第48話 ヒーロー

 ふと気が付けば僕は自分の家にいた。

 顔を上げれば何故かそこには従兄弟のお兄ちゃんがいる。

 記憶よりもずっと若いその顔を見たとき、ああこれは夢だな、とすぐに分かった。 


「おにいちゃん。おにいちゃ」

「ん? どうしたの、湊」


 今はとっくに大人のはずのお兄ちゃんは、夢の中では高校時代の制服を着ていた。

 部屋の隅にかかった姿見に、彼の膝によじ登る四歳くらいの僕の姿が映っている。僕は手にしていた一枚の写真でお兄ちゃんの頬をぺちぺちと叩いていた。

 おとうさんがとったの、と差し出した写真には赤いマントを着て椅子からジャンプしている僕が映っていた。当時朝に放送されていた戦隊ヒーローアニメの真似だ。


「かっこよくなぁい?」

「かっこいいよ湊。ヒーローみたい」

「とうぜんですよ……ふふん……。ヒーローとかよゆうでなれますから……」


 傍では母さんと、その弟であるおじさんがお喋りに花を咲かせていた。といってもその内容はおじさんが住んでる街で最近話題になっている連続殺人事件や放火事件など、華やかなものではなかったけれど。

 従兄弟一家が住んでいる地域はあまり治安がよろしくない。だから従兄弟が遊びに来たときは大抵、そういう話題を耳にすることが多かった。


「ぼくおとなになったらヒーローなってあげる。おにいちゃんのまちのわるものも、ぼくのまちのわるものも、みんなやっつける」

「わあ頼もしい。でも大丈夫だよ、楽土町は平和な街だから」

「へいわなの!」

「凄く住みやすくて、安心して暮らせる所だよ」

「なんで!」


 やだーっ、と体を仰け反らせて悲しむ僕を、お兄ちゃんが笑った。

 実際僕が住む楽土町は平和な街だった。笑顔の多い街としてテレビで挙げられるほど笑顔が溢れていて、他県からの移住者も多い。

 平和が一番だよ、とお兄ちゃんはしみじみ呟いた。それでも不満に頬を膨らませる僕に彼は言った。


「しょうらいはどうなるか分からないよ。この街にも凄く強い悪者が現れるかも。そのときは湊が皆を守るヒーローになるんだ」

「それっていつ? 明日?」

「うーん…………湊が大人になったらかな」

「明後日くらいかな……?」


 真剣な顔で悩む僕の頭を、お兄ちゃんは優しく撫でてくれた。

 そのときの手の温かさを、不思議といまだに思い出せる。


「誰かがピンチのとき、君が守ってあげるんだよ。ヒーロー」





「――――あ、起きた?」

「ん…………」


 何故そんな夢を今見たのだろう。

 目覚めて最初に視界に映ったのは、澤田さんの顔だった。

 しゃがみ込んで僕の顔を確認していた澤田さんは「よかったぁ」と胸を撫でおろした。


「威力高すぎたかなって心配してたんだ。目覚めなかったら話が聞けないから、どうしようかと」

「えっと……」

「眩暈や痺れは大丈夫? ちゃんと話せそう?」

「あ、はい。……あれっ?」


 言われるままに体を確認しようとしたが、手足が動かない。慌てて見てみれば手足はガムテープでキツク縛られていた。

 困惑しながら頭を振る。と、僕のすぐ隣に雫ちゃんが倒れていることに気が付く。その手足もまたガムテープで拘束されていた。

 名前を呼べば雫ちゃんはすぐ目を覚ました。僕と同じように手足の拘束に気が付き、困惑した目で辺りを見回している。


 青白い照明に照らされているのは、体育館をもう少し広げたほどの空間だった。パイプが網目状に張り巡らされた天井や打ちっぱなしのコンクリートの床が、元はここが工場か何かだったことを教えてくれている。赤錆だらけで放置された機械を見る限り、今も稼働中だとは思えないけれど。

 そこにいるのは僕達と澤田さんだけではなかった。十数人もの男が僕達を囲むように立っている。僕達が目覚めたことに気が付いた彼らは、一様に鋭い視線をこちらに向けてきた。


