第84話 彼女はまさに、

 ねえ、ママ。全部嘘だったの?



「…………」


 教会は、恐ろしいほど静まり返っていた。

 シンとした冷たい空気の中。空気が喉を通る音さえも聞こえるほどの静寂の中。私達は茫然と頭上に浮かぶ少女を見つめていた。

 神々しい光の中に少女が浮いている。

 その子は、私にそっくりだった。


 柔らかなピンク色の長髪がきらめいている。

 繊細で可愛らしい魔法少女の衣装。その背に光る真っ白な羽は、まるで天使のようで。

 宝石が輝く魔法のステッキを握って、その子はただ、優しく満ち足りた顔で笑っている。


 魔法少女。

 彼女はまさに、『本物の魔法少女』だった。


「ママ」


 ほろりと頬を流れた涙は、悲しみだった。

 魔法少女を前にして、私の胸には憧れも感動も嫉妬もなかった。

 悲しみだけが心を荒らしていた。


 この前家族三人で、私が生まれたときのビデオを見たばかりだ。

 柔らかい日差しの中で、ママは私を抱きしめて微笑んでいたのに。

 私に出会えて幸せだって言っていたじゃない。

 私に出会うことが夢だったって、そう言っていたじゃない。

 ねえママ、全部嘘だったのね。

 ママは私を本当に愛してはいなかったのね。


『――愛しているわ。私の怪物ありす


 あなたは娘じゃなくて、怪物を愛していたのね。




「花子ちゃん……」

「いやだ、伊瀬くん。その名前で呼ばないでって言ったじゃない」


 ママは咲き誇る薔薇のような微笑みを浮かべていた。

 うっとりと夢見心地の目で、変身した自身の姿を見下ろしている。ピンク色のツヤツヤした長髪が揺れるたび、艶やかな香りが周囲に広がるようだった。

 魔法少女ピンク。

 彼女は私と年の変わらない少女にしか見えなかった。

 みずみずしい容姿は、まだ十代中頃の子供のようで。見知ったママの姿とはまるで違う。

 それでも私の心は、あの子が自分の母親なのだと強く感じていた。

 直感で分かってしまうのだ。

 どれだけその事実を受け止めたくなくても。


「私はもう花子ちゃんでも、ママでもないの」

「…………」

「私は魔法少女よ」


 カツンと教会に響くママの声。

 ママが微笑んだその瞬間、全身の毛が一気に逆立った。


「っ、う……!」


 ぶわっと嫌な汗が全身に滲む。恐怖が体中を駆け抜け、張りつめた空気に筋肉が凍り付いた。

 指が動かない。呼吸ができない。ママの笑顔に滲む、刺すような殺意が、私達全員の足をその場に縫い付けていた。

 ドクドクと脈動する心臓が、ただ熱かった。

 顔から大量の汗を流しながら、私達は誰もが無言でママを見つめていることしかできなかった。


 戦わずとも、見ただけで理解する。

 私達はこの魔法少女に勝てない。


「ありす」


 地面に降り立ったママが私に近付いてきた。可憐なヒールがコツコツと硬質に床を叩く。

 私はママを凝視したままパパを強く抱きしめた。びゅうびゅうと変な呼吸をしているパパは、もう目を開けていなかった。

 家族三人が揃っているのに。あの家で感じていたような温かい幸福は、どこにもない。


「やめろっ!」

「……あら」


 そのとき。私の前に飛び込んできたのは、湊先輩だった。

 彼は私を庇うように両手を広げていた。ギラギラと鋭い眼光で、目の前の魔法少女を睨む。


「ふふ、かっこい男の子」

「…………っ」

「でもそんなに震えちゃって」


 湊先輩の足は震えていた。青ざめた肌にジンと鳥肌を立て、歯の根をガチガチと鳴らしていた。

 怖いのだ。当たり前だ。私だって、さっきから体の震えが止まらない。

 それでも彼は私を守っていた。

 震える私は、彼の背に守られていた。


「私はあなたを気に入っているのよ、湊くん」


 ママは湊先輩に距離を詰めて、彼の頬をピンクの爪で引っ掻いた。汗ばんだ頬に赤い血の線が滲む。

 伊瀬くんの息子さんだもの、と甘ったるい声で笑う。


「あなたも写真を撮るのが上手なんでしょう? ちょうど、魔法少女の専属カメラマンが欲しかったの」

「…………」

「どうかしら。ありすの傍じゃなくて、私の方にこない?」

「ぼ、僕は」

