第150話 聖なる泉の伝説
これにはメルメダも見かね、口を挟んだ。
「もう充分でしょう? ルシファーも、バディ子も」
「……さあ? どうかしらね」
しかしバディ子は表情を引き締め、再び少年と相対する。
「さっきと全然違うわよ、この子。……私の闘争本能にビリビリ来てるわ!」
真の格闘家である彼女は直感したらしい。カシュオンの底力を。
少年は俯いたまま弱々しいピースを掲げた。
「……?」
誰もが首を傾げる中、ゾルバはぎょっと顔色を変える。
「まま、まさか! カシュオン様、それは!」
そのピースを裏返し、カシュオンは自ら鼻の穴へと突っ込んだ。人差し指と中指がそれぞれ同時に鼻孔を拡げ、穿り返す。
「あれはダブルホジホジッ!」
よもやの禁じ手を目の当たりにして、ゾルバはただただ驚愕した。
「な、何よ? それ」
「女性と相まみえることで、幼き日のご自身を思い出されたのでしょう。……カシュオン様は昔、ああやっておなごを驚かせるのが大変、お好きだったのでございます」
女の子に鼻水や毛虫をけしかけ、面白がる男児はいる。カシュオンはそのような幼少時代を過ごし、多くのものを失ってしまった。
「そのせいで許婚の候補者にはことごとく逃げられ……最後まで残ったのが、プリプリン嬢なのですじゃ。おお、カシュオン様が純粋無垢であったがために!」
「だったら止めなさいよ、あなたも……」
カシュオンは念入りに鼻を穿り、ねばっと鼻水を絡め取る。
「へへへ……」
無邪気な薄ら笑いがバディ子をも戦慄させた。
「そ、そんなことで私が逃げ出すとでも? 次こそリングに沈めてあげるわ!」
バディ子が一気に距離を詰め、少年に怒涛のラッシュを浴びせる。
だが一発も当たらなかった。カシュオンの不規則でいて変幻自在の動きを捉えきれず、すべての拳打が空を切る。
ルシファーは感心気味に少年のフットワークを眺めていた。
「驚いたね。戦いに夢中になるあまり、彼は一種のトランスに陥ったんだ」
依然としてカシュオンに意識はない。にもかかわらず、バディ子の猛攻を見切り、ついには間合いの内側へと入り込む。
不意に後ろを取られ、バディ子はぎくりとした。
「なっ? いつの間に……」
カシュオンは両手の人差し指と中指を揃え、目をぎらつかせる。
「そ、それだけは! なりませんぞ、カシュオン様!」
「えええぇえーいっ!」
禁断の技が、あろうことか女性に炸裂した。
「~~~ッ!」
×××に無慈悲な直撃を受け、女戦士の美貌も歪む。
カン・ツォー。それもまた幼少期のカシュオンが好んだ荒業のひとつだった。バディ子はくずおれ、リングに沈む。
マッスルシファーが高らかに叫んだ。
「勝者、カシュオン!」
ゾルバは泣いて喜び、メルメダは口角を引き攣らせる。
「禁じ手の封印を破り、ここ一番で逆転なさるとは! さすがでございますぞぉ~! このゾルバ、今日ほどカシュオン様のご成長に感じ入ったことは……ずびびっ」
「……セリアス団に鞍替えしようかしらね」
マッスルシファーに右手を掴みあげられ、ようやくカシュオンは我を取り戻した。
「あ、あれ? 僕は一体……?」
「君が勝ったのですよ」
リングには自分ではなくバディ子が倒れ、ぴくぴくとのたうっている。
際どかったものの、とうとう最後の試練も突破できたらしい。これまでの戦いを振り返りながら、カシュオンはマッスルシファーを見上げた。
「じゃあ、僕に『男杯』ってやつをくれるんですね」
「もちろんです。さあ、これで泉の水をお飲みください」
カシュオンの手に聖なる男杯が委ねられる。
(やったぞぉ! これで僕も憧れの長身に……!)