「どういうことですか。澤田さん……」


 次第に、僕達に起こった出来事を思い出していく。忘れていたはずのスタンガンの痛みがじわりと首の後ろに滲んでくる。


「分からない? 誘拐したと言えばいいかな?」

「な、なんで?」

「さっき自分で言ってたじゃないか。その子、魔法少女なんだろ?」


 雫ちゃんの肩が跳ねた。僕は必死に身を乗り出して、彼女と澤田さんの間に壁を作る。

 澤田さんが僕達を誘拐したことは、夢でも冗談でもないみたいだ。

 緊張に鼻を啜れば少し辛い潮の香りがした。海が近いのかもしれない。耳を澄ますと、どこか遠くから波の音が聞こえてくるような気がした。獣の鳴き声のようなものも聞こえてくる。それはなんだか、豚の声に似ていた……。

 ここは一体どこなんだ。


「そんなに緊張しないで。俺はただ、力を貸してほしいだけなんだよ」


 彼女を魔法少女だと分かったうえで誘拐して、力を貸してほしいだって? どんな馬鹿でもそれがろくでもない誘いであることは分かる。


「彼女を利用する気ですか。警察のくせに!」


 警察がこんなに手荒なまねをしていいと思っているのか。そう吠えた僕の言葉は、しかし澤田さんの顔を苦笑に歪めただけだった。

 僕の近くにいた男の人がくっと小さな笑い声を零して、肩を揺らす。その笑いは伝染して、そのうちこの場にいる全員が可笑しそうに目を糸にして口元にしわを刻むのだ。

 訳が分からなかった。困惑して雫ちゃんと顔を見合わせる。彼らがどうして笑っているのか理解ができない。


「ごめんね。そうだった。君達にはずっと言っていなかったんだものな」

「何の話…………」

「俺は警察じゃないんだよ」

「え?」


 その逆だな、と彼は静かに続けて微笑んだ。


「青桐組って知ってる?」


 澤田さんは煙草を咥えた。即座に横にいた一人がジッポライターで火を付ける。

 大して美味そうでもなく吐き出された紫煙は、光の中でもクッキリ輪郭が浮かび上がるほどに濃厚だった。

 彼はゆっくりと煙草を吸う。僕の目の前にほろほろと灰が落ちる。共に降ってくるのは、理解しがたい澤田さんの言葉だ。


「楽土町を拠点にしてる暴力団だよ」

「……………………」

「俺はそこの、本部長」


 さっぱりとした声は、いつもの彼の声と何一つ変わらなかった。朝のニュース番組で見るような爽やかな顔で、彼は掠れた真夜中の言葉を吐く。

 うそ、と雫ちゃんが上擦った声をあげた。彼女は困惑の眼差しで澤田さんを見つめ、壊れそうなほど首を横に振った。


「だってありすちゃんは! あなたはおまわりさんだって……一緒に世界を守る仲間だって……」

「あの頭の弱い子の言葉を信じてたの?」

「だ、だ、だって。あ、ありすちゃんは。ありすちゃんは」

「確かに最初に誤解したのは彼女さ。ジョギングついでの巡回をしていたときに出会ったんだ。それをパトロールだなんて勝手に呼んでいたっけ」

「巡回? だったらやっぱり……」

「ヤクザだって街の見回りくらいするさ。厄介な不良のたまり場や、勝手に薬を売っている不審者なんかを見つけて退治する仕事があるんだ。俺達にとっての、街の平和を守るために」


 思えば。彼は今までにハッキリと、自分のことを警察だと名乗ったことはあるだろうか。

 どれも他人が勝手に警察だと思い込んで話していただけだ。僕達だってありすちゃんの言葉につられて、彼を警察だと思い込んでいた。

 だけどそれをなしにしたって、真夏の青空のように澄んだ笑顔を浮かべる彼のことを、僕達は善人と信じて疑わなかった。


「利用って、何をするつもりなんですか……」


 僕と雫ちゃんは無意識に体を寄せ合っていた。

 彼女の肩は熱く震えていた。けれど触れ合ってはじめて、僕自身の体も震えていることに気が付く。歯の根から聞こえるカチカチという音がずっと止まない。


「そりゃあ色々。軍事兵器として使用するもよし、研究所で解剖するもよし、組の用心棒としてペットにするもよし。どれをとっても君は莫大な金になる」

「そんなに金が欲しいんですか? ヤクザなら、十分金を持ってるんじゃないんですかっ」

「ヤクザだって資金難な時代なんだ。最近は特に金がなくて困っている。……社会勉強として教えてあげるよ」


 じっとりと毛の生え際から滲んだ汗が一つ、また一つと肌を伝い落ちていく。さほど暑さは感じなかった。だから茹るように熱い全身からだらだらと汗が流れているのは、純粋な恐怖によるものだった。