「あなたも、偽物より本物を撮りたいでしょう」

「……っん!?」


 湊先輩の返事は聞こえなかった。ママが彼に口付けたから。

 突然だった。ピンク色の唇が噛み付くように湊先輩の唇をむさぼる。目を見開いて体を硬直させる湊先輩の頬を、ママの指が愛おしそうに撫でる。

 呆気に取られていた私はそれを見た。ママの唇がもごりと動き、僅かな隙間から赤い舌が覗くのを。ママの舌が、湊先輩の口に何かを放り込もうと蠢くのを――、


「!」


 けれどママは急に湊先輩を突き飛ばした。二人の唇の間に、生々しく唾液が糸を引く。

 それはママの舌先から流れる血で赤く染まっていた。

 湊先輩が噛んだのだ。

 湊先輩は激しく咳き込み口から光る小石を吐き出した。「あいにくだけど」と口端の血をぬぐい、無理矢理作った強気な顔で笑う。


「僕は魔法少女より怪物派でね」

「……そう」


 ママは静かに微笑んだ。

 途端、膨れ上がった殺意がぶわっと私と湊先輩に襲いかかる。

 ママのステッキの先端が私達に向けられた。その先に付いていた宝石が、ぼうっとピンク色に光り出す。

 魔法を撃つ前兆だ。


「湊!」


 湊先輩のお父さんが叫ぶ。その叫びに我に返った私は、咄嗟に湊先輩の腕を引っ張った。湊先輩とパパの体を背に隠す。

 ステッキに蓄積されていく眩い光が、私の眼球をチリチリと焼いた。強烈な光の向こうにママの笑顔が見える。冷たい笑顔だった。強烈な光の向こうにあるママの笑顔は冷たかった。

 ママは本気で私達を撃つ気だ。

 変身……いや、駄目だ、間に合わ、


 バチン! という弾けた音がしたのは、閃光がステッキから放たれる寸前だった。

 空気を裂いて飛んできた二発の弾丸がママの羽を貫いたのだ。


「ギャッ!」


 ママが鋭く絶叫する。純白の羽が数枚空中に散り、ステッキの光がふっと消えた。

 花子ちゃん、とチョコが叫ぶ。そんなチョコの頭をどこからか飛んできた三発目の弾丸が掠めた。

 ママが引きつった顔で振り返る。ピンク色の目で睨みつけた先。

 教会の入口に二つの人影が伸びていた。


「ははっ」


 誰かの笑い声。飛んできた一発の弾丸がまっすぐママの額を撃った。

 小さな頭がガクンと後ろに仰け反る。魔法少女の体は頑丈だ。額は薄く切れただけ。少量の血を飛ばしながら真正面に向き直ったママは、けれど飛んでくる二発目の弾丸に目を見開いた。


「――――ッ」


 二発目がママの頬をぶつ。間髪入れずに三発目が鼻を撃ち、四発目は不安定に揺れていた足に直撃する。

 同時に飛んできた五発目と六発目はママの羽を貫通した。

 飛び散る純白色だった羽は、ママの血で赤く汚れた。


「あああッ!」


 ブチリとママの血管が切れた音がする。怒りに燃えるママは、がむしゃらにステッキを振り回した。

 魔法の光がめちゃくちゃに教会を破壊する。天井付近のステンドグラスが割れ、カラフルなガラスが雨のように降り注いだ。

 床に散らばったガラスは虹色に輝いている。

 それを、二人の男がパキリと踏みつけた。


「あ」


 私と湊先輩は、呆けた声を上げて彼らを見つめた。

 教会の入口に立っていた二人の男。彼らが、埃立つ床をゆっくりと踏みつけて、こちらに向かってくる。

 それはまるで。映画のワンシーンみたいに、痺れる光景だった。


「やあ」


 青白い紫煙が彼らの周囲を冷たく泳いでいた。

 咥えていた煙草を放り投げ、彼らはコツコツと靴を鳴らし、大股に歩いてやってくる。スーツの黒いきらめきが、埃っぽい教会によく似合っていた。

 片方は深い夜のように暗い黒髪を、片方は朝の残滓のような柔らかな茶髪を風に揺らして、その手にそれぞれ銃を握って。

 冷たい煙をまとってやってきた彼らの姿は今夜の夢に見てしまいそうなほど、色っぽくてかっこよかった。


「助けに来たぜ」


 澤田さんと黒沼さんだ。

 彼らはたった一言、そう言った。

 それだけで。私は泣きたくなるほどの安心感に包まれたのだ。


「……どちら様かしら?」


 突如現れた二人にママは柔らかく問う。けれど言葉と裏腹に、ママの顔は今にもはち切れんほどの怒りで真っ赤に染まっていた。みすぼらしくなった羽が怒りにぶるぶると震えている。

