Ⅴ;幻 術 と 弦 術
Track.5-1「“熊が鮭食んで来た”、って感じ?」
もしも。
もしも、
もしも世界中の人間が、
寸分違わず同じ幻覚を、
寸分違わず同じ期間、
寸分違わず同じ時間に“視”ていたとしたなら。
それは果たして、“幻”だと言えるのだろうか。
あたしは――
見上げる建物は、昼下がりの高い日差しに照らされて白く輝いている。
何度も通い慣れた自動ドアを潜って、何度も見た椚や欅の高く伸びた中庭を横目に通り抜ける。
押すボタンは“6”だ。僅かな重圧が両肩に乗り、それが過ぎると今度は時間を置いて仄かな浮遊感が足の裏にかかる。
白い廊下を突き進み、奥のドアをノックする。
「――どうぞ?」
聞き慣れた声。
ドアノブを捻って押し開けたあたしを、六つの顔が迎え入れた。
「だから大丈夫だって言ったっしょ?」
四方月さんにそう呟いたのは安芸だった。彼女にしては珍しく、疲れたように顔が笑っていない。相当に不機嫌らしい、何があったのかは――多分、あたしのことだろうけど。
その四方月さんは何も言わないであたしを見詰めている。表情から、どういう感情を抱いているかが読み取れない。
隣に並ぶ、碧枝さんや谺さん、百戸間さんも。皆、真面目な顔をしてあたしをただ見詰めていた。少しだけ谺さんが何かを言おうとしたけれど、結局口を噤んでしまう。
「何しに来たの?」
常盤さんも完全に怒髪天だ。表情こそいつもの笑顔だけれど、その口調と声のトーンがそれを如実に表している。
当たり前だ。放り出したのは、あたしなんだから。
「――ごめんなさい」
だから、謝るのも当たり前だ。静かな空白があたしたちの間に訪れた後で、あたしは再び頭を上げて、もう一度言う。
「迷惑をかけて、ごめんなさ」
「迷惑じゃなくて心配だろ」
食い気味に返して来たのは四方月さんだ。池袋の街で初めて遭った時のような、若しくは初めて放り出された異界であたしを護ってくれていた時のような真面目な表情。
「迷惑なら何度でもかけろよ。俺は、お前の上司だぞ――だから、謝るなら心配かけたことを謝れ」
もじゃもじゃの頭をがしがしと掻いて。気恥ずかしそうにそっぽを向く。
「……心配かけて、ごめんなさい」
おう、と小さく返した四方月さんはそのままそっぽを向いたまま。碧枝さん・谺さん・百戸間さんは三人で顔を見合わせ、何処となくほっとしたような表情になった。
常盤さんも、その場の流れに身を委ねたように溜め息を吐いて、それだけだ。
そして、安芸は。
「安芸、」
「……何だよ」
さっきから目を合わせてくれない安芸。ぶっきらぼうに告げる姿は、いつかあの百合の丘で初めて遭った時に似ている。
あの頃の安芸は、今みたいに全然笑わなかった。彼女が笑うようになったのは、あたしが笑えないと知って少し経ってからだ。
思えば安芸は、いつかの咲みたいに、あたしの分まで笑ってくれていたのだろうか。
「覚えてる?あたしが退院して、安芸にお願いしたこと」
「……忘れるわけ無いだろ」
「うん。……もう一度、お願いしたいんだ」
椅子に座っていた安芸はあたしの言葉で立ち上がる。そして漸く、あたしに向き直ってくれた。
目に宿る、ともすれば敵意に似た真摯さ――長らく見ていなかった、彼女の本質。
「友達の、“正しい”殴り方を教えて」
そして。
口角が持ち上がって、真摯さに熱が点る。
「いいぜ――――なら一回ぶん殴らせろ」
バグンッ――――
――――
――
◆
げ ん と げ ん
Ⅴ ;
◆
17周目を迎え、
退院した芽衣ちゃんはやっぱり
このまま行けば二ヶ月後に
彼女は15周目で漸く、瞳美ちゃんの死から立ち直ってくれたから、今回は前回駄目だったクリスマスライブを乗り越えてくれればいい。そしたら時期的には年明けの
それが終わったら、きっと彼女はアイドルに戻る筈だ。
辞めていようが関係ない。戻ってくれないと困る。
だってそういう
そしてわたしは、
それが叶わなかったらもうそこまでだ。それ以上はどこにも無い。
だから。問題はここからだ。
この17周目を最期にすると決めた以上、何が何でも理想の結末へと至りたいわたしは、これまでとは違った何かを用意せざるを得ない。
アテはひとつだけある。というか、それしか無い。
でも
「あ、あのー……」
遠く玄関から聞こえる、若い女の子の声。ああ、そう言えばインターホン壊れたまま直してなかったや。
しかし、この家を訪ねてくる人、しかも女の子なんて珍しいな。うち、お寺だから変な宗教の勧誘ってことも無いだろうし、――もしかして入門希望者?それとも入檀?いやいや募集してないし、したことないし。
とてとてと枯れた下肢で玄関まで歩み、ガラリと引き戸を開けると、そこには汗だくの若い女の子が何だか色々と背負いこんで立っていた。
ほんのりと紫がかった髪の毛は右耳の斜め後ろで一つに纏められていて、そこそこ勇気の要りそうな高い位置の
眉の
円らな目とほんのりと上気した頬、色づいた上下の唇から僅かに覗く白い歯。咲ほどでは無いけれど、確かな愛嬌がその顔貌には備わっている。
首筋はじとりと汗ばんでいて、やや広い肩幅に続く薄っすらとした鎖骨の下で、首元の広く開いたTシャツが汗に濡れて透けた、淡い色のブラジャーに包まれたつんと上向きのお胸さんが
たゆん。たゆーん。
薄汚れたスキニーパンツに包まれた下肢は実に肉肉しい曲線を描いていて、――わたしは確信する。
全体的に肉付きのいい体つきといい、幼さの残る愛嬌塗れの顔貌といい。
うん、このコはエロい。声を大にして言いたい。
「――そんなエロいコが何の用ですか!?」
前言撤回。声を大にして言ってやった。
「え、……えっと……あの、」
なんだよ。もじもじするとか卑怯だぞ。変にいぢめたくなってくるぢゃん。
「――っ、」
でも彼女はひとつ息を呑んだ後で、確りとわたしを見詰めて告げる。
「――魔術を、教えてくださいっ!」
頭を下げる彼女。その勢いのせいで、背負っていた筒を包んだようなバッグが肩からずり落ち、彼女は慌てたけれどそれでも頭を上げない。
「不躾なことを言ってるってことは解ってます!でも、教えてくださいっ!」
そのままの体勢で吐き出された言葉には熱意と呼ばれる力が篭っていた。
どれだけの時間をかけてこの家まで辿り着いたのだろうか。お洒落なミュールを履いた足元は所々血が滲んでいて――きっと、山道の草で切ったのだろう。その汗もそうだ、彼女がここに頑張って辿り着いた証左だ。
「
「え?――あ、あれ?」
傷と疲れだけを取り払った。汗ばんで透ける衣服は眼福だからそのままにしておく。
そしてわたしは、彼女を迎え入れた。
「ちょうど、きみみたいな“弦術士”を探そうとしてたとこだったんだ。何て言うか、――“熊が鮭
「え?それチャンスですか?それともピンチですか?」
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