敗走(4)
路地裏に待機させた馬に乗り込むと、私たちはそのまま全速力で王都から逃げ出した。
馬車の用意はもちろんないので、足を痛めた私が乗るのは、アンリと同じ馬だ。
抱きかかえられるように馬に乗せられ、無力感に唇を噛みながら王都を飛び出したあと――。
王都の外で、私たちは護衛兵たちと合流した。
場所は、街道から少し外れた森の中だ。
魔族やグロワール兵もここまでは追ってこないらしい。
剣を収めている護衛兵たちの姿に、ようやく息を吐ける――と、そう思ったのも束の間だった。
「いいか、わしを絶対に守れ! わかっているな? 命に代えてもだ!!」
聞こえたのは、怯え震えた声だった。
見れば、護衛兵たちの背後に隠れ、へたり込んだまま叫ぶ陛下の姿がある。
「わかったら剣を抜け! なにを気を抜いておる! いつ魔族が責めてくるかわからんのだぞ!!」
唾を飛ばして叫ぶ陛下に、護衛兵たちもどこかうんざりした様子だった。
陛下の声に応じて剣を抜く者はなく、持て余したように護衛兵同士で視線を交わし合っている。
「助けたはいいけど、ずっとあの調子なんだよねえ。護衛を一人も離したがらないから参ったよ」
「……だから叔父上が、俺たちを迎えに来たんですね」
馬上でコンラート様と言葉を交わしながら、アンリは納得半分、苦々しさ半分に息を吐く。
陛下は未だ声を枯らして叫び続け、神経質そうにきょろきょろと周囲を窺っていた。
「そなたらの命よりも、わしの命の方が重いのだぞ! わしのために死ねることを光栄に思え――ひいっ! で、出た! 出たああああ!!??」
その視線がアンリに気が付いたとき、陛下は甲高い悲鳴を上げた。
アンリの姿によほど驚いたのか、尻もちをつきながら後ずさる。
どうやら腰が抜けているようだ。
「な、なにをしに来た!! わしはグロワール国王だぞ! も、もしわしに手を出せば、護衛の兵どもが――どうした、なぜ剣を抜かん! あれの姿が見えんのか!!」
甲高い陛下の声に、しかし護衛兵たちは振り向きもしない。
剣を抜くどころか、アンリに向けて敬礼する兵たちに、陛下は苛立ったようだ。
「なにをしている! あれは魔王だぞ! わしの命令が聞け! とっとと、あの化け物をころ――」
「そこまで」
コンラート様は馬から飛び降りると、喚く陛下の肩を掴む。
驚きに目を見開く陛下に、彼が向けたのは笑みだった。
いつもの陽気な笑みではない。
フロランス様によく似た――底冷えのする、少しも笑っていない笑顔だ。
「私の甥を相手に、少々口が過ぎますよ、グロワール国王」
「ひ――――」
陛下は引きつり、悲鳴を口にする。
だけどその声は、コンラート様の手が陛下の首を軽く叩いた瞬間、響き渡ることなく掻き消えた。
気を失い、がくりとうなだれた陛下を一瞥すると、コンラート様はアンリに振り返った。
呆然とするこちらの反応などものともせず、彼は今度こそ陽気な笑みを見せた。
「まったくうるさい御仁だ。荷物の方が大人しいぶん、まだ扱いやすいな」
はははは、と快活な笑い声をあげるコンラート様に、私とアンリは顔を見合わせた。
コンラート様、すごく怒っていらっしゃる……。
――でも、アンリのために怒ってくださったんだわ。
護衛兵たちも、アデライトも、コンラート様も、王宮での一件のあともアンリへの接し方が変わらない。
護衛兵たちはアンリを敬い、アデライトは兄として慕い、コンラート様は甥として気にかけてくださっている。
その事実に、私はなによりほっとしていた。
アンリの抱えているものは大きい。
それでいて、とんでもないものだ。
だけどもしかしたら、このまま変わらずにいられるのかもしれない――。
「――もっとも」
そう期待してしまう私に、コンラート様の声が釘を刺す。
「陛下ほどではないが、私もアンリに言いたいことがないわけじゃない」