 気持ちは分かる。数十年ずっと夢焦がれていた魔法少女。その夢を叶えた瞬間に邪魔が入ったのだ。今のママは気が狂いそうなほどの怒りに呑まれているはずだ。

 またママが攻撃してきたら……と私は背中に力を込めた。

 そうなれば今度こそ私が止めなくては。

 敵わなくても。この場で怪物に変身できるのは私だけなのだから……。


「駄目だよ花子ちゃん。こんな所で時間を食ってる場合じゃないでしょう」


 だが意外にも、ママを止めたのはチョコだった。

 彼女の足元でぽてぽてピンクの毛を揺らしていたチョコは、ママの怒りを宥めるように言う。


「こうしている間にも街では怪物達が大暴れしているんだ。早くしないと、観客・・が減っちゃう」

「……そうね。のんびりしてたら夜が明けちゃう」

「っ、ママ! 待って!」


 観客、というチョコの言葉が引っかかる。けれど意味を尋ねるより早く、ママはチョコを抱えて割れた窓へと一気に飛び上がった。

 澤田さんと黒沼さんが銃を構える横で、私も変身して彼女の後を追おうと体に力を込める。


「そんなに何度も変身したらいけないよ、ありすちゃん!」


 だけどチョコの言葉が今度は私を止めた。

 思わずビクッと体を強張らせた私に、チョコの声が降り注ぐ。


「副作用のことを忘れちゃいないかい。君の副作用は周囲へ認識障害を引き起こすこと。これまでの戦いで、君の認識障害はもう随分と進んでいる。隣にいる湊くんだって、本当は君のことを覚えているだけで精一杯のはずだ」


 私は思わず湊先輩を見た。彼もまた無言で私に横目を向けている。

 彼は何も言わない。けれどほんの少し悲しげに歪んだ眉が、チョコの言葉を肯定していた。

 湊先輩はまだ私のことを覚えている。だけどあと数回も変身すればきっと、彼は二度と私の存在を思い出すこともできなくなる。


「君に残された時間は少ない」


 チョコは言った。


「あと数回も変身すれば……もしくは、魔力をこめたあのビームを一発でも放てば、その瞬間に君の副作用は完全なものとなってしまうだろう」

「…………」

「あと一度。あの必殺技を撃ってご覧。世界から、そして君自身の中からも、姫乃ありすという存在は消える」


 変身のために溜めていた力が指先でパチパチと音を立てている。あとは変身の言葉を叫ぶだけでいい。それだけで私は怪物になってママ達を追える。

 だけど「変身」というたった一言が、今の私の唇には重かった。


「今はあなた達と戦うときじゃないの。その前に、やらなきゃいけないことがあるのよ」

「ママ……」

「ありす。あなたの出番はもう少し先」

「待ってよ……」

「街の皆に魔法少女の活躍を見せにいかなくちゃ」

「ママッ!」


 ママは窓から飛び出した。寸前に澤田さんと黒沼さんが撃った銃弾は、ステッキから放たれた光に落とされる。

 夜空の向こうにママが飛んでいく。ボロボロの羽は飛びにくそうで、けれどどんどん高く飛んでいくその背中を、もう誰も追いかけることなどできなかった。

 舞い落ちる純白の羽が、私の体に降り注ぐ。

 このとき胸に浮かんでいた感情が怒りなのか悲しみなのか、結局最後まで、分からなかった。


「う……」


 パパの呻き声を聞いて我に返る。私は慌てて倒れるパパに駆け寄った。

 撃ち抜かれた肩はどす黒い赤色に染まっていた。出血がひどい。泣きながら何度もパパに呼びかけるも、返事は返ってこなかった。


「早く病院に。救急車を……」

「駄目だ。この付近の道路は渋滞していて、車じゃ動けそうにない」

「じゃあどうすればいいのっ?」


 気が動転して指先が震えた。

 背負って運ぶ。自転車を使う。台車を借りる……。けれどどれも現実的解決には思えない。運んでいる最中に冷たくなってしまうパパの姿を想像して、涙が一つ目から落ちた。


「大丈夫」

「……澤田さん?」


 青ざめた私の肩をポンと叩いたのは澤田さんだった。

 顔が近付いて、彼から夜の香りがすることに気が付いた。冷たい夜の香りは、大人っぽくて、動揺していた私の心をやんわりと宥めてくれるようだった。

 私の頬に流れる涙をぬぐって、彼は煙っぽく笑う。


「いいタクシーを知ってるんだ」


 言って、彼は携帯を取り出した。




「へいタクシー。病院まで」

「ぶち殺すぞ」


 澤田さんに呼び出された千紗ちゃんは「怪物をタクシー代わりにするな」と呆れた顔で肩を竦めた。

 楽土町内の大きな病院は西側にある。ちょうど、千紗ちゃんが警護をしていた方面だ。

 澤田さんの胸ポケットから千紗ちゃんは無言で煙草を拝借する。報酬代わりのようだった。煙草を取られてちょっとしょんもりした顔をする澤田さんの肩に寄りかかって、千紗ちゃんは床に横たわるパパを見下ろす。


