魔王の心(2)

「あなたそのものが変わるわけではないのですね」


 少しだけほっとした様子で、アデライト様は息を吐く。


「今こうして話していても、私の知るアンリと変わらないわ。……でも、まったく影響を受けないわけではないのでしょう?」

「……はい」


 わずかなためらいのあとで、アンリはそう答えた。

 それから言葉を迷うように一度口を閉ざし、視線をさまよわせる。


「感覚的なことなので説明がしにくいですが……魔王の心があっても、俺の意志や考え方が消えるわけではありません。魔王の本体は明確な意志を持つ存在ではなく、ただ少し――思考を引っ張るだけなんです」

「引っ張る?」


 問い返すフロランス様に、アンリは頷いた。


「魔王らしい思考……と言うのでしょうか。魔物を恐れなくなったり、魔族に対して親近感を抱いたり。あとは――」


 言いかけて、アンリは慌てて自分の口元を押さえる。

 失言をしそうになったのだと、傍から見てもわかった。


「あとは、なんですか」

「…………」

「言いなさい、アンリ」


 沈黙を許さず、フロランス様は強い視線をアンリに向けた。

 アンリは口に手を当てたまま、それでも答えようとしない。

 互いに険しい顔を突き合わせ、少しの気まずい沈黙が流れた。


「…………です」


 先に視線を逸らしたのは、アンリの方だった。

 彼は一度、部屋にいる全員を見回してから、もう一度告げる。


「楽しいんです」


 ――楽しい……?


 その言葉は、今のアンリの様子とはまるで似合わない。

 眉をひそめ、顔をしかめ、感情を抑えるかのように、彼は押し殺した声で続ける。


「笑ってしまうんです。抑えよう、抑えようと思うのに――あまり目障りなことをされると、かえっておかしくて」


 口元を隠す手は震えていた。

 言いたくない、と態度が伝えている。


 なのに、一度吐き出された言葉は戻らない。


「ああ、あれを踏みつぶしたら、気持ちがいいだろう、と。鬱陶しい虫でも潰すような気分です。どうせなら、羽をもいでみようか。足をもいでしまおうか。そうしたら、どんな声で鳴くんだろう。面倒ならいっそ、全部まとめて潰してしまおうか――――」


 アンリの空いた手が、虫を潰すように軽く握られる。

 王宮で聞いたアンリの笑い声を思い出し、私は耳をふさぎたくなった。


 コンラート様も、アデライトも、フロランス様も絶句している。

 それでもアンリは、歌うように語り続ける。


「傷つけるのも、虐げるのも、楽しいんです。誰かの悲鳴が、心地良いんです。自らの心のまま、意のまま、嘆きの声など聞く気もありません。――魔王の心を得て、俺の中で変わったのはこれだけです。それだけで、人は魔王に変わることができる」


 アンリはそこまで言い切ると、周りの視線から逃れるようにうつむいた。

 きっと、自分の今の顔を見られたくないのだろう。


 口元を隠し、視線を落とす彼の姿を、私はそれでも見つめていた。

 ……きっと、目を離すことができなかったのだと思う。


「怒ると攻撃的になるからか、特に感情が引っ張られます。今はまだ、魔王になることを拒んでいられますが――もし、一度でも完全に魔王の心を受け入れれば、きっと戻ることはできません」


 それが、アンリが『器』から本当の魔王になるときだ。

 魔族はそれを望み、陛下やオレリア様を利用してアンリの怒りを呼び覚まそうとしたのだ。

 そして――。


「アンリの怒り、ね。要するに今回のことで、魔族は一番いい方法を見つけてしまったということね」


 フロランス様の視線が私に向かう。

 鋭い視線にぎくりとするけれど、想像はついていた。


「私が……アンリ様が魔王にならずにいられる『枷』なんですね」


 ええ、とフロランス様は頷く。

 彼女が告げるのは、嘘やごまかしのない、残酷なまでの事実だ。


「あなたはアンリが力を抑えたがる原因で、アンリの怒りを確実に買う存在。魔族があなたを放っておく理由はないわ。――マルティナの正体が知られるのも時間の問題。次は、確実に狙いに来るはずよ」


 ぞっと背筋に寒気が走る。

 強張る私を一瞥すると、フロランス様はパチンと扇子を閉じた。


「逆に言えば、正体が知られるまではまだ時間があるということよ。相手が動き出す前に、こちらも迎え撃つ準備ができるわ」

「…………え」


 思わず私はつぶやいていた。

 絶望的な状況、重苦しい空気など、フロランス様はものともしない。

 険しい表情をしているものの、彼女の瞳に浮かぶのは、悲嘆や諦念とは明らかに違う


「相手の狙いはわかっているもの。これならいくらでもやりようがあるわ。前の魔王が生きていたころより、状況はずっとましよ。魔王は勇者でなければ倒せないけれど、ただの魔族が相手なら兵力で圧し潰せるものね」


 フロランス様の声は力強い。

 不安なんて吹き飛ばすような目で部屋の中の人たちを見回すと、彼女は凛と胸を張った。


「わたくしがいて、なにを不安に思う必要があって? あなたたちの力を借りるまでもないわ。――それがわかったなら、あなたたちはもう下がりなさい。そんな暗い顔を見ていては、わたくしの気も滅入ってしまうでしょう」

「つまり、年寄りに任せて休んでろってことだ。ははは、姉上は相変わらず言葉足らずでいらっしゃる!」

「コンラート、年寄りのあなたに休みはないわ。ソレイユの兵を借りるから、ひとっ走り行ってきなさい!」


 余計なことを言ったコンラート様を、フロランス様がぎろりと睨む。

 だけどコンラート様は気にした様子もなく、「人使いが荒いなあ!」とまた陽気に笑った。


 重苦しい緊張感が薄れていく。

 ようやく呼吸ができたような心地で、私はほっと息を吐いた。




 だけど――。


 私は気が付いていた。

 和らぎ始めた空気の中で、アンリだけがうつむいたまま、口元を手で押さえ続けていたことを。

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