第4話 甘いセリフを言いながら――

 新島朋子は現在、町田市で暮らしている。この町田市は東京都でありながら、神奈川県に食い込むように存在しているため、三つの政令指定都市と隣接している。そのうちの一つが事件のあった相模原市だ。

 向井の自宅は京王相模原線の終着である橋本駅付近にある。新島の自宅はその一つ手前の多摩境駅が最寄りだ。県境を挟んではいるが二人の自宅は近く、車で十分も走れば行ける距離だ。だが、警視庁と神奈川県警にとっては近くて遠い。

 その新島とは多摩境駅から少し離れたところにあるコーヒーショップで待ち合わせをした。新興住宅産業地であるこの地区は道路も広く、街全体が機能美に包まれている。テラスでのんびりしていると、ここが東京であることを忘れそうになるほど穏やかだ。

 有吾と真波がコーヒーを半分ほど飲んだところで、新島が姿を現した。澄ましていると美人だが表情が硬く、性格のキツさがそのまま顔に表れているような、そんな印象を抱いた。

「お忙しいところ、お時間をいただきましてすみません」

 真波が定形句を述べながらぺこりとお辞儀をしたが、新島はしかめっ面で足を組み、視線を合わせようとはしなかった。

「仕事が詰まっているから、早く済ませてくれる」

 表情に比例して口調も厳しい。真波は気まずそうに身を縮めたが、有吾は平気な顔で質問を始めていった。

「何の仕事をやっているんだ」

「ウエブデザイナーよ」

「大学でデザインを専攻していたから、そのスキルを生かしたってことか。それにしても随分と疲れが溜まっているようだが、仕事量が多いのか」

 確かに新島は目の下に隈を作り、肌の張りも弱い。徹夜続きなのか、瞳も充血している。

「画面を見続けていると疲れるのよ。肩も凝るし、ストレスも溜まるわ」

「それでも辞めないということは、給料が良いのか」

「それほどでもないけれど、在宅で出来るから選んでいるだけ」

「時間の融通が利くと、ストーキングしやすいもんな」

 遠慮なく核心に触れると、新島は目尻を鋭利な角度につり上げ、有吾を睨んだ。

「ずっとしてないわよ! 失礼なことを言わないでくれる」

 苛立たしげにテーブルを指先でトントンと叩き始め、姿勢を何度も動かした。さらにその目は真っ直ぐ有吾に向けられている。

「嘘をついている……」

 真波は思わず呟いてしまった。新島から鬼の形相を向けられ、慌ててその口を閉じた。

「他人を嘘つき呼ばわりするからには、証拠があるんでしょうね!」

「いや、それは……」

 縋るような目で有吾を見ると、彼が代わりに続けた。

「向井が殺された夜、どこにいた」

「だから自宅で寝ていたわよ。他の刑事に何度もそう答えたでしょ」

「その前日の夜はどうしていた」

「寝ているって。深夜に起きている方が珍しいでしょうが」

「時間の融通を重要視している割には、随分と規則正しい生活をしているじゃねえか」

「それは……出来るだけ生活リズムを崩さないように心がけているだけよ」

 急にトーンが下がった。有吾は遠慮なく質問を続けて行く。

「だったら直近で深夜まで起きていた日はいつだよ」

「そんなことわからないわよ」

「在宅で仕事をしているのなら、スマホでスケジューリングしているんだろ。確認すればすぐにわかるはずだ」

 新島は舌打ちをしてから、面倒くさそうにバッグからスマホを取り出して暗証番号を打ち込んだ。有吾は素早くそれに手を伸ばす。

「良いスマホだな、ちょっと見せろ」

「勝手に取らないでよ!」

 新島が慌てて取り返そうとするが、有吾はそれをかわして画面を見た。そこにはモデルのようにスマートな青年が写っている。

「壁紙にイケメンが写っているじゃねえか。これはタレントか?」

 顔面蒼白になっている新島を牽制しながら、有吾は画面を真波に見せた。

「これ、向井ですよ。しかも本人は撮られたことに気づいてないような、自然な立ち姿ですけど……もしかして隠し撮りじゃないですか?」

「お前が撮ったのか?」

 画面を見せつけながら有吾が訊ねると、新島は顔を背けながらも頷いた。

「け、警告を受ける前に撮ったものよ。文句ないでしょうが」