「安心しな、その程度なら死なねえよ。大丈夫だ」

「ん……」

「病院に着いたら、お前もついでに怪我治してもらえよ」


 千紗ちゃんはスンと鼻を啜った。私の傷が香ったのだろう。ママにハサミで刺された、背中の傷。

 彼女は奪った煙草を一本咥えると、ジリジリと先端を焦がすように吸う。しかめっ面で辛い煙を吐き出すと、直後、ゴキリと音がして彼女の唇から犬歯が伸びてきた。金色の髪がザワリと震え、長く伸びて獣の体毛に変わっていく。

 彼女は瞬く間に怪物へ変身した。分厚い毛を風になびかせる彼女に、湊先輩のお父さんは多少気圧されたようにのけぞる。その横で、息子の湊先輩はせっせとパパを千紗ちゃんの背に乗せていた。

 パパを抱きしめるように私も彼女の背に乗った。私の後ろには湊先輩が座る。後からすぐに追いかけるという皆を残し、千紗ちゃんはぐっと顎をもたげて夜空に吠えた。


「ウォン」


 地面を蹴って彼女は夜の街に飛び出す。

 ジェットコースターに乗っているような気分だった。いや、それよりももっとずっと速かった。私達はゴワゴワする獣の毛をがっしりと掴んで、弾丸よりも速く駆け抜ける彼女から振り落とされないように必死だった。

 渋滞している道路も彼女の背に乗っていれば一瞬だった。獣の四肢は器用に車と車の間を蹴り、大きくジャンプをして何台もの車の上を飛んでいく。車では数十分かかっただろう道路も、彼女にかかれば五分足らずだ。

 街を駆ける怪物の姿を人々が見つめる。けれど、いつもほど目立ってはいなかった。

 街のあちこちから悲鳴が聞こえている。怪物の暴れている音が聞こえている。

 今宵の楽土町は騒がしい。猛スピードで夜を駆ける魔法少女イエローの姿を、気に留めるほどの余裕が皆にはなかった。


 あっという間に病院に辿り着く。建物の陰で千紗ちゃんは変身を解いた。

 パパを抱えて病院に飛び込んだ私達は、けれど待合室の光景を見た瞬間、揃って足を止めてしまった。


「まるで戦場じゃないか……」


 湊先輩が思わず呟いた。

 待合室は怪我人だらけだった。たくさんのソファーを埋め尽くすほどの患者が、ぐったりと座っている。スタッフが怒号をあげて走り回っている。隅に並べられた簡易式マットの上で、現在進行形で治療が行われている。

 誰もこちらに見向きもしない。慌ただしい病院の中、私は駆け回る看護師さんを必死に呼び止めた。


「あのっ、すみません!」

「は、はいっ」

「パパを助けてください! 肩を怪我してるんです。出血がひどくて……!」


 汗だくで振り返った彼女は、こちらを見た瞬間ギョッと目を見開く。

 それは、パパの酷い怪我を見たせいじゃない。


「姫乃ありす?」


 待合室が静まり返った。

 一瞬の静寂だ。だが、呻く患者も、走り回るスタッフも、誰もが一瞬息を呑んで私を見つめた。


「あ」


 怯えた眼差しが突き刺さるのを肌にひしひしと感じた。私の存在を忘れていた人も、周囲の反応を見るうちに思い出したらしく、驚愕に目を丸くしていく。

 ここにいる人達は皆怪物の被害者だ。痛々しい傷を作ったのは、外で暴れるおぞましい生き物達。黎明の乙女の信者が変身した怪物と、私が変身した怪物の姿は、よく似ている。

 軽率だった。

 パパを救うことに必死になっていたあまり、今の自分の立場を忘れていた。


「……お願いします!」


 私はぐっと喉を引き締め看護師さんの手を握った。

 頬を引きつらせる彼女を真正面に見つめ、勢いよく頭を下げる。


「お仕事の邪魔をしてごめんなさい。驚かせて、すみません。すぐ出ていきます」

「…………」

「でもお願いします。この人だけでも助けて。私の家族なの……」

「あ…………」

「私のパパなの……」


 握りしめた手がドクドクと脈打つように熱かった。

 私の鼓動か、看護師さんの鼓動か、それは知らない。

 看護師さんの手は恐怖に震えていた。

 