その杯を少しだけ泉に浸し、カシュオンはプロテインとやらを掬った。期待を胸に口をつけ、小さな喉へと流し込む。
そのはずが、さしたる変化は感じられなかった。百三十センチの背も伸びない。
「……あれ? 何も起こらないぞ?」
マッスルシファーが愉快そうに破顔する。
「ハッハッハッハ! それはそうでしょう。これはただの水なのですから」
思いもしなかった事実を突きつけられ、少年は目を点にした。
「エ……エエエ~ッ?」
暗黒騎士チャーリーが寡黙な口を開く。
「やはり気付いてなかったか。このたびの男杯の試練は『修行』でもあったのだ。カシュオン、お前が強くなるためのな」
メルメダはやれやれと肩を竦めた。
「そんなこったろうと思ってたわ。おかげで秘境もたくさんまわれたし」
「なんと……わしらはこやつに一杯食わされた、と?」
聖なるプロテインの泉はただの水。苦難の末に手に入れた男杯も、単なる器。
しかしカシュオン団は試練のために数々の秘境を突破し、力をつけた。男杯などに頼らずとも、劇的なパワーアップを果たしたのだ。
それでもカシュオンは悲哀に暮れる。
「そんなあ~っ!」
憧れの高身長よ、さようなら。大きくなった身体で愛する女性(イーニア)を抱き締めることも、夢(淫夢)に終わる。
サラス=バディ子が目覚め、カシュオンへと歩み寄った。
「あっ、バディ子さん! もう平気なんですか? 僕、よく憶えてなくて……」
「ええ。ナイスファイトだったわよ、あなた」
その色っぽい唇が少年の頬にちゅっと口付けする。
「えええっ? あ、あの……?」
「これはご褒美」
カン・ツォーで勝負を決したにしては、爽やかな結末となった。
暗黒騎士チャーリーがマントを翻す。
「さて……グランツへ戻るか」
「そうねぇ。お腹も空いちゃったわ」
顔を赤らめながら、カシュオンも聖なるプロテインの泉に背を向けた。
「うん。帰ろう!」
「このゾルバ、どこまでもお供致しますぞ」
カシュオン団は試練を終え、戦いの場をあとにする。
☆
その帰り道、急にメルメダとチャーリーがペースをあげた。
「さ、先に行くわよ? カシュオン」
「私も失礼する。契約外のことはしない主義でな」
カシュオンはゾルバとともに首を傾げる。
「……どうしたんだろ?」
「はて。腹でも壊したんでしょーかのぉ……ぬおおっ!」
ところが不意に足元の感覚がなくなった。
「うわあああ~っ!」
カシュオンとゾルバは真っ逆さまに落ち、亜空間へと迷い込む。
「……ここは?」
亜空間はおぞましい気配で満たされていた。怒り、嫉み、僻み――どす黒い感情が空気を汚染し、暗黒の瘴気を漂わせる。
「許さん……お前だけは……」
不気味な声が響き渡った。
突如、暗黒の最中から大男の集団が溢れるように飛び出してくる。彼らは奇妙なフォーメーションを組み、カシュオンたちの前に立ちはだかった。
ゾルバが慄然として、老いた顔を強張らせる。
「これはもしや、かのバーバリアン族の!」
「いかにも! バーバリアン式決戦闘法『毛星乱舞』、とくと見よッ!」
フォーメーションの真っ只中で小さな爆発が連続した。誰かが打ちあげられ、カシュオンの前へと落ちてくる。
「あ、あなたは……ルシファー?」
「ぐふっ! 逃げなさい、カシュオン……ま、魔人がめざ、め……」
マッスルシファーに続き、オシリスやバッカスも降ってきた。
「そんな! ど、どうして」
「男杯の試練で会うた男ばかりですぞ!」
今まさに毛星乱舞によってひとりずつ処刑されているのだ。オフロディーテも血祭りにあげられたうえで、無造作に投げ捨てられてくる。
カシュオンは怒号を張りあげた。
「やめろ! なんのつもりでみんなを傷つけるんだ!」
「フッフッフ……オレに『崇児孔の切気予』は通用せんぞ?」
毛星乱舞の頂上にひとりの巨漢が立つ。
「なぜなら、オレは善も悪も超越した男……いいや、『魔人』なのだからな」
亜空間に雄叫びが轟いた。