「金貸しや斡旋のシノギで収入を得ている部分もあるけれど、うちの主な収入源は薬だった」


 澤田さんはそう言って語りだす。明瞭な声が、工場の広い壁にトーンと広がっていく。


「表で薬が御法度だと謳っていても、裏で取り扱っているヤクザは多い。うちもそうさね。ずっとこれで収入を得てきた。

 だけど最近どうにも売り上げが芳しくない。調べたらまあ素敵。黎明の乙女とかいう宗教団体が質のいい薬を格安で売っているって話じゃないか。たまげたね! 俺は早速彼らと話を付けて、薬の何パーセントかを売ってもらった。

 それでも売り上げは激減している。他にも売り場が乱立して市場価値が下がりまくっているからだ。さてどうすればいいと思う? はい伊瀬湊くん」

「えっ。あ…………」

「商売敵を潰していくのさ。邪魔者は消えるし、爆増していた楽物乱用者も減っていく。街はどんどん綺麗になっていった。だけどそのうちの一人、女子高生の売人を追っていたときに、あの事件が起こったんだ。君達も知ってるだろ? 雨海雫ちゃん答えて」

「うぁ…………」

「北高校の怪物事件さ!」


  唐突に、彼は巨大な声を破裂させた。僕と雫ちゃんは小さく悲鳴を上げる。澤田さんはうっとりと夢を見る少年の瞳で空を眺めていた。


「あの事件はたまらなく俺を興奮させてくれた……。怪物だぜっ? これまでに見たこともないほど巨大で、獰猛で、最強の、新生物!」


 澤田さんの声には興奮がつまっていた。無言で聞きながらも、彼の高揚感は、僕にも少し理解できた。はじめて怪物を前にしたときのあの興奮は忘れられない。

 けれどきっと、澤田さんの興奮と、僕の興奮は種類が違うだろうけれど。


「あの事件の後も俺は怪物について調べ続けてみた。そうして最終的に辿り着いたのが、君達だ」

「っ」


 彼は僕達にニッコリと優しく微笑んだ。その笑顔に、僕と雫ちゃんが目を反らしてしまったのは無理もない。恐ろしくて恐ろしくて、たまらなかった。


「怪物が現れた現場で君達が目撃されている。何度もだ。何か関係性があるんじゃないかと思っていたんだ。まさか怪物本人だとは、予想外だったけれど……」

「さ、最初からずっと。僕達を利用しようと、近付いたんですか?」

「そうだよ」


 あっさりと言い切った。逡巡なんて少しもなかった。

 ありすちゃんと彼が出会ったのは偶然だったのだろうか。全てを調べ上げたうえで、一番接触しやすい彼女に目を付けたのか。


「ああも都合よく勘違いされるとは思っていなかったけれど、俺にとってはありがたいことだった。君達は色々なことを教えてくれたよね。拠点にしている喫茶店の場所も、連絡先も、自分達が魔法少女だっていうことも」

「…………う。うぅっ」

「俺を信用してくれてありがとう」


 澤田さんはこれまでに一番優しい顔で微笑んだ。

 そして直後。ガラリと表情を変え、酷く不快で嫌らしい、最悪に邪悪な顔で笑うのだ。


「俺は一言も、善人だなんて言ってないのに!」


 僕は思わず喉から唸り声をあげた。怒りと屈辱で目の奥が潤む。

 僕はもっと慎重になるべきだった。あっさりと他人を信用せず、もっと警戒してかかるべきだった。そのせいで彼女達を危険な目に遭わせている!