「僕からもお願いします」

「包帯だけでもくんねえか。血を止めてやらなきゃ」


 湊先輩と千紗ちゃんも私の横に立って言った。周囲の視線は、彼らにも突き刺さる。

 看護師さんはしばし無言で私達を見つめていた。だらりとした汗を頬に垂らしながら、横たわるパパに視線を向ける。

 彼女は短く息を吸った。


「……誰か! 手の空いてる人。サポートして!」


 看護師さんが鋭い声を上げる。周囲を慌ただしく駆けていた他の看護師や医師が、その声に足を止めた。

 パパの周りに人が集まってきた。最初の看護師さんを筆頭に、手が空いている人がパパの治療を手伝っていく。何人かのスタッフは私に気が付いてあっと青い顔をした。

 それでもパパの治療を止めて逃げる人は一人もいなかった。


「大丈夫」

「っ」

「安心してください。怪我人がいれば助けるのが、私達です。あなたが誰であろうと」


 看護師さんはまっすぐ私の目を見つめた。

 怪物に向ける目じゃなかった。それはただ怪我人を労わる、看護師の目だった。


「必ず助けます」

「……お、お願いします」


 私は鼻を啜ってもう一度頭を下げた。看護師さんは頷き、それきりパパに集中してもう私のことは気にしなかった。

 緊張に震えていた体から力が抜ける。ドッと込み上げた熱に汗を浮かべながら、私はずるずると湊先輩の肩に寄りかかった。彼もまた安堵の溜息を吐いて、私の背中を擦ってくれた。


「よかった……」


 声は熱く震えていた。冷たかった指先が、ようやく人心地ついたように温かくなっていた。

 けれど本当に安堵するには、まだ早かった。


「きゃあ!」


 誰かの悲鳴にガバッと顔を上げた。私は弾かれたように、悲鳴の方向へと視線を向ける。

 病院の入口がにわかに騒がしい。分厚いガラス窓に寄りかかっていた患者達が、外を見て大声で騒いでいる。


「!」


 外の駐車場にいたのは何体もの怪物だった。

 真っ黒な奇形の怪物達が、甲高い鳴き声をあげて暴れているのだ。


「あっ」


 一体の怪物が車を持ち上げる。おもちゃみたいに簡単に持ち上げられた車は、そのまま投げられ、窓ガラスにぶつかった。あっけなく割れたガラスがバリバリと病院の中に撒き散らされる。

 吹き付ける風に乗って怪物の笑い声が聞こえた。怪物は、まっすぐ病院に向かって走ってきた。

 患者達は悲鳴をあげて病院の奥へ逃げようとするも、怪我のせいで、ろくに走ることもできていなかった。

 まずい。

 私は湊先輩の制止を振り切って駆けだした。変身してあの怪物達を倒そうとしたのだ。

 私は割れた窓に手をかけ、そのまま飛び出そうとして、


 そんなに何度も変身したらいけないよ、ありすちゃん!


「…………」


 思い出したのはチョコの言葉だ。

 私はキツク眉間にしわを寄せ、だらりと粘ついた汗を垂らす。


 怪物に変身する副作用。認識障害。

 皆に忘れられる覚悟は決めている。問題は、このまま変身を繰り返せば私自身が私のことを忘れてしまうということだ。

 魔法少女を、怪物を、忘れてしまうかもしれない。今下手に変身して、ママの前に行ったときに変身できなかったら。それが一番最悪だ。

 ……でも。だからって今この状況を放っておくことはできない。病院にはたくさんの怪我人がいる。動けない彼らを置いて逃げることはできない。でも人間のままあの怪物達を倒すことは難しい。