「二度目の警告を受けたのはいつだ」

「半年前よ。それから彼には近づいていないのだから、問題ないはずでしょ」

 向き直った新島の眼光は鋭く、眼力で相手をねじ伏せようという気迫があった。だが、有吾には通用しない。

「すぐにバレる嘘をつくなよ」

「だから証拠もないくせに嘘つき呼ばわりしないでくれる!」

「物的証拠なら有るだろ、この画像に」

「えっ」

 呆けた顔を見せた新島を横目に、真波が再度スマホを確認した。

「どこにあるんですか? イケメンしか写っていませんけど」

「向井ばかり見ていないで、背景にも目を向けろよ」

「そう言われても、塀と自動販売機くらいしか写っていないですよ」

「その自販機をよく見ろって」

「どこにでもあるジュースの販売機にしか見えませんけど……あっ、博士が好きなマジカルソーダのポスターも張られていますよ」

「そういうことだよ」

「どういうことですか?」

 首を傾げる真波に、有吾は思わず声を荒げた。

「本当に鈍い奴だな! マジカルソーダの発売日はいつだよ」

「二週間くらい前でしたね……あっ!これは少なくとも二週間以内に撮られた写真ですよ」

「やっとわかったか、このバカタレが」

 ほれ、と言いながら有吾がスマホを差し出すと、新島は自分のスマホながら奪うようにしてそれを手中に収めた。その瞳は警戒心と怯えが綯い交ぜになって揺れている。

「お前は警告を受けてもストーキングを止めていなかった。向井が殺害された夜も張り付いていたんじゃないのか」

「わ、私は自宅で寝ていたわよ……」

 新島は指先を忙しなく動かし、奥歯を強く噛み締めた。強いストレスが感じ取れる。

「本当のことを言った方が楽になるぞ」

「私は自宅にいた! それが事実よ!」

 悲鳴に近い叫び声に、周囲の客が訝しい表情を向けた。真波がペコペコと頭を下げて詫びる。新島は爪を噛みながら声を絞り出した。

「カレを殺したのはあの女でしょ……」

「誰のことを言っている?」

「反町京子よ。五年前に息子を殺された恨みがあるでしょうが」

「恨みと言われてもな、向井は無罪になったんだぞ」

「裁判で勝訴しただけでしょう。罪に問われなかったといって、事実は変わらない。私はこの目で見たんだから。五年前のあの夜、事件現場の公園から駆け出すカレの姿を」

「顔を正面から捉えたのか」

「横顔よ。私が立っていた場所とは反対方向に向かって行ったわ」

「見通しの利かない深夜、駆け抜ける男の横顔だけで断言できるのか」

 新島は侮蔑を込めて鼻で笑った。

「当たり前じゃない。私はずっとカレの一番傍にいたのよ。カレの横を並んで歩き、カレの隣で映画を見て、カレの隣で眠った。カレの横顔を誰よりも見てきたのよ。見間違えるわけがないわ」

 何の迷いも無く言い切る新島を見つめながら考えた後、有吾は質問を変えた。

「向井はどの方角へ走っていったんだ」

「最寄り駅よ」

「それって反町の自宅方面と一致しているか?」

 真波に訊ねると、彼女は手許の資料に目を落としながら首を振った。

「逆ですね。買い物に出かけたコンビニの方角です」

「目撃したお前の存在に気づいた様子はあったか?」

「ないわね。慌てた様子で一心不乱に走っていたから。その証拠に、後日私が目撃したと告げたら、カレは酷く動揺していたわ」

 有吾は眉をぴくりと動かした。

「つまりお前は警察へ通報する前に、向井と会ったんだな」

「そ、それは……」

「目撃証言をネタにして、向井に復縁を迫ったのか」

 新島の視線が忙しなく左右に揺れた。まるで縋る藁を探しているように見える。

「だとしたら……どうなのよ。もう五年も前の話なんだから、時効じゃない」

 藁が見つからなかった新島は、開き直る道を選んだ。

「残念ながら向井はお前の要望に応じなかった。目論みが外れて憎さ百倍になったお前は警察に通報した」

「そうよ。カレが逮捕や起訴をされたら、辛い監獄生活に耐えきれなくなって私に泣きついてくると思ったのよ。その時には見間違いだったと証言するつもりだった。たとえ嘘つき呼ばわりされようが偽証罪に問われようが、カレが戻ってくるんだったら何でも受け入れる覚悟をしていた」

