Track.5-4「それで、恋してるんだって気付いたわけ?」

「芽衣ちゃんはあの四月朔日夷に対して、どうしたいって言うのはある?」


 緩やかな空気が俄かにしんと張り詰めた。

 芽衣に向けられた視線は計六つ。それらひとつひとつと交差させ、芽衣は再び美青を真っ直ぐに見据える。


「うん――あるよ。兎に角、夷がやろうとしていることは止めなきゃいけないと思う」


 それは多分に含みのある言い方だった。

 芽衣に注目する六人の誰もが、夷を止めた後で芽衣は何かをするのだとその言葉を受け止めた。

 しかし芽衣はその“何か”を語らなかったし、六人の誰もそれを聞き出そうとはしなかった。



 時刻は12時を回り、ひとまず食堂へ行こうと航が言い出す。腹が減っては戦どころかその下準備さえ出来ないと。

 病院の食堂は盛況では無いものの、閑古鳥が鳴いているわけでも無い。研究があるからと同行しなかった美青を除いた六人は中央に並ぶ大きなテーブルの一角に向かい合わせに座り、それぞれが全く異なる食事を頬張りながら雑談に花を咲かせる。


 壁の高い位置には大型のディスプレイが昼時のニュースを放送していた。

 何の気なしにアナウンサーが伝える情報を流し聞きしていた芽衣だったが、しかし雑談の途中でいきなり立ち上がり、食い入るようにディスプレイを睨み付ける。


 画面下部には『アイドルグループ握手会であわや惨事』の文字テロップ

 それは、昨日のRUBYルビの握手会で起きた事件についてのニュースだった。



   ◆



 愛詩が“彼”と再会できたのは、5月の中旬のことだった。

 校内で行われた新入生歓迎球技大会――そこで再び、あの“弦”を垣間見たのだ。


 競技は9人制バレーボール。愛詩のクラスはグラウンドで行われたサッカーが割り当てられていたため、偶々他クラスの試合を見ていた最中に体育館でのその光景を目にしたのは奇跡的、或いは運命的と言ってもよかった。そのくらい、愛詩と彼とは接点が無かったのだ。


 彼はその時は後衛で、飛んできた球に伸ばした弦をくっつけては、なるべく不自然じゃない軌道で自分に呼び込み、新たにネット上まで伸ばした弦に切り替えると上等過ぎないアンダートスを上げた。

 弦を伸ばし、球に吸着させ、自分の方に呼び込み、腕が球に触れるか触れないかの瀬戸際で新たな弦を伸ばして球を軌道に載せて飛ばす。その淀みの無い流れは美しくさえあった。


 トイレに立つ振りをして体育館まで走る。グラウンドでの試合を割り当てられたクラスも、トイレは体育館に備わるものを借用するため不自然な行動ではない。

 他の上級生や同級生、下級生も自分の出番では無いのか、外から体育館の様子を伺う者は少なくなかった。皆、お目当ての誰かがいるのだろうか。愛詩もそこに混じり、体育館の中を身を乗り出して見渡した。

 しかし駆け付けた頃にはセットチェンジで試合に参加しているメンバーが変わっており、“彼”の姿はまるで消えたように探せない。


(何だか、すれ違ってばっかだ――)


 愛詩はそれでもと5分ほどその場で体育館の中を探し続けたが、やがて諦めることにして踵を返した。――“彼”は、そこに現れた。


「えっ、?」

「えっ?」


 首に掛けたタオルで汗を拭いながら体育館から出て来た“彼”に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった愛詩の目は“彼”に注がれ逸らせない。

 逆に彼は、自分を見るや驚かれたことに驚き、少し跳び退きかけたが、その声の主は自分を見詰めて動けないでいることに不思議がった。


 前髪にかかるほど長く伸びた黒髪は陰鬱そうな雰囲気を齎しており、線が細く背は高い方だが猫背のためにそうは見えないところが拍車をかけている。姿勢を正して身綺麗にすれば好青年なのにな、と、愛詩はどぎまぎする思考の隅でそんな感想を抱いた。


「……あの、」

「ひゃいっ!?」


 見つめ合っていた時間はどれだけだったろうか。1秒にも満たないかもしれなければ、それは10秒を超えていたかもしれない。愛詩は時間感覚を失うほど、彼に見惚れてしまっていた。折角巡り逢えたと言うのに、その瞬間あの弦のことは頭から過ぎ去ってしまっていたのだ。

 だから、呼びかけられればそんな変な声が出てしまい、そんな自分を恥じてもっと身体が固くなってしまう。

 心臓が何故こんなに早鐘のように打ち付けるのかも解らなければ、自分がここで何をしようと、何をしているのかも最早解らなくなっていた。


「……どうしたんですか?」

「は、あ、……いえ、その……」


 体操着の色を見れば、愛詩が自分のひとつ上だと言うことは判る。しかし何故愛詩にそのような症状が発症してしまったのかは彼にとって定かではない。

 かと言って愛詩は目の前から去っていくような素振りは見せない。自分から立ち去るのも、もし相手側に自分に対する何らかの用があったのなら失礼だと、彼は思考を巡らせどうしたもんかと自問する。

