむしろ姫乃ありすの姿にギョッとした顔をして、全速力で逃げていく人もいるしまつだ。

 湊先輩や祥子さんの必死の説得も、千紗ちゃんの脅しのような言葉も、大人達の声も何も届かない。

 どうしよう、どうしよう。

 誰も私達の話を聞いてくれない。怪物が来るって言っても私の言葉を信用してくれない。このままじゃ出ていった人達皆怪物に殺されちゃう。

 どうしよう、どうすれば……。


『ただいま、北側の広場に巨大怪物が向かってくるとの情報がありました!』


 そのとき、マイク越しの大声が広場中に響き渡った。さっきの祥子さんの父親のものとはまた違う、鋭く力強い声に皆が足を止める。

 出ていこうとした人々が振り返る。私達も振り返り、声がした方向へ顔を向けた。

 マスコミがいた方からだ。とあるカメラの前に女性が一人立っていた。だが、さっきまで話していたアナウンサーではない。突然の第三者が、アナウンサーのマイクを奪って喋っているのだ。

 女性がカメラに齧りつくように怒鳴る。自社の名刺らしきものをカメラに叩きつけ、唾を飛ばして懸命に情報を発信している。


『怪物は南からやってくる。南側に逃げるのは危険です。皆さん、誤った情報に惑わされないで。正確な情報を捉えて!』

「な……やめてください。誰ですか、あなたっ」

『私はホークス編集プロダクションの鷹と申します!』


 マイクを奪って声を張り上げているのは鷹さんだった。

 彼女はカメラをがっちりと掴み、画面の向こうにいる人々に、そして広場にいる人々に向けて大声で語りかけている。


『「鷹の目のように鋭く情報を逃さない」ホークス編集プロダクション。この鋭い眼差しで、どこよりも速く、誰よりも正確な情報をお伝えします。今夜の騒動を我が社が、一番に、お伝えします!』


 マイクを通した鷹さんの声はどこまでも響いていく。ビリビリと振動する空気が、背中にぞわりとした鳥肌を立たせた。

 人々は茫然と鷹さんの言葉を聞いていた。彼女の言葉を信用したわけじゃないとしても。広場を出ていこうとしていた人々の足は、無意識に止まっていた。

 私はハッとした。

 これは、鷹さんなりの戦い方なのだ。


「ホークスプロダクションって、怪物写真が話題になったとこだっけ……」


 誰かが言った。

 それは、南へ向かおうとする動きが生まれたときとよく似ていた。


「怪物の写真撮るのが上手いんでしょ?」

「あそこの怪物特集、他のとこが知らない怪物情報も載ってるんだ。私、あの特集読んでから、毎月雑誌買っててさぁ」

「あれ鷹嬢じゃないか? ほら、この間広場近くの傷害事件の件で、知ってることはないかって広場に住んでる俺達に取材に来た……」

「あーあー、あのわざわざ手土産に酒持ってきてくれた子か」

「自分が一番飲んで酔っ払ってたっけな」

「ははは」


 人々の声があちこちから聞こえてくる。それは小さくも明らかな変化だった。

 ホークスプロダクションは小さな会社だ。だが、彼らが出す雑誌はこれまで何度も怪物の写真で話題になっていた。迫力のある怪物写真と、他が知りえなかった怪物情報が載っている雑誌はなかなかファンが多い。この場にも、彼らの雑誌を読んでいたファンがいるのだろう。

 ホークスプロダクションは怪物において強い信用がある。だからこそ今夜、ここにいるマスコミの中で、鷹さんの発言に一番信頼が寄せられているのだ。


「あの会社が言うってことは、マジで怪物が来てるってこと?」


 広場を出ていこうとする人数は随分減った。それでもまだ、懐疑的な目を鷹さんに向けている人は多い。

 あと一押しが必要だ。この場にいる大勢を説得できる、最後の一押しが。

 ふとそのとき、祥子さんが私達に背を向けて走り出した。彼女はまっすぐ人ごみを掻き分けて広場の中央に進むと、噴水の縁に立つ父親の元へと近付いた。


「パパ!」

「祥子っ? お前、どうしてここに」


 祥子さんの父親は突然の娘の登場に目を丸くしていた。何故ここにいるのかと問い詰めようとした父親を無視して、祥子さんは言う。


「あの人の言葉を皆に伝えて。パパの口から同じことを伝えれば、きっと全員信じてくれる」

「何を言ってるんだ……」

「本当に怪物が来るの。このままじゃ、たくさんの人が死んじゃうわ!」

「マスコミの言うことなど信用できたものじゃない」


 祥子さんのお父さんは苦々しく言った。

 政治家という職業柄、マスコミに辛酸をなめさせられた経験も多いのだろう。鷹さんを見る彼の目は厳しかった。私にも彼の気持ちはよく分かった。逃亡生活中のことを、ふと思い出す。