「だが、攻撃されたのはお前の方だった。敏腕弁護士によって目撃証言は論破され、泣きつくどころかお前を打ちのめして無罪放免を勝ち取った」

 当時のことを思い出した新島は、両手を強く握った。その震える拳を見つめながら有吾は言う。

「酷く悔しい思いをしたことだろう」

「当たり前じゃない。私はこの目で見たの。確実にカレを見たの。なのにその証言が認められないどころか、私のことを嘘つきだと全否定したのよ」

「そして頭に着たお前は、向井の首をギュッと絞めて殺したと」

「ええ、そのとおりよ……って違うわよ! 変な誘導訊問しないでくれる!」

 新島は般若のように目を見開いた。

「私はカレを愛していたの。誰よりもカレを必要としていたのよ。そんな私がカレを手にかけるわけがないじゃない!」

 肩で息をしながら発した言葉は、魂の叫びに聞こえた。

「お前の証言を信じるのなら、向井は人殺しということになる。なぜ殺人者をそこまで愛するんだ」

「反町はカレの才能に嫉妬し、嫌がらせを繰り返した。根も葉もない噂を流したり、実力は充分なのにプロジェクトメンバーに選ばなかったり、挙げ句の果てにはアイディアまで盗んだのよ。デザイナーにとってアイディアは、自分が生み出した我が子のような大切な存在でしょ。そんな仕打ちを受けたら誰だって許せないわ。カレが反町を殺したのは嫌がらせから身を守るための正当防衛、あんな男は死んで当然よ」

 向井の敵は私の敵と言わんばかりに、新島は顔に力を込めた。

「そんなに向井は良い男なのか」

「当たり前じゃない。初めて会った時から、カレ以上の存在なんて有り得ないと直感したわ。酒もやらず、ギャンブルもやらず、ただひたすらデザインに没頭している時の彼は魅力に溢れていた」

「それわかります。何かに取り組んでいる真剣な男の人って、素敵なんですよねえ」

 真波が頷いたのを見て新島は強ばらせた表情を解くと、一転してうっとりとした表情を見せて回想を始めた。

「初めてのデートはディズニーランドだった」

「ネズミやアヒルが真っ昼間から徘徊している、金食い広場か」

 真波は肘で有吾を突いた。

「その言い方。関係者に聞かれたら怒られますよ」

 有吾の茶々にも動じることなく、新島は思い出に浸った。

「私はドキドキして上手く喋れなかった。歩き方もギクシャクして、手足が左右揃っちゃうような、心と体がチグハグしていた。そんな私をカレが優しくリードしてくれて、そして夜のパレードを見ているとき、カレがそっとキスをしてくれた」