 澤田さんのことを信用していた。僕達を救ってくれると本気で信じていた。

 それが全部裏切られたのだ…………。


「魔法少女だなんて言っているけれど、それってあの怪物のことだろう? グロテスクなものを可愛く紹介するのが最近の流行りなのかな?」

「うるさい!」


 僕は怒鳴った。ボロボロと涙を流して絶望する雫ちゃんを背に庇い、潤んだ目で澤田さんを睨み続ける。

 反抗的な態度に、周りの男達が気を引き締めたのが分かった。鋭かった視線はより鋭利になって僕に突き刺さる。

 ヤクザに抵抗したら無事じゃすまない。そんなこと分かっている。だけどそれでも僕は澤田さんに吠えなければならないと思った。

 このままじゃ雫ちゃんは酷い目に遭うだろう。そんなことは許せない。


「彼女達に手を出すな。代わりに僕を売ればいい! 内臓を売ろうが、ごみ溜めで働かせようが、好きにしろよ!」

「えっ。あっ、だめ。湊くん……!」

「……あー。ヨシムラくん。アレ持ってきてくれる? ほら。一式新調するからもういらないって言ってた道具」


 吠える僕と、止める雫ちゃんの声。そんな言葉に澤田さんは一切耳を貸さなかった。男の一人に何か指示を出している。

 無視するな、聞けよ、と何度怒鳴っても澤田さんは僕に微笑むだけだった。無視どころか存在さえ気に留めていない。

 ヨシムラと呼ばれた男の人は大きめのバッグを持ってきた。彼はそれを床に置き、いそいそと道具を取り出して床に並べていく。

 それは使い込まれた調理器具だった。まな板に包丁、ピーラー、ボウル、すりこぎ……。家庭的な道具が並んでいくのを見て、僕は訳が分からず疑問を浮かべていた。

 と、道具を並べ終えたヨシムラは不意に雫ちゃんの腕を掴み立たせた。混乱する彼女を突き飛ばすように、澤田さんの元へ連れていく。


「おい!」


 雫ちゃんは澤田さんの前に突き飛ばされた。しゃがみ込んだ雫ちゃんの手を取った澤田さんは、料理用バサミでガムテープを切ると、その手をまな板の上に押し付けた。


「この間の水族館で、君が変身するところを見ていたよ」

「あ…………」

「だけど水中から少し見えただけだった。ほぼ確実に、とはいえ間違いだったら面倒だ。確実に君が怪物かどうかを確かめなければならない」

「あ。あぁ? え?」

「変身してごらん。じゃないと指が切れちゃうよ」


 彼は言いながら包丁を彼女の指に滑らせた。ビクンッと彼女の体が跳ねて、白い指に赤い線が薄く浮かぶ。

 まな板の上に置かれた雫ちゃんの手。その上に包丁を構える澤田さん。彼が何をしようとしているか理解した雫ちゃんの顔が一気に青ざめる。

 彼は、雫ちゃんが怪物に変身するのを確かめるために、指を包丁で切り落とそうとしているのだ。


「やめろ!」


 雫ちゃんは声にならぬ悲鳴をあげて暴れた。靴が脱げて転がっていく。靴下の糸が地面に引っかかり、ビッと大きく糸を引く。けれどいくら必死に暴れても肝心の手は澤田さんの拘束から抜け出せない。

 変身しなければ指が切り落とされる。けれど変身して包丁を止めようとすれば、大衆の目に正体を晒すことになり、もう完全に言い逃れができなくなる。


「いい? いくよ。いくよ?」

「あ! あっ……。あ! あっ!」

「いきまーす」

「あああああああ! あああああああ!」


 振り上げられた包丁が光を受けてキラキラと輝いた。そのきらめきはまっすぐに雫ちゃんの五本の指めがけて振り下ろされる。最後に一度、ビクンとその指が大きく跳ねた。

 その指の白さが、青色に変わる。

 ズルッと濡れた音がした。彼女の指が液体のようにとろけ、触手に変わった。粘ついた粘液を飛ばしながら伸びた触手は澤田さんの腕に絡みつき、下ろされる寸前で包丁を止めたのだ。


「うわっ!」


 周囲が一気に喧騒に飲まれた。男達がどよめいている。マジかよ、すげえ、なんて悲鳴や困惑や興奮がわっと工場中を駆け巡る。

 その中で一際目を輝かせていたのは澤田さんだった。

 彼は涙と涎でぐじゅぐじゅになった雫ちゃんの顔を覗き込み、震える触手を掴んだまま、凄い、と興奮の声を弾ませた。


「本物だ! 怪物だ!」

「う。うぁ。あぁ、ぅ」

「ありがとう! これで確信が持てたよ。やっぱり君は人間じゃないんだ!」

「ち、違う。わたしは、にん……」

「本当にありがとう!」


 ストンと包丁が落とされた。


「あっ?」


 雫ちゃんが目を丸くする。まな板の上でビチンと跳ねた触手は、コロコロ転がって床に落ちた。綺麗な断面が晒されている。


「……あっ!? うああぁっ!」


 雫ちゃんが絶叫した。それに僕の絶叫が重なる。澤田さんはくすくすと笑いながら、包丁に付いた粘液をハンカチで拭った。


「落とさないとは言ってないだろ」


 雫ちゃんの腕の断面が泡だって、ゆっくりと新しい触手が生み出されていく。腕が治っても雫ちゃんはショックに涙を流していた。澤田さんを茫然と見上げ、唇をわななかせる。


「一部だけ変身なんて器用なこともできるんだ? いいね、色々試してみたい。ライターで炙ったらどうなる? 切ってもすぐ体が再生されるの? どうかな。実験に協力してくれない?」