 そしてどうしたも何があったも言わずもじもじとしている愛詩に、記憶の中から見覚えを呼び起こした。


「あ、弓道部の」

「え、あ、はい、弓道部、です……」

「ああ、入部の件ですよね?」

「え、あ、いえ、あ、はい、あ、いえ……」

「ごめんなさい。僕、まだ決めかねてるんです。だからもう少し、待ってて貰えませんか?」


 全く見当違いな返答に愛詩はがっくしと肩を落としたものの、自分の用件を伝えられていないのだから当たり前だと一人納得する。しかしそれを伝えようにもどう切り出していいのか分からないのだからしょうがないと、紅潮した顔で無理矢理に笑顔を作って頷いた。本人には笑顔のつもりでも、彼にして見れば相当に切羽詰まった顔でしかなかったが。


「ま、待ってますっ」


 ぺこりと会釈をして彼は立ち去る。その背中を見送る最中に、思い出したように心臓の速い鼓動に胸がきゅぅと痛くなり、彼の姿が見えなくなっても、しばらく愛詩はその場を動けなかった。


 そして、球技大会の最中も、それが終わっても、その日の部活でも、帰宅中も、帰宅した後も。

 愛詩は、気が付いたら彼のことを考えてしまっている自分に気付く。

 疲れている筈なのにご飯が喉を通らず、何だか顔がずっと熱いままだ。



「それで、恋してるんだって気付いたわけ?」


 語る最中、居てもたっても居られずに夷はそう口を挟んだ。

 その問いに愛詩の顔は紅潮し俯いてしまう。何とも苛つく首肯だと、夷は実に呆れた顔を見せたがすぐに続きを促した。



 しかし一向に待っても彼は放課後の弓道場に現れないまま、二週間が過ぎた。

 星荊学園では部活動にも力を入れている手前、生徒は何らかの部活動あるいは同好会に入部しなくてはいけない決まりがある。だから愛詩は彼はもうすでに他の部活に入ってしまい、自分と関わり合うことはもう無いのだと思い込んでしまっていた。


 あれを恋と呼ぶにはいささか拙いような気もするが、やはりこれは失恋なのだろうと。

 自分の胸の中に生まれていた淡い糸のようなものを手放した途端、今まで頭の中をぐるぐると渦巻いていた雑念が消えた。

 だから愛詩は弓を取り、その場所に立つ。


 足を踏み、胴を造る。

   ――清廉な気持ちだった。


 弓を構え、打ち起こす。

   ――周囲が俄かにざわめき立ったが、気にはならない。


 引分け、会を成す。

   ――その誠実な会に呼応するように、張り詰めたラインがそこには在った。


 離れ。

   ――矢はぎゅるりと旋回して軌道の通りに進み、的の中心を射貫く。


 残心。

   ――胸郭を大きく開いたまま、何を思うわけでも無くただ結果を見詰める。


「――すごい」


 パチパチと周囲から拍手が贈られる中、その声に振り向いた愛詩は、驚愕に目を丸くしてただ立ち尽くす“彼”と見詰め合った。

 直ぐには事態を飲み込めなかった愛詩だったが、先程の騒めきが彼の来訪によるものだと知り、透明だった脳裏が途端に桜色に溢れ、礼を失したその姿に顧問の女教師は小さく叱責した。


「けれど、選抜前の姿に漸く戻ったわね」

「……はい、ありがとうございます」


 結局その日は連盟にも名を連ねるその女教師によるみっちりとしたしごきのために、愛詩は彼の指導に回ることは無かったが、彼のことを忘れて集中して射ることが出来た愛詩は、これまでの頻度を大きく上回る三射に一回という精度で的の中心を射貫いた。中心を外れた矢すらも、これまでは大きく的を外れてしまっていたが、的の内側に収まるようになって来ていた。



 その日の部活動が終わりの時間を迎え、新入生と上級生は先に帰り、愛詩を含む二年生が弓道場の清掃と道具の手入れをする。愛詩は自分が最も顧問に構ってもらったからと手入れの終わった道具の片付けを一人で担当すると言って他の二年生を先に帰し、片付けながら今日の感触を反芻した。


 いつもより遅くなってしまった弓道場の電気を消して、更衣室で制服に着替え、鍵を返しに職員室へ行こうと急いで弓道場に対して帰りの一揖いちゆうを行い、振り返ったところで。


「すみません、お時間ありますか?」


 彼は立っていた。愛詩を待っていたのだ。

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