 祥子さんはそんな父親の腕を引っ張り、自分の元に引き寄せた。


「お願い!」


 娘の悲痛な声に父親は僅かに目を丸くした。

 祥子さんの顔は興奮で真っ赤に染まっていた。頬に流れる汗を拭うこともせず、彼女はぶるぶると肩を震わせて懸命に父親に訴える。


「信じてほしいの。パパが嫌いなマスコミにだって、信念をもって真実を伝えようとしている誠実な人も、たくさんいるはずだわ。少なくとも、あの人は信頼できる人なのよ」

「しかしな……」

「お願い。今だけでもいいから。私を信じて。パパ」

「祥子、お前」

「信じて」


 数秒の沈黙があった。私達は固唾を飲んで二人の様子を見守っていた。

 ふいに祥子さんのお父さんは静かにかぶりを振ると、噴水から降りた。駄目だったか……と思った矢先、拡声器を手にこちらにやってくる彼の姿が見えて、目を見開く。

 人ごみの中を抜けて出てきた彼は、出口付近で立ち尽くす私達をちらと一瞥した。鋭い視線に私と湊先輩がドキリと背筋を伸ばす。だが彼は私達に何も言わずに広場を出た。

 出て一歩、立ち止まる。くるりとその体が反転してスーツの上着がひるがえる。

 彼は広場を真正面に見据え、拡声器を持ち上げた。


『広場から出ないで!』


 クッキリとした輪郭をもった大声が響き渡った。

 周囲の視線を一身に浴びた彼は、そのままマスコミの中にいる鷹さんを指差す。全員の視線が鷹さんに注がれた。いまだマイクを握っていた鷹さんは、目を丸くして祥子さんの父親を見つめた。


『彼女の言うことは真実だ。南から、怪物がこちらに迫っている。広場から出てはいけない。落ち着いて、警察の指示に従って行動を!』


 力強い声は最後の一押しになる。

 鷹さんの言葉に半信半疑だった人々の意識が、カチリと切り替わった音がした。

 わっと悲鳴が膨れ上がる。広場を出ていこうとしていた人達が慌てて戻ってくる。一気に騒がしくなる広場の中を、警察が走り回っていた。


「地下道に避難させろ。急げ!」


 広場にいた部下達に黒沼さんが声を張り上げる。彼らの指示に従って、避難者は少しずつ地下道に移動をはじめていた。

 他の皆も避難者の誘導を手助けしていた。澤田さんや鷹さんが静かに声をかけている一方、祥子さんと祥子さんのお父さんは広場を出ていった人達を追いかけて声を張っている。湊先輩のお父さんや、千紗ちゃんのお母さんも……。

 ズシン、と大地が揺れたのはそのときだ。


「地震?」


 千紗ちゃんのお母さんが呟いた。グラグラと揺れる地面に、誰もが同じことを考えていた。

 しかし千紗ちゃんだけがハッとしたように顔を上げ、上空を指差した。


「地震じゃない!」


 彼女が指し示す方向には企業のビル群が並んでいる。何十階建てのガラス張りの建物がズラリと並ぶ様は圧巻だ。

 そのうち一つのビルが、突然崩れ落ちた。


「うわ!」


 崩壊するビルの向こう。バラバラと落ちていくガラスのきらめきの中から、巨大な怪物が姿を現した。

 息を呑む。それは、数十メートルはあろうかという巨大な怪物だった。全身がボウボウと分厚い毛におおわれたおぞましい怪物は、手足を振り回してまっすぐこちらに向かってくる。


「縺翫↑縺九′縺吶″縺セ縺励◆! 縺翫↑縺九′縺吶″縺セ縺励◆!」


 怪物の振り回した腕がビルを壊していく。おもちゃのように崩れていくビル。その大きな瓦礫を掴んだ怪物は、ひょいっと呆気なくそれを放り投げた。


「あ」


 車ほどの大きさの瓦礫は、広場の外で立ち尽くす祥子さんめがけて、落ちてきた。


「祥子!」


 祥子さんのお父さんが祥子さんを突き飛ばした。よろめく彼女の体を、全力で駆け出した湊先輩が抱き止める。だが湊先輩の距離からでも、祥子さんのお父さんを助けるのは間に合いそうになかった。


「パパ!」


 湊先輩の腕の中、真っ青な顔をした祥子さんが悲鳴をあげる。

 瓦礫は一直線に落ちてきた。祥子さんのお父さんはそれを見上げ、覚悟を決めたように目を瞑った。

 瞬間。ビルの陰から飛び出してきたタコの怪物が、落下する瓦礫を弾き飛ばした。


「へ?」


 祥子さんが涙に濡れた目を見開く。私達の頭上を、砕けたガラス片がキラキラと飛んでいった。

 突然現れたタコの怪物は続けて降ってくる瓦礫を触手で弾き飛ばしていった。瓦礫の雨が止み、茫然と立ち尽くす私達の前で、タコの怪物は巨大な怪物に威嚇するように体を揺らしていた。

 タコの怪物の背中に少女が乗っている。その子は自分より遥かに巨大な怪物を見上げながら、楽しそうに笑った。


「っしゃあ! いくぞ、お姉ちゃん!」

「蜉ゥ縺代↓譚・縺溘h縲√∩繧薙↑!」


 雫ちゃんと、晴ちゃんだ。

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