「や……やだ。やだ…………」

「断っちゃうの?」

「いや…………」

「君の妹さんは可愛い子だったなぁ」


 雫ちゃんの顔色が変わった。

 いい子だったし、と澤田さんは腕を組んで何度も繰り返し頷く。


「俺はこの街が好きなんだ。ここで平和に暮らしている住民達のことも大切に守ってあげたい。ほら、水族館でだって妹ちゃんを命がけで助けてあげただろう? 水槽に落ちるとは思ってなかったけど」

「晴…………」

「だけど君が協力してくれないっていうなら、君の家族に直接お話をしに行こうかと思うんだ」

「っ」

「俺達がどんなに武器を持ったって、君が完全に怪物に変身すれば勝ち目はない。だけど今日はただ君達を連れてきたわけじゃない。実は今、君達の家の周りに仲間を寄越してあるのさ。俺が一言でも指示を出せばあいつらは君達の家族に挨拶をしに行くだろう」

「……………………」

「この意味、分かるかな?」


 酷い脅しだった。雫ちゃんの顔は蒼白に染まり、今にも倒れそうなほどふらふらと揺れている。

 僕達が彼に協力したくないと突っぱねたら、彼はきっと僕達の家へ仲間を『挨拶』に寄越す。血だまりに倒れる父さんと母さんの姿を想像してしまい、吐き気が込み上げた。

 雫ちゃんはとうとう声をあげて泣いた。大粒の涙を地面に滴らせ、感情に連動させたように触手をぶるぶると震わせる。その姿を見て、もうどうしようもなく胸が苦しかった。


「やめてください澤田さん! お願いだ。彼女にもう酷いことをしないでくれ!」


 僕は何度も何度も叫んだ。喉が枯れて、声がザラザラとささくれ立つ。

 僕の声が届いたのか、それとも単にうるさかっただけなのか。ようやく澤田さんが僕に顔を上げた。特に感情のこもっていない仄暗い視線が向けられる。


「…………あー。君、彼氏?」

「その子の友達だ! 友達が傷つけられるのを、黙って見ていられるか!」

「ふぅん」


 澤田さんは不意に立ち上がり、僕の首根っこを掴んで雫ちゃんの隣に横たえた。

 涙に濡れた青い目が僕を見つめている。恐怖の色に引きつったその瞳に、僕は歯を食いしばって頷いた。

 大丈夫だと。君を守ると。視線だけでも、訴える。


「青春ストーリーだ。いいね。そういうの、俺結構好きだよ」


 男達が僕の周りを取り囲む。たくさんの足に遮られ、雫ちゃんの姿が見えなくなった。

 おそるおそる男達を見上げた。冷たい目に、笑っている目に、憐れんでいる目が僕を見下ろしている。


「この間見ていたときから思っていたんだ。君達は心優しい子達だよ。自分を犠牲にして他人のために必死になれる。それは一種の才能さ。普通はそうできるもんじゃない」


 男達は手に、色々な道具を持っていた。さっきの調理器具を持っている人もいる。錆だらけで放置されていた小型の機械を持っている人もいる。赤い汚れがこびりついた新品の■■■を持っている人もいる。

 はく、と僕は唇を震わせて身を強張らせた。


「そういう優しい人間が耐え切れなくなって『自分だけでも助けてくれ』と泣き叫ぶ姿を見るのも、俺は大好きなんだ」


 額に叩きこまれた誰かの靴が、僕の意識をふっ飛ばした。




「もうやめてぇ! 湊くんが死んじゃうよぉ!」


 雫ちゃんの泣き叫ぶ声に、僕は腫れた瞼をこじ開けた。

 泣かないでくれよと言おうとして開いた口からは薄い呼吸しか出てこない。喉が痙攣して咳き込めば、赤く泡立った唾が吐き出された。

 コンクリートの冷たさが火照った頬を冷ます。それもすぐ、ドロドロと流れる血でぬるくなってしまったけれど。


 僕の周りに転がるピーラーやまな板は血で真っ赤に染まっていた。すりこぎには小さな肉片がくっついているし、■■は■■■で■■になっている。包丁だけはちっとも汚れておらず綺麗なままだったけれど、それでされたことを思い出すと、恐ろしさにガチガチと歯が鳴る。


