真なる魔王の誕生(2)

「――ありえない」


 ありえない。

 ありえないありえないありえない!


 ありえないなんて、絶対にありえない!!


「真逆の方法なんてあるはずがないわ! 私以外が傍にいられるわけがない!」


 アンリは力に苦しんでいて、いつも本気の力を解放したがっていた。

 我慢なんてし続けられるはずがない。耐え続ける選択なんて間違っている。

 特別なオレリア以外は、傍にいてはいけないのに、どうしてわかってくれないの!!


「アンリを救えるのは私だけなのよ! そうじゃなくちゃおかしいじゃない!! だって――」


 私がヒロインなんだから!!


 その悲鳴じみた声は、どこにも届かなかった。


 〇


「――秘宝は回収させていただきます。貴重な品ですので」


 聖女の入った球体を懐にしまい、魔族はアンリに一礼した。


「では、これにて」


 それが別れの挨拶だった。

 止める間もなく、魔族の体は煙のように揺れ、跡形もなく消えていく。その影も、形も、聖女の声さえも。


 残されたのは静寂だけだ。

 まるで、すべてが幻だったかのように。


「……オレリア様」


 言葉にならない感情を込めて、私は彼女の名前を呟いた。

 アデライトを貶し、アンリを苦しめた彼女を、好意的に思ってはいなかった。

 それでも――。


 彼女もきっと、本気でアンリを好きだったのだ。




 外からは、静寂を破る大きな勝どきの声がする。

 魔族は去り、決着がついたのだ。

 声に目を向ければ、いつの間にか空が白み始めている。

 昇りはじめた朝日の眩しさに、私は目を細めた。


 〇


 見慣れた離宮の兵たちが駆けつけたのは、それからすぐのことだった。

 彼らはアンリと私を見て歓声を上げ、次いで立ち尽くす父に気が付いた。

 陛下の手紙から、父が今回の件に絡んでいることはすでに知れ渡っている。

 兵たちは迷うことなく父を捕まえ、連行しようとした。


「――なぜだ」


 長く沈黙していた父が声を上げたのは、そのときだった。


「どうしてこうなる! 認めん! 認めんぞ!!」


 兵たちに拘束されたまま、父は身をよじって叫んだ。

 必死に暴れるけれど、兵たちの力は強い。振り払えないままに、父は首を振り続ける。


「私を罪人扱いするのか! 貴様のせいで私はこうなってしまったのに! 貴様のせいで、引き返せなくなってしまったのに!!」


 父は髪を振り乱し、喚き、血走った眼でアンリを睨みつける。

 それは、恐怖として記憶に焼き付く父の姿とは――まるで違っていた。


「私が罪人なら貴様も罪人だ! 私の罪は貴様の罪だ! 貴様が私を止めなかったから――」

「……いいえ」


 私の声に、父ははっと顔を上げる。

 ずっと父に従い、怯え、逃げ続けていた私を、彼は信じられないような目で見つめた。

 私もまた、父を見つめ返す。目は逸らさない。


「お父様の罪はお父様のものです。他の誰のせいでもない、お父様自身がしたことです」

「なんだと……」

「罪を認め、罰を受け、贖ってください。お父様が、自分の意思でしたことを!」


 父の目が驚きに見開かれる。

 その表情は、しかしすぐに怒りに塗り替えられた。


「私が悪いというのか……! お前だってあいつに苦しめられたくせに!」


 顔を赤くし、鼻の頭にしわを寄せ、父は吠えるように口を開ける。

 それはどこか、幼子の癇癪にも似ていた。


 ――お父様。


 ずっと父が怖かった。

 彼の罪に、彼自身に怯えていた。


 ――でも、今は。


 過ちを正されることなく、言い訳を繰り返し、誰かに責任を押し付ける父のことが……今は少し、哀れだった。


「あいつが悪いのだ! あいつこそ大罪人だ! 善人ぶった顔をしたって、中身はまるで違う!」


 暴れる父にしびれを切らし、兵が強引に父を歩かせる。

 それでもなお、父は恨み言を吐き続けた。


「あいつは魔王に選ばれるべくして選ばれたのだ! 今に人間の敵になるぞ! 魔王の心を受け入れながら、あいつが人間のままでいられるものか――――」


 兵に引きずられ、父の声が遠ざかり、消えていく。


 近いうちに父は裁かれ、罪が明らかになることだろう。

 私は正しく罪人の娘となるけれど――それでも、どこかほっとしていた。

 贖うことを許されず、囚われ続けた罪から、ようやく一歩踏み出せるのだ。

 父も、私も――きっと、アンリも。




 父が去っても、大広間に静けさは戻らなかった。

 外からは勝利を祝福する歓声が響いている。

 先陣を切り、単身で城に乗り込んだ勇者を称える声に、私はアンリを振り返った。


 人々がアンリを呼んでいる。顔を見せに行かないと。


「……ミシェル、俺は」


 だけど、彼の表情は固かった。

 影の落ちた瞳には、不安が覗いている。


「俺はここにいて、いいんだろうか」


 無数の完成を受けても、アンリは立ち尽くしたまま動かない。

 日の届かない暗がりの中で、彼は静かに目を伏せた。


「伯爵の言う通りだ。君の言葉を聞いたとき、俺は自分の罪ごと魔王を受け入れてしまった。……こうなった以上、人間のままではいられない。もしかしたら、いずれ本当に――」


 人間の敵になるのかもしれない。

 魔王の心はアンリの思考を侵食する。いずれ優しさが消え、酷薄な魔族そのものになるのかもしれない。


 言葉を止め、口をつぐむ彼の不安を、私は否定できなかった。

 アンリの中に魔王の心がある限り、その可能性は捨てきれない。


 でも、私はやっぱり迷わなかった。


「大丈夫」


 アンリに近寄ると、私は迷う彼の手を掴む。

 それから、暗い闇から連れ出すように、その手を強く引っ張った。


「魔王だから、人間だからなんて関係ないの」


 魔王が怖くないわけではない。

 でも、人間だから優しさを信じているわけでもない。


 私が傍にいると決めたのは、『アンリ』だからだ。

『アンリ』のままでいると言ってくれた、その言葉を信じている。

 迷い、悩み、揺れる彼だからこそ、私は何度でも手を引いて、光の下に連れていく。


 今だって。


「行こう。みんな、アンリあなたを待っているんだから」


 外からは歓声が続いている。

 アンリはためらいながら、ゆっくりと足を踏み出した。


 暗がりを抜け、光を受けるアンリの瞳はきれいだ。

 透き通るような青は、バルコニーから見える、空の色によく似ていた。

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