Track.2-3「え、でもオレ青いシチュー食ったことありますよ」

「コバルトさーん、いますー?」


 ノックの後に続く若い声に、カンバスに絵筆を走らせていた小早川コバヤカワ春徒ハルトは、その絵筆と調色板パレットを持ったまま木製の白いドアをスライドさせた。


「――いらっしゃい」

「おざーっす!」


 西館の屋上に建てられたかなりの広さを持つプレハブの画房アトリエは独特の雰囲気を持っている。

 奥に並んだ棚の下部には数十枚もカンバスが差し入れられ、その上にはやたら空の青セルリアンブルー地中海の青ウルトラマリンブルーといった青系の多い絵の具や絵筆に混じり、深い蒼色の鉱石のような塊が並んでいる。

 しかしその手前の作業スペースには油絵具の色彩――何故か青色が多い――が乱雑に付着した白いシートの上に、何枚もの描きかけのカンバス――やはり全体的に青が占める部分が多い――がイーゼルの上に鎮座している。

 辛うじて入口近くの机に無造作に放られた検査着が、春徒が医院の人間であることを示していた。


 そこに勢いよく入ってきた安芸アキアカネは、その整然と雑然が入り混じった混沌とした極彩の空気を思い切り鼻から吸い込んだ。


「絵の具くせぇーっ」


 迎え入れた長身痩躯の優男は、僅かに目元を覆い隠すような少しもっさりとしたソフトマッシュな髪の下の甘めの顔貌マスクを朗らかに崩して笑む。

 

「相変わらず元気だね」


 対する茜は、その名に相応しい茜色の割と長めのアジェンダーボブの髪を揺らして振り向くと、まるで探検に出かけている少年のような表情で白い歯を見せてにかっと笑む。


「今日はどうしたの?森瀬さんと一緒でしょ?」

「あー、そう。森瀬が昨日異界入りしちゃってさ」

「それって昨日の飯田橋の?」

「それっすそれっす。で、その時一緒に異界入りしたのが民間の魔術士で、そいつに森瀬あいつが異術士だってことがバレたらしいんですよね。あ、バレたのが先だっけ?まぁいいや。で、その民間魔術士が常磐さん訪ねてて、森瀬は、一応森瀬の話だからってことで、オレだけハブっすよ。いやまぁ自分で出てきたんですけどね」

「へぇ……」


 ややくぐもった低い声音で相槌を打ちながら、カンバスに向き直った春徒は絵筆を走らせながら茜の言葉をただ聞いている。


「オレは森瀬あいつが午前中、検査して終わりだと思ってたんですよねー」

「聞いてなかったの?」

森瀬あいつ、言い忘れてたみたいで。エレベーターんとこで遭遇したんですけどね。あからさまに森瀬あいつマズった、って顔してたんですよね」


 表情をコロコロと変えながら話す安芸に、春徒は絵筆を止めて振り向きながら嫌味たらしい笑みを零す。


嫉妬ジェラシー?」

「まっさかー、恋人じゃあるまいし」


 問われるも茜は大げさに手を振って笑いながら即座に否定を口にする。それを受けてつまらなさそうな顔を見せた春徒は、再びカンバスに向き直る。


「コバルトさん、また青い絵描いてるの?」


 様々な色合いを見せる青にまみれたカンバスを茜は興味深そうに覗き込む。


「青い色はね、心を落ち着けてくれるんだよ」

「あー、確かに。青い色の食い物って食欲失せますもんね」

「青い食材って普通は無いけどね」

「え、でもオレ青いシチュー食ったことありますよ。味はすっごい普通」


 はは、と笑って、春徒は絵筆を足元に置いてあるペンキの空き缶に差し、その取っ手を持ち上げる。

 壁際の流しシンクの中にペンキ缶と調色板パレットを入れた春徒は手を洗い、その様子を眺めていた茜の表情は期待感でさらに明るくなっていく。


「コバルトさん、絵は終わり?」

「そうだね、今日の作業は」

「じゃあバトりません?」


 少年漫画のような日本語に笑い声を吹き出した春徒は、タオルで手を拭きながら「いいよ」と短く了承を返す。


「やたっ!」


 出入り口に向かって歩く二人は物憂げと快活で正反対に見えるが、しかしとても仲睦まじくも見える。

 スライドドアから屋上へと出る前に、茜は来ていた赤地に黒のチェックが施されたワンピースシャツを脱ぐと、春徒の検査着が放られている机の、椅子の背もたれにシャツを掛ける。