「いいな〜、ステキ〜」

 真波まで恍惚とした表情を浮かべていた。その横顔を見ながら有吾が呆れて言う。

「何がいいんだよ」

「キスってロマンティックじゃないですか」

「口腔を重ねながら、互いの唾液を交換し合う行為が?」

「そういう言い方、やめてくれません?」

「なるほど、口の中には億単位の細菌が繁殖しているのだから、この場合は唾液ではなく細菌と細菌の行き来と表現した方が適切だったな」

「ちょっとちょっと、私はそんなところに拘っていないんですけど」

「まだ不満か? だったら口腔の細菌数は肛門の周囲よりも多い点に着目して、肛門と肛門のご対面と表現した方が良いか?」

「良いわけないでしょ!」

「いや、待てよ。寝起きの唾液一ccの中には、糞便十グラムに相当する細菌が存在しているのだから、互いの口の中に糞便を流し込んで――」

「もうやめて! 美しいキスシーンのはずが、知らぬ間にスカトロジーになってるじゃない!」

「何を怒ってんだよ。科学的根拠に基づいて説明しているだけだろうが」

「もう、科学のバカ!」

 しばらくカレーは食べられそうにない。有吾は二人のやり取りを冷めた表情で見ていた新島に向き直った。

「そんな向井と、どうして別れることになったんだ」

 新島は自然と俯いた。その瞳に影が差す。

「互いの愛の量が同数ではなかった。シーソーで言えば、私の方が重すぎて交互に上下することがなかった、愛の行き来がなかったのよ」

「お前の愛はデブだったのか」

 ロマンティックとは無縁の有吾に、真波が白眼視した。

「その言い方。もっと別な表現が有るでしょう」

「愛のメタボリックとか、愛の肥満体とか?」

「なにも変わってないでしょうが。例えば『育て過ぎた愛』とか、『一ミリの隙間もない愛』とか、もっと甘美な雰囲気を漂わす言い方にしてください」

 真波の言葉に同調した新島は、小さく二度頷いた。

「いつの間にか私からの愛が一方通行になっていた、そういうことだと思う」

 有吾は「ケッ」と嫌悪感を吐き出した。

「そんな風に言葉を着飾ってもな、とどのつまり向井はお前の重た過ぎる愛がウザくなったんだろ」

 新島は殺気立った眼を有吾に向けた。

「つくづくデリカシーのない男ね。アンタみたいなクソ男は、カレの爪の垢でも煎じて飲めばいいのよ」

「博士の場合、おかわりして飲まないと足りないですね」

 真波が乗っかると、有吾は「うるせえ」と一蹴した。

「俺が確認しているのはな、お前に確固たる殺意が有るかどうかってことだ」

「何年もカレを一方的に想い続け、それが成就しないことに苛立ちを募らせた私が、ついに臨界点を超えてカレを殺したと言いたいのだったら、お門違いもいいところよ」

「お門違いなのはお前の方だろ。俺が確認している殺意は向井に対してではない、反町京子に対するものだ」

「えっ」

 理解できない新島と真波は声を揃えて疑問符を投げかけた。有吾は足を組み、悠然たる態度で言う。

「五年前、警視庁は向井の犯行だと断定して逮捕したが無罪判決を受けた。新たな証拠が見つけられなかった検察は控訴せず、反町京子は腹を立てた。つまり、反町京子も向井の犯行だと信じて疑わなかったんだ。そしてお前も向井が殺したと思っている」

 迫りくるものを感じたのか、新島は自分で自分を抱きしめるように腕を組んだ。

「すべての関係者が反町を殺したのは向井だと見ている。その向井が殺されたのなら、真っ先に疑われるのは恨みを持つ反町京子だ。だから当然のようにお前もそう考えている」

 新島の動揺は真波の目にも明らかだった。ゆっくりと獲物を仕留めるように、有吾は詰めて行く。

「向井に対するお前の深い愛情は本物だろう。その向井が殺されたんだ。にもかかわらず、反町京子に対する強い殺意が感じられない。自分への疑いを逸らすために反町京子の犯行だと言うだけで、向井の仇は私が討つといった復讐心が向けられていない」

 有吾は視線だけで「なぜだ?」と問うた。そんな有吾を真波は仰ぎ見た。証言者が発した「言葉」と「心」の矛盾を瞬時に分析してしまう秀でた能力。彼に嘘や誤魔化しは通じない。

思わぬ方向から質問が飛んできた新島は、体を前後に揺らしながら言葉を紡いだ。

「反町京子が怪しいと思ってはいる……でも証拠がないのに決めつけるわけにはいかないでしょうが」

「本当はお前が殺したから、潜在意識の中で反町京子を犯人に仕立て上げることに抵抗が生まれているんじゃないのか」

「私は殺していない! 殺すわけがない!」

 それは真実の叫びに見えるが、穿った見方をすれば自分自身に言い聞かせているようにも見えなくない。

「だったらなぜ、俺たちと会うことにした? 今まで散々警察から話を訊かれ、うんざりしているはずなのに、今日連絡を入れて今日会うことにした。まるで捜査の進展具合を聞き出そうとしているようだ」

