Track.2-5「初任給手取り50万からでどうでしょう?」
常磐美青のことは知っている――というか、この国の魔術士で聞いたことが無いならそいつはモグリだ、っていう程、彼女は有名だ。
扱う魔術の系統は、歴々と紡がれてきた“
その本願は“永遠の確立”――決して失われず、決して損なわれず、決して滅びない、普遍の確定と固着を目的とする魔術、というのが一般的な時術だ。
“
彼女は永遠を手に入れた、と、少なくともそう
その魔女がついさっき俺に行使した魔術は――おそらく、時間の逆行だろう。
俺は魔女の放つ
それなのに、次の瞬間には俺はソファに座っていた。跳び退く前の体勢で、だ。
しかし驚愕なのは、それよりも寧ろこの部屋がすでに彼女が創った“異界”である、という事実だ。
いや――それが事実かどうかはまだ定かではない。何しろ、
異界の範囲は、果たしてどこからどこまでだ?――この応接室内か?彼女の研究室全てか?それとも、西館、あるいは常磐総合医院全域か?
正直俺は異界創造について、全くと言っていいほど知識を持ち合わせていない。彼女ほどの
「すみません、話が逸れてしまいましたね」
女神のような笑みを崩さずに、
「で、質問に対する答えですが――まず、この解析結果のレポート、非常に素晴らしいです。よく、2ミリリットルなんていう分量からこれだけの解析が出来たもんだと、私が魔術解析学の講師だったら優を通り越して神と評価をあげたいくらいです」
【
魔女の言葉に、隣の玉屋は少しだけ無い胸を張りながら、しかし表情は照れ臭そうにしている。
そう――この玉屋望七海こそ、
「解析結果の整合率は勿論のこと、読み手のことをよく考えて練られている構成、文章は感嘆を超えて感動のレベルです。私の手元に置いておきたいくらいです。――初任給手取り50万からでどうでしょう?」
「えっ!?」
この魔女!うちの秘蔵っ子を早くも
いやしかし、解析の仕事なら魔術医の方が格段に多いだろう。それだけ腕を買われている、それだけやり甲斐があるってもんだ。玉屋にしてみれば美味しい話か?
「いえ、あの――今の会社が、気に入ってるので」
横目でちらりと俺を見た後で、玉屋はそう告げてやんわりと断った。よし、今夜の焼肉は店のランクをさらに一段階上げてやろう。
「あはは、勿論分かってましたよ、そう答えるってことは。ちなみに80万でこちら側に来たことも」
「え――?」
「私にとって、あなた方の来訪はこれで35回目です。これでも、あなた方が一番納得のいくような話の流れを、それだけシミュレーションしたんですよ。私にはあなた方がこれからどういう質問をするのかも、それに対して私がどう答えれば、次にどのような質問をするのかも、全てもう知っています」
流石にそれは――本当だとすれば、笑えない話だってのに笑うしかない。
引き攣ったような顔の俺に、魔女はやはり女神のような面持ちで微笑みかける。
「そしてここから私がお答えすることは、できれば芽衣ちゃんには聞いて欲しくない。ちょうど彼女は、本来であれば異界入りしたことによる
俺は森瀬を見た。しかしその時すでに彼女は立ち上がっていた。
「あたしがいない方がいい話なら、いいよ、あたしは。もともと検査の予定だし。じゃあ、東館行ってるね。終わったら連絡して。あたしも、常磐さんに話あるから」
やけにぶっきらぼうな物言いでそれだけを告げると、森瀬は応接室のドアを開けて出て行く。その数秒後に、ドアの向こうから研究室を出て行くドアの音が鳴り、強めの靴音が遠く去っていった。
「四方月さんはおそらく知ってるでしょうけど、あのコ、ちょっと難しいんです」
「はい、昨日で嫌ほど思い知りました。でも――あいつ、意外と素直ですよね」
「そうですね」
その時初めて、女神は心なしか遠くを見るように目を細めて、小さく俯いた。
魔女に何が見えているか分からないが、ひとまず俺は質疑応答のために姿勢を正して魔女の言葉を待つ。
「質問は結構です、分かってますから。先ず、この解析結果についての追加情報――“白い異人”について、ですね」
◆
棟と棟とを移動するためには、いちいち一階まで一度降りないといけない、というのがこの病院の地味に嫌なところだ。
無機質な音を響かせて降下するエレベーターは目的地に到達する直前にその速度を緩め、そのちょっとした浮遊感があたしは苦手だ。
金属製の扉がスライドして開き、あたしは中庭に面する長い渡り廊下をポケットに手を入れて進む。
芝生の上に腰掛け、何をするでも無くただ差し込んでくる陽の光を浴びている老紳士。
高い
規則正しく並んだ石畳の上で車椅子を動かす練習をしている7、8歳くらいの少年。
ベンチに腰掛けカバーのかかった文庫本を読んでいる、入院着を来た大学生くらいの女性。
あたしは人付き合いが苦手だ。おそらく昔はそうじゃなかった筈だけれど、異術が開花してしまってから、途端にそれを普通に出来なくなってしまった。
【
未だに治らない、つい人の目を見続けてしまう癖は――あたしは、何を求めていると言うのだろう。今更、
面倒くさい。あたしは、あたしが一番面倒くさい。
そんなことを考えながら廊下を渡り切ると、待合室の長椅子に見知った顔を見つけて足を止めた。
「あ、先輩っ」
襟元と袖にレースのあしらわれた白い
編み上げ、低い位置で二つの三つ編みを作るやや焼けた黒髪。
眉のラインで切り揃えられた前髪の下で、確りとした睫毛に縁どられた上品さが漂う
通った鼻筋には、縁の細い金属フレームの丸眼鏡が載っており、淡い桃色の唇は艶やかな光沢を備えている。
全身から“お嬢様感”を醸し出しながら、決して自己主張をしない、自分の魅せ方を熟知したその
彼女はあたしを見つけて立ち上がると、静かに駆け寄ってくる。
そうしてあたしの右腕を両腕で抱き締めながら身体をすり寄せては、髪に隠れたあたしの右耳に口元を寄せて、まるで囁くように話しかけるのだ。
「先輩、遅いです。先輩が今日は検査だって言うから、こうして待っていたんですよ?」
何だろう。このコは、いつだって近い。
「何か、四方月さんが常磐さんに話あるって言うから案内してた」
「そうなんですか。それはお疲れ様です。お話は終わったんですか?」
「ううん。何かあたしがいたら邪魔っぽくてさ、じゃあもう検査行っちゃおう、って感じ」
「邪魔なんてヒドイです。でも、心的には、嬉しいです」
うっとりとした表情を見せながら、さらに抱きしめる力を強める心ちゃん。
どうやら彼女も月に一回の定期検診の日らしく、あたしたちは学校の話などをしたりしながら、東館をエレベーターで上っていった。
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