わかっているな、と言うように、コンラート様は夜色の瞳でアンリを貫いた。
○
私の足の手当てもかねて、少しの休憩を取ることになった森の中。
医療に通じた護衛兵に応急処置をしてもらい、息を吐く私の横で、アンリは険しい表情をしていた。
アンリを挟んで、私と反対側に腰を下ろすのはコンラート様だ。
アデライトの姿はない。『ミシェル君の足を冷やすために、冷たい水を汲んできてほしいなあ』なんて言って、コンラート様が追い払ってしまったのだ。
――仮にも王女なのに……真っ先に突っ走るなんて……。
私個人としては嬉しいけれど、侍女としては複雑な気分だ。
もう少し落ち着いてほしい――なんて思うのは、甲冑を着て付いてきた時点で、今さらなのかもしれない。
「――アンリ」
思わずついたため息を、コンラート様の静かな声がかき消す。
護衛兵にも聞こえないように声を落とす彼は、普段からは想像もつかないほど真剣な顔をしていた。
「君、わかっていただろう」
淡々としたその言葉に、私は瞬いた。
――……わかっていた?
「こうなるとわかっていて、ミシェル君を連れて行っただろう」
アンリは無言だった。
コンラート様も私も見ないまま、視線を伏せている。
それがきっと肯定の意味であることは、私にも察せられた。
「様子がおかしいとはずっと思っていた。王都に近づくほどピリピリしていたし――なにより、どうして素直に城へ入った? アンリくらい力があれば、その前に逃げることもできただろう」
あ、と私は口の中で声を上げた。
護衛兵たちもアンリも、グロワール兵に素手でも立ち向かえるくらい強い。
いくら剣を向けられたからと言って、素直に武器を捨てたのは、思えば無抵抗すぎた。
門に立つグロワール兵たちの様子から、異常は私にも察せられた。
あのときの私は、オレリア様が魔王だと思っていたけど――アンリは違うとわかっていたはずだ。
「……城に入るまで、確証があったわけではありません」
私とコンラート様の視線を受けて、アンリは重たげに口を開いた。
うつむいたままの顔に影が落ちる。
青い瞳が、今はまた暗い色をしていた。
「これが本当に婚約披露宴なら、止めるにはミシェルの力が必要です。俺に剣を向けることくらい、父上やオレリアならやりかねません」
「でも、『本当は婚約披露宴ではない』とも考えていただろう」
コンラート様の声は、低く、落ち着いている。
穏やかで柔らかい口調に、だけど静かな非難が含まれていることは、はたから聞いていても感じ取れた。
「危険を予想しておきながら、どうしてミシェル君を逃がさなかった。彼女は私たちとは違うんだぞ」
「……それは」
アンリはゆっくりと瞬くと、隣に座る私を見た。
私を見据える瞳の陰に、思わずぎくりとする。
底の見えない目の色は――まるで、私を引きずり込もうとしているように思えた。
「一緒にいて欲しかったんです」
瞳とは裏腹に、声はどこか乞うようだった。
表情も、声も、言葉も――今のアンリは、すべてが奇妙にちぐはぐだ。
「俺が魔王にならないために、ミシェルに傍にいて欲しかったんです。ミシェルがいれば、俺は魔王に取り込まれない。傷つけないように自分を抑えることができるから」
「……自制心のためってことか。意志の力で魔王にならずにいられる――というのなら、たしかに君には、ミシェル君が必要だろう。……けどね」
そう言うと、コンラート様はアンリの肩を掴んだ。
無理やり自分に顔を向けさせると、彼は逃げるアンリと目を合わせ、短くこう言った。
「本当にそれだけか?」
アンリは口を開かない。
コンラート様は目を逸らさず、アンリもコンラート様を見据えたまま。
重く息苦しい沈黙は、水を汲みに行ったアデライトが戻ってくるまで消えることはなかった。
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