 私以外、あの怪物達に立ち向かえる人は…………。


「おうおう、大量じゃねえか」

「お?」

「噛みつきがいがありそうだ」

「おお?」


 背後から腕を引っ張られた。私はころんころんと床に転がった。

 湊先輩に抱き起されながら見上げた先には、割れた窓に足を引っかけて笑う千紗ちゃんの姿があった。


「何を躊躇してんだか知らねえが、魔法少女はお前だけじゃねえだろ」


 静かな声だった。それでいて獰猛な声だった。

 笑んだ千紗ちゃんの目にチリチリと散る火花を見て、私は彼女の意図を察する。

 彼女は魔法少女イエローに変身してあの怪物達を倒そうというのだ。


「駄目よ千紗ちゃん!」

「あ?」

「ここで変身したら、あなたまで正体がバレる!」

「ふ、今更」


 千紗ちゃんは煙たく笑った。私の制止を振り払って、ひらりと病院の外に降り立つ。

 金色の髪がキラキラと風になびいていた。怪物達を睨む鋭い眼差しは、透き通った氷のような美しさがあった。


「よぉく見とけよお前ら」


 千紗ちゃんはがなる。病院内にいた人達が、ハッとしたように彼女を見つめた。

 彼女はちっとも変身を隠そうとせず。むしろ自分から堂々と視線を集めにいっていた。

 そしてそのまま、勇ましい宣言を皆に響かせる。


「あたし達を『怪物』とひとくくりにして思考を放棄するな。見た目だけで判断してちゃ、騙されるぜ。そいつの中身を、行動を、しっかり見て考えろ」


 ハスキーな声はよく通った。涎を垂らして駆け寄ってくる怪物に彼女は物怖じ一つせず、むしろ高揚に近い声でゴウゴウと叫ぶ。

 よく見ておけよ、と千紗ちゃんはもう一度言って顔を上げた。

 飛びかかってくる怪物に、鋭い犬歯を剥いて笑う。


「――――変身」


 狼の遠吠えが響く。

 千紗ちゃんは魔法少女イエローに変身した。


 黄色いドレスも可愛いヒールもない。あるのはただギラギラと光る獰猛な眼差しと鋭い牙。恐ろしい獣の姿で戦う少女を、皆は茫然と見つめていた。

 張りつめた緊張が皆の呼吸を止めていた。小さな子供までもが固唾を飲んで千紗ちゃんの戦いを見つめている。動いているのはスタッフだけだった。彼らもまた千紗ちゃんの戦いにびっしょり汗をかきながら、患者達の治療を行っていた。


「縺九°縺」縺ヲ縺薙>!」


 千紗ちゃんの戦いは獰猛であった。けれど正確に怪物を倒していた。

 隙をついて病院に飛び込んでこようとした怪物は何体もいた。だが千紗ちゃんの前足は容赦なくそんな怪物を踏みつけた。

 彼女が戦っている間。病院の中には怪物一匹入ってくることはなかった。


 戦いは十分もかからなかった。

 倒れた怪物の山ができている。それは時間がたつにつれドロリととろけ、気絶した信者達の姿へと戻っていった。

 山を背に千紗ちゃんは病院内に戻ってくる。顔を返り血でベタベタにした千紗ちゃんを周囲は無言で出迎えた。

 彼女は床にドカリと座り込むと、流れるように煙草を取り出して咥え、「院内禁煙です」と看護師の一人に注意され「…………」と無言でポケットにしまう。


「……あなたがいたから、患者さん達の治療に専念できたよ」

「そうかい」


 その看護師さんの声は震えていた。彼もまた、目の前にいる少女がさきほどまで怪物に変身していたことに、恐怖を抱いているのだ。

 だけど彼はじっとりと汗ばんだ顔で、彼女に力強く頷いた。


「ありがとう」


 看護師さんはそっと微笑んで千紗ちゃんに清潔なタオルを渡した。

 千紗ちゃんは照れくさそうに眉をしかめ、返り血を乱暴にぬぐった。

 そのやりとりを病院の皆が見ていた。彼らの胸に浮かんでいたのはきっと、千紗ちゃんの言葉だったのだろう。彼女が変身前に叫んだ言葉を何度も思い出していたのだろう。

 現に彼らは誰一人、私達を追い出そうとはしなかった。


「お」


 と、千紗ちゃんは不意に顔を上げた。

 廊下の先。壁に隠れていた女性が一人、ビクッと肩を震わせる。

 病衣を着た入院患者のようだった。彼女はペタペタとスリッパを鳴らし、怯えた顔で私達の元に歩み寄ってくる。

 久しぶりだな、と思った。


「何が起こっているんですか……?」


 千紗ちゃんのお母さんは震える声で言った。

 彼女はずっとここに入院していた。星尾村の地下室から助け出された後、精神を病んでしまっていたからだ。ろくに話ができない状態だと千紗ちゃんは言っていたが、騒動の音に、部屋から出てきたのだろう。