 次々と見透かされていく新島はやはり、反町京子に擦り付けるしか逃げ道がなかった。

「カレのマンションには防犯カメラがついているんだから、確認してみればいいでしょう。きっと反町京子の姿が写っているはずよ」

 酷く細い声だった。自信がないのが見て取れる。有吾が視線を送ると、真波は資料を確認した。

「確かにマンションの正面玄関に二台、監視用のカメラがついていますが、死亡推定時刻前後に反町京子は映っていなかったことがわかっています」

「う、嘘……」

 自分の立場がますます悪くなったと感じたのか、新島は小刻みに震え始めた。それを横目で捉えながら、有吾は訊ねた。

「死角が有るんじゃないのか?」

「いいえ、二台のカメラは漏れなく玄関全域を捉えています。ただし――」

 真波が言い終わらないうちに新島は立ち上がった。

「私……帰る」

 新島はまるで魂が抜け出たようにフラフラと歩き出した。

「ちょっと、新島さん」

 真波の呼び掛けにも反応することなく遠ざかっていく。

「いいんですか博士、このまま帰らせても」

「身柄を確保できる令状でも持ってんのか?」

「ありませんけど」

「現行犯で逮捕ができる容疑もないんだから、止められねえだろ」

「しかし……」

 戸惑う真波をよそに、有吾は揺れている新島の背中に声を掛けた。

「お前が持っているモノ、下手に処分しようと考えるなよ」

 新島が歩みを止めた。振り返りはしないが、有吾の言葉に反応しているのはわかる。

「お前が本当にやっていないのなら、無実を証明するものが入っている可能性がある。下手に捨てると自分で自分の首を絞めることになるぞ」

 アドバイスを聞き終えると、新島は再び歩き出した。姿が見えなくなったところで、真波が訊ねた。

「新島は何を処分するつもりですか」

「自分が相当疑われていると感じ取っただろうから、向井に関係するものをすべて処分する恐れがある。それでも奴を愛する気持ちが強くて捨てきれないだろうが、念のために牽制しておいた」

「新島が無実を証明するためにアドバイスしたのではなく、犯人である証拠を隠滅させないために言ったということですか」

「アイツは反町を殺したのは向井なのに無罪になったと思い込んでいる。新島が犯人なら当然、自分も無罪を勝ち取りたいと考えるだろう。何が無罪の材料になるかわからないから取っておけと言われたら、捨てるに捨てられなくなる」

「そんなの嘘をついたのと同じことじゃないですか」

「言っただろ、人間はいつでも嘘をつけるんだよ」

 罪悪を微塵も感じさせない有吾に呆れながら、真波は頬杖をついた。

「警視庁の見立て通り、向井を殺したのは新島だったんですね。自分で殺しておきながらなお愛し続けている。愛ってつくづく奥が深いですねえ」

「誰が犯人だと言った」

「え? だって博士は新島が犯人であることを前提に話していましたよね?」

「可能性があるから牽制しておいただけだ。あの女は五年前に嘘の証言をしたのか、それとも本当のことを言ったのか、二つに絞れたからな」

「……嘘か本当か、どちらかに決まっているじゃないですか。なに寝ボケたことを言っているんですか」

 訝しい表情で見つめる真波に、有吾は「チッチッチッ」と舌を鳴らして返した。

「本当のことを言っているのに、嘘をついたのと同じ状態になることもあるんだぜ。錯誤や錯覚でな」

 有吾は自身のスマホを取り出し、画面にチェス盤のCGを映し出した。

「この円柱の陰になっているマス、何色に見える?」

「白ですけど」

「果たしてそうかな?」

 ニヤリと笑いながら、有吾はもう一枚のCGを見せた。それは先ほどのマスと一番上のマスがくっついている。

「あ……グレーでした」

「これは1995年にMITの教授が発表した、チェッカーシャドー錯視だ。脳が光と影の状況を察し、勝手に補正して認識したんだ。もしもこのトリックを知らず、あのマスは何色だったかと聞かれたら、お前は迷わず『白だった』と証言しただろう。グレーだと知りながら、白だと虚言した嘘つきと同じ状態になる」

「本人は何の悪意もなく見たままのことを言っているのに、事実と異なることを証言してしまうこともあるってことですか」

「嘘と事実の間にある不正確な不純物、それが錯誤や錯覚なんだ。真偽のほどを定める前に、その不純物を取り除かないと事実は見えてこない。そこで俺は、新島が五年前に錯覚を起こしたのではないかと仮説を立てた」

「単純な見間違えってことですか?」

 いくらなんでもそれは、と真波の表情が語っている。

「曲がりなりにも警視庁が五年も調べているんだ。それでも判断がつかないということは、常識的な発想ではカバーできない何かがあるんだよ。だからこそ、突拍子もない仮説を立てた」

「人間は顔を識別する能力が発達していると聞いたことがありますよ。偽造を防ぐための手段として、紙幣のデザインに肖像画が使われているくらいですから。色や柄を錯視したのならともかく、顔を見間違えたということはないでしょう」

