Track.4-4「黙って見てなよ」

「もう少し頑張って!」

「大丈夫ですからね!」


 慌ただしく、リノリウムの床を医師や看護師たちが駆ける。彼らの中心にあるのはストレッチャーで、虚ろな目をした少女がその上で身体を横たえている。

 どこまでも黒い髪同様に、光を宿していない光彩もどこまでも黒い。薄く開いた唇の端には白濁した涎が僅かに垂れている。

 しかし彼女を一目見て最も目を引くのは、その左腕の夥しい傷痕だ。

 肘から先、手首にかけて蚯蚓脹れとなったいくつもの仄赤い筋が走っており、そして手首には深い切創が刻まれている。その傷口は赤く今も濡れているが、止血の処置が施されているため外からは伺い知れない。


 手術室の扉が跳ね開かれ、術衣を着用した医師たちが少女を取り囲む。

 彼らは医師でありながらにして魔術士である。国際魔術士法において他者に同意なしに魔術を行使することは違法とされているが、意識の無い患者の治療のために魔術を行使したことに刑法上の緊急避難が適用されたケースも珍しくはない。


“創傷探査”スカースキャニング――おいおい、心臓に孔、開いてやがる」

「――大動脈弁か」

「糸居、左手首の切創頼めるか?」

「二十秒下さい」

「胃洗浄も必要だ」

「解ってる」


 医療の分野に魔術が浸透し出してからまだ十年と経っていないが、医療法人久遠くおん会の母体である久遠家はもともと呪術医ウィッチドクターの家系である。その分家である常磐家が運営する常磐総合医院もまた、華族が時代に台頭していた頃から魔術を医療に転用してきた経緯を持っている。


「自殺志願者の命を助けるたぁ無いね」

「救命士の話だとこの子、自分で119番通報したらしいですよ」


 少女は自宅の風呂場で左手首を掻っ切り、その手首の傷をバスタブに溜めた水に浸けることで自殺を図っていた。用意周到なのか、それとも痛みを恐れたのか、事前にはネット上にしか流通していない睡眠導入剤を大量に飲んでいた。

 しかし少女はリストカットの直後、自身のスマートフォンから119番通報を行った。通話が繋がった途端に意識を失ったため救命士は何事かは判らないが、業務フローに則りスマートフォンから発信されているGPS信号が伝える住所地に急行する。

 近年では、緊急通報中に意識を失った場合に備えて通報を行ったスマートフォンからGPS信号が自動的に発信されているようになっている。今回はそれが功を奏したケースと言えた。


 自ら命を絶とうとしながら、しかし自ら助けを求めた少女の真意は判らないが、いずれにせよ医師たちは少女の命を繋ぎ留めた。

 そして目覚めた少女は――記憶を失っていた。


   ◆


『――これ、どうにかなんない?』


 自分の輪郭が溶けた浮遊感に苛まれながらそう呟いてみると、意外にもすぐ近くから自分以外の声が聞こえてくる。


『私も、ちょっと気持ち悪いです……』


 この声は百戸間か。今にも嘔吐しそうな声につられて嘔吐感がこみ上げてきたが喉の奥に押し戻してやった。しかしここでゲロっちまったらぶっちゃけどうなるんだ?

 自分の身体すら見えないのだから、吐瀉物も多分見えはしないだろうが――他の四人の身体も見えなければ位置も曖昧だ。しかし何となく一つの感覚を共有しているような酩酊感がある。もしかして、あの酷い匂いを全員で共有シェアしてしまうのだろうか。


『え?うち、全然大丈夫やけど?』


 谺の言葉は判別し易い。何せイントネーションに個性があるからな。この感じだと、何も言っていないが碧枝や安芸も近くにいるだろうと考えた瞬間に、見えている病室の景色が仄かにぐらついて、その揺らぎの中心から安芸の声が聞こえてくる。