 お母さんは娘を見て唇をわななかせていた。娘の変身を目撃したのだ。

 千紗ちゃんは母親の視線から逃げるように顔を反らし、何と言ったものかと迷うようにぽりぽり頬をかく。


「あー……。まあ、色々あったんだよ」

「色々……」

「あんたの崇拝してた聖母様の話とか、あたしが怪物に変身してたこととか、まあ、ほんと、色々だよ。……まあでもとりあえず、一言だけ言っておきたいんだけど」

「…………」

「あたし、これまであんたに散々迷惑かけられてきたよな」


 千紗ちゃんも母親に言いたいことは山ほどあるはずだった。

 幼少期から強制されていた黎明の乙女への信仰、聖母様への貢ぎ物、消費されてきた時間や愛情。

 けれど長い話をする時間は、今はない。


「だから」


 言いたいことを全て飲み込んで千紗ちゃんは笑った。

 苦さの残った微笑みは、妙に大人っぽく見えた。


「今は何も言わないで。娘を助けてくれないか。なあ、お母さん」


 千紗ちゃんのお母さんはしばし無言だった。病衣の裾を握る手は真っ白に震えていた。

 私と湊先輩は一歩下がって二人の様子を見守っていた。


 そのときだ。頭上から、その言葉が聞こえたのは。


『――――まさに、ヒーローです』


 パッと私と湊先輩は弾かれたように上を見た。待合室の付けっぱなしのテレビの中で、アナウンサーが話していた。

 ニュースを読む声は淡々としている。けれど真っ赤に染まったその顔が、目尻にたまったその涙が、はちきれんばかりの彼の興奮を示していた。


「これって……」


 流れているのは楽土町の大通りの映像だ。たくさんの怪物が暴れ、大量の血が道路を流れている。リアルタイムの映像だ。

 荒々しいカメラの映像。ブレた視界の中に、それが映る。

 逃げ惑う人々の中。埃立つ瓦礫の山の中で。たった一人、怪物を正面に立つ者の姿があった。

 それはピンク色の少女だった。


『もう大丈夫よ』


 彼女が構えたピンク色のステッキが輝いている。

 自身の何倍もの大きさの怪物に、彼女は不敵な笑みを浮かべてステッキを振った。

 放たれた光が怪物を貫く。

 眩い光がキラキラと星屑のように降り注ぐ中。少女はまっすぐに笑っていた。


『……これは作られた映像ではありません。まさに今この瞬間、現実に起こっている出来事です。楽土町を脅かすおぞましい怪物を今、一人の少女が打ち倒さんとしているのです』


 少女は羽を広げて空を飛ぶ。街で暴れる怪物を次々と魔法の光で撃ち殺していく。

 ピンク色のドレスは可憐だった。長く艶やかな髪は夢のように美しかった。白い肌の中、不思議なピンク色の目がキラキラと眩しかった。

 肩に乗せたピンク色のぬいぐるみが、まるで生き物のように動いて、カメラに可愛くポーズを取っていた。


『あの少女は何者なのか、人間なのか。何も分かりません。しかし一つだけ確かに言えるのは、あの少女が私達の味方だということです』


 いつの間にか待合室中の視線がテレビに注がれていた。

 この映像が流れているのはテレビだけじゃないだろう。きっと街中の人が、もしかするともっとたくさんの人が、同じ映像を見ているはずだ。

 空気がピンと張りつめていた。緊張でも恐怖でもない。さっきまでとはまるで違う空気がこの場に満ちているのが分かった。音もなく膨れ上がっていくのは高揚だった。皆のキラキラとした視線がまっすぐ少女に向けられていた。