「どう? そろそろ諦める?」

「う…………」

「君はただの人間なんだろ? じゃあ別に用はない。 今日のことは全部忘れて、お家に帰っていいんだよ?」

「い……嫌、だっ…………ゴフッ!」


 澤田さんの靴底が胸にめり込んだ。骨はミシミシと音を立てて今にも砕けそうだった。実際、これまでの拷問で確実に何本か骨は折れているだろう。

 あれから半日くらい過ぎたような気がするけれど、実際にはまだ一時間もたっていないだろう。時間感覚がめちゃくちゃだった。早くこの地獄が終わることを願っても、まだしばらくは終わりそうにない。

 ポクッと小さくて軽い音が体のどこからか聞こえた。間抜けな音とは裏腹に、とんでもない激痛が全身に走る。僕の絶叫が工場中に反響した。

 雫ちゃんが悲鳴をあげる。涙に濡れた彼女の声が僕の耳に届く。


「もうやめてよおぉ……。お願いします。お願い……」

「やめてほしい?」

「わ……わたしが、代わりになんでもします。だから湊くんを許してください……。助けて…………」


 やめてくれよ、と僕は心の中で叫んだ。僕は大丈夫だから。君が酷い目に遭う必要はないから。こんな痛み、まだ何時間だって耐えられるさ。

 全部心の中の声にしかならなかった。喉の奥に絡まった血のせいで言葉が出てこない。ガクガクと震える指を引きずって必死に顔を上げれば、澤田さんに頭を下げて泣いている雫ちゃんの姿が見えた。


「…………OK!」


 澤田さんは彼女にニッコリと笑いかけ、その体を引っ張って歩き出す。雫ちゃんはほとんど吊るされるような形になりながらも、必死で澤田さんの後ろをついて行った。ぐったりとして動けない僕を誰かが担ぎ上げて、澤田さん達の後を追った。

 打ち捨てられた機械の合間を潜って、また別のスペースに辿り着く。そこにあったのは小さな囲いだった。適当な木材で適当に作られた腰くらいまでの高さの囲い。その中には何故か数匹の豚が並んで餌を食べていた。

 どうしてこんな所に豚がいるのだろう。体に隠れ、彼らが食べているものは見えない。けれどそこから香るのは凄まじい肉の腐敗臭だった。


「ここはね、俺達が手を付けてた工場なの。金まで貸して優しくしてあげてたのにさぁ……、経営がうまく行かなくて社長が夜逃げしやがってね。当然探してとっ捕まえて、奥さんと息子さんを目の前でミンチにした」

「あっ?」

「全部残らず本人に食べさせてあげたんだ。泣いて喜んでたよ。その後本人も細かく刻んであげたんだ。小さくしないと、豚さんが食べにくいだろ?」


 雫ちゃんが俯いて、けぽっと胃の中身を吐き出した。僕は青ざめたまま囲いの中を見つめている。

 豚は餌を食べている。ぐちゅぐちゅと肉を貪る音が聞こえる。


「海辺の工場って便利なんだ。近隣に家がないから夜遅くまで騒げる。汚したって掃除用の水は大量にあるし、何かあったときはすぐ海に逃げることができる。勿論、海に大きなゴミを捨てることもできる」

「うぇ…………」

「この豚は養豚場をやってるお友達から拝借した子達。特に大柄の子を譲ってもらったんだ、可愛いだろ? 残飯処理担当としてここで雇っているんだ。何でもよく食べてくれるんだよ。何でも……」


 澤田さんが雫ちゃんの肩を掴んだ。怯える彼女に優しく微笑んで、彼はその体を横抱きに抱える。そうして囲いギリギリへと近付き、震える雫ちゃんをその中へと放り込んだ。


「あっ」


 彼女の体が藁の上に落ちる。豚は突如降ってきた人間に対して威嚇の声をあげ、ドスドスと地面を踏み鳴らした。

 雫ちゃんは悲鳴をあげて囲いから出ようとした。その肩に、一頭の豚が涎を垂らして噛み付いた。


「きゃあ!」

「雫ちゃん!」


 雫ちゃんに豚が襲いかかる。腕に噛み付き、顔を踏みつけ、足に蹄を叩きつける。彼女の絶叫がほとばしった。


「獣に襲われる女は見物なんだ。知ってる? 大抵、体に押し潰されて白目を剥いて死ぬんだよ。発情期だともっと悲惨なものになっちゃうけど。今日はどうなるかなぁ」


 澤田さんの言葉が脳味噌をガリガリと削る。僕は目を見開いてもがき、僕を抱える男の腕から飛び降りた。

 地面に叩き落とされてすぐ、這いずるように澤田さんの靴に噛み付く。やめろ、と僕は叫んだ。湿った血を吐き出して必死に言葉を振り絞る。


「あの子に手を出すな! 僕だけを殺せばいいだろ!」

「殺すつもりはない。躾だよ。今は従順な態度を取っていようとも、いざ本気を出されたら手が付けられない化け物になる女の子だ。今のうちに痛い思いをさせて、上下関係を叩きこんでおかないと」