「そう思うのはな、お前が浅はかな単細胞動物だからだよ」

「博士、艶やかな単色が似合う本格美人と言い間違えていますよ」

 有吾はマネキンよりも無表情な顔を見せて「お前の名誉のためにスルーしてやる」と話しを戻した。

「以前、コーネル大学の院生が面白い映像を作って話題になったことがある。画面転換のタイミングに合わせて、出演者の着ている服や人物の位置、置いてあるモノが変わっていくんだ。だが、ほとんどの人がそれに気づかない。脳は瞬間的な変化に対して盲目になる。実際にはモノが入れ替わるなんてあり得ないから、一コマ一コマを記憶するような無駄な作業はしないんだよ」

「写真が少しずつ変化しているのに気づかないのも、そのためなんですね。注意していても変化に気づかないほどなんだから、非注意状態ではさらに見落としが発生してしまう」

 真波はテレビで放送されていたそれに何度も挑戦したが、一度も変化に気づいたことは無かった。

「道を尋ねられている途中で、大型看板を持った作業員が二人の間に割って入るという実験と照らし合わせてみるとわかりやすい。看板で遮られている間に、道を尋ねて来た人が入れ替わるんだ。ほとんどの人がそれに気づかず、道案内を続けてしまう。ブランク後の変化に気づきにくいことを『チェンジ・ブラインドネス』というが、新島はそれと同様の状態に陥っていたのではないか」

「五年前のあの夜、新島は向井をストーキングしていた。向井が視界から外れた時に別人が現れ、それが向井に見えたのではないかと疑ったんですね」

「近年はマラソンブームだからな。仕事を終えた後に走り込んでいた背格好が似た人を、逃げ出した向井だと脳が錯覚した可能性は捨てきれない」

「でも途中で入れ替わっても気がつかないのは、見知らぬ人物だからこそですよね」

「そこが問題だ」

 そう言いながら、有吾はグッと真波に顔を近づけた。あと数センチで唇が重なるほどの距離に、真波は思わずドキドキしながら仰け反った。

「こ、こんな場所で止めてください。もっとムードがあるロマンティックな場所で、甘いセリフを言いながら――」

「単なる実験だっての。お前は家族とこの距離で顔を近づけることがあるか?」

「子どもの頃ならいざ知らず、今はありませんよ」

「そう、血のつながりがある家族でも近づかない距離にいる存在、それが恋人だ。新島が言うとおり、アイツは世界中の誰よりも向井の傍にいた。それは短期的な記憶ではなく、長期的かつ継続的な記憶だ。例え見通しが悪くても、向井の横顔を見間違える蓋然性は低いと言わざるを得ない」

 有吾は最後の一口を飲み干し、コーヒーカップを置いた。

「新島に錯視はない。ならば答えは二つに一つ。新島は五年前のあの夜、本当に向井を見た。もしくは見ていないのに嘘をついている」

「本当に見ているのなら、嘘をついているのは向井ということになりますね。博士はどちらが嘘をついていると思いますか?」

「さあな。これから考える。次は向井が殺された自宅マンションへ行くぞ」

「それが……まだ神奈川県警と調整がとれていないんですよね」

「だったら先にメシでも食うか。昼飯を食っていないから腹が減った」

「いいですね。何を食べます?」

「カレーはどうだ」

「絶対に嫌です。糞便がどうのこうのと言った後に、よくカレーを選びますね」

「あえてチャレンジするのが男ってもんだろ」

「私は女ですからご遠慮いたします。ここはパスタにしましょ」

「しょうがねえな、お前の要望に合わせてやるよ」

「へえ、博士にも優しいところがあるんですね」

「その代わり、カレーソースのパスタがある店にしてくれ」

「……それって私に対する嫌がらせですよね」

「単にお前を不快にさせたいだけだ」

「それを嫌がらせというんでしょうが! それとさっき、私に向かってバカタレって言いましたよね」

「反応が遅いにも程が有るだろ、バカタレが」

「また言うと思った。つくづく子どもなんですよね、博士は」

「グダグダ言っていないで行くぞ、笑顔が可愛いバカタレちゃん」

「だから素直に褒めるだけにしてくださいよ」

「貶している方が素直なんだよ」

 さっさと歩いて行く有吾の後ろを、真波は頬を膨らませながらついて行った。

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