「カシュオン! 貴様はあろうことか、オレのバディ子からキスを受けた! バディ子の唇、吐息、囁き……それが貴様の頬に残っている! なればこそ!」
獰猛な魔人が大いなる翼を広げ、下腹の剛毛を震わせる。
「そんなものは……このオレのギャランドゥが上書きするッ!」
その威光を浴びせられただけで、カシュオンもゾルバも残りHPが1になった。
「カシュオン様! や、やつは……やつは!」
「うっうわ、わ――うわあああああッ!」
マッスルを越えて終末が近づく。
その様子を遥か遠方の水晶で眺めている、数人の実力者がいた。
「……カシュオンがやられたか」
「所詮、やつはわれわれ冒険者の中でも、最弱……」
「やつが『主人公の説教』を使いだした時は、焦ったが」
「次の主人公となるのは、やつではない」
その言葉が一同をざわつかせる。
「ラノベ主人公……フフフ、なんと甘美な響き!」
「嫁は三人くらいで始めるのが定石よ」
城塞都市グランツにて暗躍する秘密結社、その名をHIMOTE。彼らは今なお野望に燃え、同志を増やしながらも、互いに監視の目を光らせていた。
「カシュオンが脱落したのは大きいぞ。あれでもショタ属性持ちだからな」
「セリアスのロリコン計画も潰えた今、われわれにもチャンスはある」
恐るべき陰謀が渦巻く。
☆
三日後――傷は癒えたものの、カシュオンはエドモンド邸の一室で寝込んでいた。
「はあ……。どうしてあんなことに……」
結局、男杯の試練など真っ赤な嘘で、普通の水を飲んだだけ。コンプレックスの身長は一センチたりとも伸びず、自暴自棄にもなる。
今日もメルメダが見舞いにやってきた。
「いい加減、起きなさいったら。あなたの元気の源を連れてきてあげたから」
「元気のぉ~? メルメダさんに僕の何がわかるって……ヒャアアッ!」
カシュオンはふてくされるが、イーニアの登場に度肝を抜かれる。
「こんにちは、カシュオン。具合はどうですか?」
「だっ、だだ……大丈夫ですから!」
彼女と顔を会わせるに会わせられず、少年は布団の中へ逃げ込んだ。次に会った時こそ告白を、と意気込んでいただけに心が挫けそうになる。
「イーニアさん、僕は……情けない男なんです。今日のところは帰ってください。僕が男としての自信と尊厳を取り戻すまで……あなたに会うわけにはいかないんです」
イーニアはきょとんとした。
「あのぉ、何を言ってるんですか? カシュオンは……」
「……ったく、しょうがないわね。イーニア、よく聞きなさい?」
メルメダが彼女に何やらひそひそと耳打ちする。
「はあ、わかりました。やってみます」
背中と布団の向こうでイーニアが近づいてくるのを感じた。それでもカシュオンは頑なに布団から顔を出さず、小さくなる。
「こっ来ないでください、イーニアさん!」
「えぇと……そう言わずに出てきてください」
不意に甘い囁きが零れ落ちた。
「どんなことだって、お姉さんが教えてあげますから」
少年は衝撃に打たれる。
「――ッ!」
お姉さんが教えてあげる。それは自分が年下でなければ成立しない、素敵な恋の駆け引きだった。たった一言がカシュオンの男心を刺激し、あっさりと立ちなおらせる。
カシュオンは布団を払いのけ、イーニアを見上げた。
「イーニアさん、僕、これからも頑張ります!」
「元気が出たみたいですね。うふふ」
柔らかい笑みが少年の心を救ってくれる。
(やっぱりイーニアさんだよ。清楚で優しくって……悪女っぽいメルメダさんやムキムキのバディ子さんとは、何もかもが違うんだもん。うんうん!)
だが、この時の彼はまだ知らなかった。グランツにあの許婚が来たことを――。
「そうだ! 今夜は僕たちと夕食をご一緒しませんか?」
「ごめんなさい。お友達と約束があるんです」
アラハムキの剛毛を散々擦りつけられたあとは、プリプリンのスネ毛で。
少年が毛根恐怖症になる日は近い。
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