 そうして白地に黄味がかった灰色で「THIS IこれはS T-SHIRT!Tシャツです」と書かれたTシャツに動きやすそうな七分丈のパンツ、足首までを確りと覆う重そうな赤いハイカットシューズという出で立ちとなった茜の、その胸のプリントを見て春徒は再び吹き出す。


「そのTシャツどこで買ったの?」

「あ、これ?じゃあオレに勝ったら教えてあげますよ」

「いやそこまでして知りたくも無いけどさ――で、今日は術あり?なし?」


 彼我に3メートルの距離を置いて対峙する二人は、すでにお互いの得意とする構え――茜は後ろ重心でやや深めの猫足立ちに軽く握った右拳を腰に収め五指を開いた左手を胸の前に突き出し、対する春徒は膝と腰をややたわませただけの自由型フリースタイル――を取った。


「術は――ナシで」

「いいよ」


 一陣の風が二人の間に吹き荒び、誰が合図をするでもなく――茜は駆け出す。


 一足飛びで先ず自身の右前方――春徒の左前方に飛び出した茜は、角度をつけた折り返しの二歩目を大きく左足で踏み出すと、それを軸足として右足による中段廻し蹴りミドルキックを繰り出す。

 それを目で追えていた春徒は腰を落とし足に力を込めながら、ぷらぷらとただ垂らしていた左腕を内から外に旋回させて中段受けを形作る。


 茜の右脛が小早川の左前腕に衝突する、というところで、茜は軸の左足を捻って半歩前進すると同時に、膝から先の蹴りの軌道を大きく跳ね上げさせ――蹴りは中段受けを摺り抜けて相手の頭部を打つ変形上段廻し蹴りブラジリアンハイキックへと変異する。


 しかしそれを見越していた春徒は、軸にした左足を支点に身体を反転させるように――その動きは籠球バスケットボールで言う“ピボット”に似ている――蹴りを放った茜の身体に肉薄すると、折り畳んだ右腕の肘を振り上げるようにして打ち込む“頂肘”を繰り出した。


 顎に食い込む軌道を見せる“頂肘それ”を、繰り出した上段廻し蹴りハイキックの勢いを最早殺せない茜は、咄嗟に左手を差し込んで到達する前の肘を防御ガードすると同時に、回転を半ば終えつつある軸足の爪先に力を入れ、思い切り踏み切った。


 宙に浮いた身体を、肘を塞き止めた左手で押してさらに持ち上げ、廻し蹴りの勢いでもって後ろ向きの蜻蛉とんぼを切った茜は、膝を屈ませて着地すると膝を伸ばして上体を起こす勢いで右の裏拳を下から小早川の顔面に送り込む。


 顎の高さまで振り上げた肘から先――右の前腕を、上から振り下ろす形でその裏拳を切って落とした春徒は、茜の背中側から低く回した左拳で肝臓打ちリバーブローを打つと、返す刀で右の縦拳を茜の顔面に放つ。


 腰をよじる動きだけで食い込む肝臓打ちリバーブローを緩和させた茜は、眼前に飛び込んでくる急迫の拳を、腰と連動させた上体および首の捻りで後方にいなし、突き出された右腕を取って、防御のための捻りを利用した“背負投げ”を放った。


 自ら飛び上がることで中空での体勢を保持した春徒は着地と同時に地を転がり、矢継ぎ早に繰り出された茜の後ろ廻し蹴りローリングソバットを躱し、そしてまた3メートルほど離れた所で立ち上がっては自由型フリースタイルの構えを取る。

 突き出した蹴り足を引き戻して地に着けた茜もまた、猫足立ちに左手を突き出した独特の構えに戻る。


「相変わらず凄いっすね」

「アッキーこそ――流石は空手チャンピオンだよ」

「さんきゅっす」

「ふふ」


 好敵手ライバルという言葉が相応しい笑みを交差させる二人。

 第二の攻防もまた、強く地を蹴り駆け出す茜の先手から幕を開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る