「ふざけるな! こ、この、クズ野郎!」

「…………君達は、呆れるほど善人の面を被っているなぁ」


 澤田さんはふっとその目から温度を消した。ゾッとするほど冷え切った目が僕を見下ろす。ぞわっと肌の産毛が逆立って、一瞬、体中の痛みさえ感じなくなるほどの恐怖が胸に込み上げた。


「君達だって悪人じゃないか。怪物に変身して、散々人を殺してきたくせに。何を正義の味方ぶっている? 頭がおかしいんじゃないか?」

「ち、違う。僕達はこの街を守るために変身して……!」


 僕が何を言っても澤田さんには届かなかった。その間も雫ちゃんの悲鳴がひっきりなしに聞こえていた。

 やめてくれ、と僕はまた叫んだ。澤田さんはそんな僕をじっと見つめて大きな溜息を吐くと、あっけなく僕の体を持ち上げ、雫ちゃんと同じように囲いの中へと放り込んだ。


「うっ!」

「……残念だなぁ。心が折れて相手を見捨てる姿が見たかったのに、案外しぶといんだから」

「っ。さ、澤田さん!」

「もういいよ。豚の餌やりショーに変更するから。最初からこうして放置してりゃ楽だったかな。女の子は回復するから生かして置けるし、男の方は食われておしまいだ。証拠隠滅にもなる」


 豚の鼻がドンと僕の肩を突き飛ばした。倒れる僕の体に豚が噛み付いて、熱い痛みが走る。

 湊くん、と雫ちゃんが泣き叫んでいた。彼女を助けようと体を動かしてみても、せいぜい膝立ちになるのが精いっぱいの状況で、高い囲いを超えることは不可能だった。

 体中が痛かった。胸を掻き乱す焦燥は深い悲しみに変わり、僕の目から涙が零れ落ちる。


 変身して世界を救おうとしても、結局こんな目に遭ってしまうのか。怪物に変身する彼女達はもう魔法少女として認められることすらできないのか。

 どれだけ頑張っても。努力しても。結局こんなことになる。

 そんなのあまりにも、彼女達が可哀想だ…………。


「――――湊くん!」


 不意に僕の体が温かなものに包まれた。

 雫ちゃんが僕を抱きしめているのだと少し遅れてから気が付く。

 豚の牙が彼女の肌を切り裂いた。細い喉から苦しそうな呻き声が上がる。けれど彼女は決して僕から離れようとしなかった。


「雫ちゃん!」

「だっ、大丈夫……」

「やめ……馬鹿! 何してるんだ!」

「わたしは、いくら傷つけられてもすぐ治るから……。大丈夫。絶対助けるから」


 頬に触れていた彼女の肌がドロリと溶け始める。青緑色に変わっていくその肌に、僕は大きく目を見開いた。

 澤田さん達からも動揺の声が聞こえた。彼女の骨格がポキコキと変わり、その姿がじわりと膨らんでいく。


「わたしは、どんなことを言われたって、魔法少女なんだから…………」


 彼女の体が怪物へと変形していく。僕は茫然とその姿を見つめていた。

 と、その向こうに澤田さんが見えた。彼は携帯を取り出し、険しい顔でどこかへ連絡をしようとしているところだった。

 彼女が怪物に変身すれば僕は助かる。だけど代わりに、彼女の家族が殺される。


「駄目だ!」


 咄嗟に僕は怒鳴った。雫ちゃんがビクッと体を震わせて、半分変化していた体の変身を解く。

 戸惑う彼女の隙をついて、僕はその体を地面に押し倒した。さっきと真逆の立ち位置になるように彼女の上に覆いかぶさる。豚の蹄が背中を強く蹴る感触に、思わず唾を吐いた。


「――――大丈夫!」


 さっきと同じ言葉を今度は僕が言った。泣いている雫ちゃんに、必死で笑顔を向ける。

 涙でぐしゃぐしゃの顔はきっと随分情けない。喉だってズタズタで言葉を吐くことさえ苦痛だ。それでも僕は彼女に笑いかけた。

 迷っていた自分が恥ずかしかった。

 どんな姿であっても、誰にも認められなくても。彼女は、こんなにもかっこいい魔法少女だというのに。


「湊くん、湊くん!」

「君にこれ以上酷いことをさせるもんか。変身しなくていいんだ……。僕のために自分を犠牲にしなくたっていい」


 わんわん泣いて雫ちゃんは首を振る。僕は微笑んで、背中に襲いかかる攻撃を必死に耐えた。

 これ以上彼女達に辛い思いをさせるものか。

 彼女達は多くのものを犠牲にして怪物に変身している。世界が認めてくれなくても、その世界を救うために。

 だったら。その彼女達を守ることが、僕の役目じゃないか!