『黙って見てなよ』


 意識が半ば混じり合った俺達は、見合わせる顔など有りはしないが何となく顔を見合わせるイメージを互いに覚えた。


 眼下では病室のベッドの上に横たわっている少女が、ちょうど目を覚ましたところだった。


   ◆


「調子はどうですか?」

「どう、?……はい、大丈夫です」

「そうだよね、どうって言われても分からないよね。ひとまず声が聞けて良かった」


 手術を主立って行った壮年の医師に問われたが、少女は疑問符を言葉で包み隠して答えた。それを察知した医師はカルテにペンを走らせ、心臓の手術が成功したことを告げた。

 しかし大動脈弁に空いた孔はまだ完全に塞がっておらずまだ入院が必要であること、少女の家族に何故かまだ連絡が繋がっていないこと、次の検査の日取りについてなどを、「助かってくれて良かった」「生きていてくれて良かった」という熱の篭った言葉を交えて医師は話した。

 当の本人はどこかぽかんとした表情でそれを聞いていた。

 やがて5分ほどの話が終わり医師は出て行く。少女は病室を眺め、物や装飾に欠けた無味乾燥さに辟易すると、ただ何となく病室から廊下へと出た。


 白い病室の壁に掲げられた案内板で北館の一階にコンビニがあることを知った少女は入院着と上履きのような靴のままで廊下をエレベーターホールへと歩く。

 やがてコンビニにたどり着くと、しかし少女は少しだけ狼狽えて、そして店内をぐるりと回っただけで廊下へと再び出る。

 当たり前だ。彼女は財布を持っていなかった。寧ろ救急搬送されてそのまま入院した彼女は、自分が財布を持っているのか、またスマートフォンの所在についてを知らなかった。


 だから僅かに項垂れて病室へと戻ろうと廊下をてくてくと歩き、エレベーターホールまで戻って来た、その瞬間だった。


「――退いてっ!」

「え?」


 階段から飛び出して来た“白い”少女が、“黒い”少女に激突したのだ。弾かれて尻餅をついた“黒い”少女は痛みと衝撃に顔を顰めたが、リノリウムの床を転がった“白い”少女は振り返ることも無くただ必死に立ち上がっては再び勢いを取り戻して駆けて行く。

 “黒い”少女は顔を上げ、そこで漸くその少女の“白さ”に目を丸くした。少女にもどうしてだか解らない、情動のような熱がこみ上げ、“黒い”少女は“白い”少女を追いかけた。


 そして医院のエントランスを駆け出た少女たちは、駐車場から続く裏手の山道を突き進んだ。麓部分が運動公園になっている整備されたウォーキングコースを上り抜ける中で、日の落ちていく空には夕闇が拡がりつつあった。


 荒く息を切らしながら“黒い”少女はやがてその広場を目撃する。

 少しだけ開けたその広場はウォーキングコースの外側にあり、整備されたコースとは対照的に草が地面を覆っている。その草を踏み抜けた先にはまだ4月に入ったばかりだと言うのにテッポウユリの群れが荘厳に咲き誇り、その揺れる花に囲まれて“白い”少女は佇んでいた。


 空はまるで極彩。

 眼下に広がるビルの形に切り取られた西日の輪郭が東の空に拡がる紺碧の暁闇に抵抗している。たなびく雲の縁はまるで灼けたように色付いている。

 街並みを切り裂いて進む川も。

 軒並み立ち並ぶマンション群も。

 早咲きのテッポウユリの花弁たちも。


 景色の全てが、宵闇と夕焼の狭間で彩られ、光と影はまるでコントラストとエッジの利いた絵の具をぶちまけるライブペインティングさながらに風景を染め上げている。


「ぅゎ」


 そんな光景に、息を切らしていたことすら忘れて見とれていた“黒い”少女は、やおら振り向いた“白い”少女と互いに見詰め合った。


「――すごいねぇ!」


 空と街並みの彩りを指差した“白い”少女は、呆気に取られ思考を停止させた“黒い”少女を他所に、糸が切れた人形のように意識を失って倒れる。

 一秒が永遠に感じられる停滞した感覚スローモーションの中で、“黒い”少女はただただ“美しい”という感想をしか抱けなかった。


 こうして極彩の空の下の“百合の丘”で。

 “黒い”少女・森瀬モリセ芽衣メイと、“白い”少女・四月朔日ワタヌキヱミは邂逅を果たしたのだった。

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