 警察も自衛隊も苦戦する怪物という恐ろしい存在を、たった一人の少女が倒したのだ。

 ピンクの服、魔法のステッキ、可愛いマスコット。

 あの少女を見て、きっと誰もが同じことを考えている。


『私は魔法の女の子』


 少女はステッキを構えて叫ぶ。

 魔法の光を放ちながら。可憐な声を、世界中に響かせる。

 その姿はまさに、

 彼女はまさに、


『魔法少女ピンクちゃん!』 


 ドッと湧いた歓声が空気を震わせた。待合室中の人達が魔法少女ピンクを見て感情を爆発させたのだ。

 同じような歓声がテレビの向こうからも、外からも聞こえてくる気がした。

 テレビの向こうで少女が笑っている。恐ろしい怪物を倒す可憐な少女。絶望の中に現れた救世主。

 彼女は誰がどう見ても、本物の魔法少女だった。


「…………これが目的だったのね」


 私がぽつりと吐いた言葉は轟音のような声に掻き消された。

 見た目は大事だ。誰だって、恐ろしい怪物より、可愛い見た目の魔法少女の方を味方だと考える。

 その魔法少女こそがこの惨事を引き起こしたのだとは、誰も思わない。

 嬉しそうに魔法で怪物を撃つママの姿が頭の中でリピートされる。殺された怪物の正体が自分の信者達であると、ママは知っているはずなのに。


「そっか」


 ママは魔法少女になりたかった。

 でも人を助けたかったわけじゃない。皆に、魔法少女として讃えられたかったのだ。

 チョコに変身薬を作ってもらった。でも多分それだけじゃ足りなかった。ママは魔法少女が倒すための敵すらも、自分で作りだしたのだ。

 黎明の乙女の信者達を怪物化させたのは、彼らに力を与えるためじゃない。敵になってもらいたかったんだ。『楽土町で暴れる怪物』というポーズを取ってもらいたかったんだ。

 そうして怪物だらけになった楽土町に、ママが魔法少女として登場することで、人々は一気に魔法少女を救世主だと褒め称える。


 私はきっとママの物語においてのラスボスだ。

 一番強くて、倒しにくくて、物語を盛り上げて、けれど最後には殺される怪物だ。

 私はずっと『ママのラスボス』になるために育てられてきたのだ。


 分かるわよママ。

 だって私は。あなたから魔法少女を教わって、好きになったんだから。


「何が魔法少女だよ」


 吐き捨てるような声に私はハッと振り返る。

 乱暴な声で言ったのは、湊先輩だった。

 なおも続く大歓声の中。彼は強い眼差しでテレビを睨みつけ、私に言う。


「あんなの魔法少女じゃない」


 彼は私と同じことを思っていた。

 あんなのは魔法少女じゃない。

 人に称賛されるために、他の人を傷つけるなんて。そんなの私達が憧れたヒーローの姿じゃない。


「見た目なんか関係ない。あの人がどれだけ可愛い姿に変身したとしても、それは魔法少女でもヒーローでも何でもないんだ」

「…………っ」

「僕には分かるさ。……だって、僕はずっと、君達の戦う姿を見てきたんだから」


 湊先輩はすっと深く息を吸う。

 熱い思いを滾らせるその両目が、まっすぐに私を見つめた。


「本物の魔法少女は君だ」


 ドンと力強く湊先輩は私の背を叩く。彼にしては珍しい、遠慮のない力強さだった。

 私は震える唇を嚙み締めて頷いた。彼の言葉が、私の心臓を熱く燃やしてくれた。

 そうだ。

 本物の魔法少女は、私だ。


 作戦があるんだ、と不意に湊先輩が言った。

 私は涙に濡れた目を擦って彼の顔を見上げる。作戦って……と尋ねれば、彼は固い声で答える。


「君のママを、魔法少女から引きずり下ろす」

「!」


 パチッと私は目を丸くした。

 あの魔法少女の力は圧倒的だ。私では勝てるかどうか分からない。

 だけど湊先輩は、倒すとは言わなかった。引きずり下ろすと言ったのだ。

 何をする気なのか。怪訝に彼の顔を凝視すれば、湊先輩は「ちゃんと説明するよ」と言って優しく笑った。


「……湊先輩」

「うん」

「私、湊先輩の笑った顔、好きよ」

「えっ? ……あ、ああ、うん。ありがとう?」


 湊先輩はきょとんと目を丸くしてから、照れたようにはにかんだ。だしぬけな言葉だと私も笑った。

 私は湊先輩の優しい笑顔が好きだった。

 なんとなく。今ちゃんと伝えておいたほうがいいなと思ったのだ。


「……あなた達は何をするつもりですか」


 と、横に立っていた千紗ちゃんのお母さんが呟いた。

 彼女の顔は病院の外に向けられている。視線の先には、信者の姿に戻っていく怪物の山があった。

 千紗ちゃんのお母さんは黎明の乙女の信者だった。誰よりも聖母様の傍で、彼女を支えてきた人だった。

 だけど彼女は聖母様に裏切られて殺されかけた。

 街で暴れている怪物達もまた、聖母様に裏切られた人達だった。 


「聖母様を倒します」


 湊先輩はハッキリとテレビを指して言った。笑顔でカメラに手を振る魔法少女ピンクを、その指がまっすぐに捉えていた。

 千紗ちゃんのお母さんは一度大きく息を吸って。そして、ぼんやりとしていた目を鋭く引き締めた。


「私に、手伝えることは?」


 彼女の言葉に千紗ちゃんが笑った。母親の心境を、仄かに理解できたのかもしれない。

 千紗ちゃんはくっと眉を吊り上げるように母親を見た。お母さんはそんな娘の笑みに、不器用な苦笑を返した。


 テレビでは魔法少女の活躍が続いている。歓声は鳴りやまない。誰もがテレビの魔法少女に向かって、キラキラと眩しい視線を送っている。

 私達の決意は誰にも気付かれない。


「ママ」


 私はテレビに映るママに思う。

 ママが教えてくれたから、私は魔法少女を好きになった。あなたがどんな思いで私を産んだのだとしても。その思い出だけは確かだ。

 私達は二人共魔法少女が大好きだった。

 ずっとずっと、子供のころから、一緒に魔法少女を応援してきた。

 でもね。ママが今なろうとしている存在は、きっと私達が憧れた魔法少女じゃないの。


 待っていてね。

 今度は私が、あなたに魔法少女を教える番だ。

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