「僕が絶対に君を守る!」


 ねえ見てくれよお兄ちゃん。

 今の僕は、最高にヒーローらしいだろう?




 賭けようぜ、という男達の声が、朦朧とする意識の中聞こえてきた。


「女が怪物に変身して終わりだろ。一万かけるわ」

「俺は男が豚にぶち殺されるのに二万」

「じゃあ私は、みーんな全滅しちゃう、にお小遣い全部賭けちゃう」


 皆が一斉に振り向いた。聞き覚えのある声に、僕も薄く目を開いて出入口の方を見つめる。

 正面入り口のシャッター前。そこに場違いなピンク色の髪がふわふわと揺れている。魔法みたいにいつの間にかそこに立っていたありすちゃんは、甘く微笑んで頭を下げた。


「こんばんは澤田さん。いい夜ね」

「…………こんばんは、ありすちゃん」


 おい、と澤田さんが近くにいた男二人に声をかけた。彼らは無言で裏口から出て行く。恐らく、外にいるはずの見張りを確認しに行ったのだろう。

 突如現れた不思議な少女に、男達は銃を向けた。大量の銃口に視線を向けられても、ありすちゃんはその微笑みを絶やさない。

 パンッと聞こえた銃声に僕と雫ちゃんだけが肩を跳ねた。外から聞こえた音だった。たった一発の銃声の後、空気はシンと痛いくらいに静まり返る。


「っ!」


 ドンッ! と直後、銃声を遥かに上回る音がしてシャッターが外側から大きくへこんだ。今度は男達の肩も跳ねる。

 シャッターから何度も大きな音が立つ。ベコッベコッとへこんでいく壁の前で、ありすちゃんは身動ぎ一つしなかった。


「何を、しに来たのかな?」


 澤田さんが優しく言った。彼はありすちゃんに銃を向けた。その頬に一筋汗が伝う。

 ありすちゃんは無邪気な声で言った。


「ピンチの仲間を助けに来たのよ」


 ドッ、と彼女の背後でシャッターが破れる。外側から突き出された巨大な爪がシャッターを引き裂いた。

 大きな切れ目の向こうから、お椀のような目が三つ、ギロリとこちらを睨みつける。

 誰かが悲鳴を上げた。それを合図としたように、シャッターが完全に引き裂かれ、向こうから巨大な獣が飛び出してくる。

 魔法少女イエローだ。


「ゴオオォウ!」


 落雷のような声が響き渡る。あっと思う間もなく走り出したイエローちゃんは、一番入口に近かった男に噛み付いてそのまま壁に叩きつける。ギャッと短い悲鳴を一つ残して男が崩れ落ちるのを見れば、また別の男へ走り、噛み付いて同じく弾き飛ばした。

 辺りは一気に大パニックに陥った。銃声が弾け、怒声が響く。


「落ち着け!」


 澤田さんが言った。けれどその言葉に反応する者はほとんどいなかった。

 彼は舌打ちをし、ニコニコと立ち尽くすありすちゃんへ銃を撃とうとした。

 だがその引き金が引かれることはなかった。

 ありすちゃんの前に、誰かが一人、立ちはだかったから。


「ど、して…………」


 ザラついた喉から、掠れた声が零れ落ちる。

 ピンクの前に立つ、闇のように深い黒色。ドロリと濁った目をこちらに向けて立つのは黒沼さんだった。

 彼は取り出した銃を天井に向け一発だけ撃つ。その銃声にイエローちゃんの巨大な耳が震え、彼女は地面を蹴って彼の隣に着地した。

 ありすちゃんと、怪物姿の千紗ちゃんの、その真ん中に黒沼さんは立っている。肌にタトゥーが怪しく這っている。耳元のピアスがジャラジャラと揺れている。

 彼はその目を鋭く細め、工場中に響き渡る大声で叫んだ。


「大人しくしろ。警察だ!」

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