第84話 近汪商人の屋敷 is 広い

「ああのぞみ、ちょっと与兵衛よへえ探してきて」


 上品なおばあさんの声。


「ええ? またどっか行きよったんかあのクソガキは」


 ガサツな田舎娘の声&態度。

 

「弟をクソガキ呼ばわりしなさんな、いっつも言うてるやろ」


「クソガキはクソガキや。あんな坊主頭」


 女の子らしさの欠片もないツイートを残し、田舎娘は門から出て行った。



 おばあさんは髪を短く切り揃え、毛先が少しカールしている。白髪染めが落ちて白髪が目立つところが、どこか「忙しく働く昭和の女」の雰囲気が漂っていて綺麗。服はブラウスで、なぜか全体が畳のようなデザインだ。色も形も。パンツ(ズボン)はゆったりめで、裾上げされている。


「あら、お客さん?」


「は、はじめました! ……」


 噛んでしまった。初対面の人の前で、いきなり噛んでしまった。


のぞみのためにお友達になってくれはったんですか? おおきに。のぞみは本当、昔っから友達を作らん子でねぇ、いじめられてるんとちゃうかて聞いても違うの一点張り、ほんまかどうかずーっと心配してたんですわ。せやけど高校になってやっと友達ができた、言うて連絡くれて、ああそうでしたか、あなたが。まさか男の人やとは思いませんでした。どうぞこれからものぞみをよろしゅうお願い申し上げます」


 作業されていたのに、わざわざつっかけを脱いで座敷に上がり、三つ指を添えるおばあさん。


(田舎娘と同じ遺伝子じゃねえ!)


 多分、若いころはかなりモテたんだと思う。つまり、可愛かったんだ。今はそういう表現は不適なご年齢になられているが、多分可愛かったんだ。


「さあどうぞお上がりください、今お茶用意します。あ、ジュースのほうが良かったですやろか」


「お、おかまいなく……」


 俺の言う声がおばあさんに届く前に、おばあさんはどこかへ消えてしまった。消えてしまったと感じたのは、この家がとんでもなく広いからだ。


 とんでもなく広い部屋に上がるのに引け目を感じ、靴も脱がず、土間に腰かけたまま部屋を眺める。本当は立ったままのほうがいいかもしれないが、九時間も歩いた足はとうの前に悲鳴を上げている。目の前に座りどころがある今、磁石のように、本能が尻を土間に接合座らさせた。


(何畳あるんだろう。部屋は一、二、三、…………四)


 重い尻を少し移動したら、奥に四番目の部屋が見えた。

 ふすまを取り払っていて、ただでさえ広い一室が連続的に四つ存在するように見える。言わば、四つの部屋が一つの部屋に見えるのだ。


 デカすぎて、すごすぎて、本能的に家の中をきょろきょろ見回している自分がいる。あんまり見過ぎたらいけないのは分かっているが、広すぎて自制ブレーキが効かない。


(ていうか、普通部屋に屏風ないよな……)


 部屋の一番奥。まさかの、屏風が飾ってある。縦長の木の枠に小さなふすまのようなものが六枚つなぎ合わせてあって、ギザギザと横方向に広がっている。それぞれのパーツに、鳥の水墨画が描かれている。


(あるにしても、あんなデカい屏風はないわ。六枚も連ねたら、もっと場所を取るはずだろうに)


 鳥をよく見ると、鶏だ。しかし普通の安っぽいブロイラーじゃない。尾は長く漆黒、首は毛羽立った白、体はグレーだけで真紅しんくの鮮やかさを描写している。


「あら、まだそこにいはったの? どうぞお上がりください」


「い、いいんですか」


「何言うてはるんですか、っはは。お友達来てくれはって家にも上げんようなら、そもそもお茶なんか出さへんですわ、っはは」


「あ。……」


 ちょっとした瞬間に出る笑顔が、上品だ。この屋敷に相応ふさわしい高級感、あの高そうな屏風に描かれた水墨画のモデルになれそうな、優しい目。


「この家って、広いですね」


「そうですやろ? 広すぎて掃除大変ですねん。もう今日も朝から拭いたりはたいたり大忙しですわ。なんせ主人が全く家事をつどうてくれんさかいに、あたしだけでやらなあきまへんの。ちょっと畳拭くくらいやってくれたらそれだけでも助かるのに、主人は古すぎる人間ですからねぇ、散歩か寝るか与兵衛よへえと遊ぶか、それしかできひんのですわ。逆にかわいそうに思えて、ここ二十年は一人で家のことやってるんです? っはは」


「二十年」


「もうあたしも主人も八十が近うなりますからねぇ、二十年いうてもあっという間ですわ。お友達さんは……あ、お名前聞いてええ?」


「鳴子……トオルです!」


 っぶねぇ。

 今はトオル役だったんだ。

 初めて紹介されるカレシに名前が二つあるなんて、不気味で仕方ない。俺はもう少しで致命的な失敗を犯すところだった。


「とおる。覚えました。とおるはんはまだ十代で、二十年すらも生きてはらんでしょうけど、この年まで生きるともうそれはあっという間で――」


 そこから延々と、おばあさんの話は続いた。ただ一つ訂正したかった「俺は25歳」という点すら言わせてくれない「ゆる系マシンガントーク」に、俺は屈した。


「あの絵ですか? あの絵はあたしが子供の時からあったんですよ? 江戸時代に描かれたもので、作者は――」


 そこから延々と、絵について語られた。俺はいまだ、この広い部屋に上がれていない。


 部屋は当然、和室。畳が平原のように広がり、さながらイグサの草原だ。黄色いけど。


「うちは近汪おうみ商人の家系ですから、こんな広い屋敷なんです。茂雄しげおも、茂雄いうんはのぞみの父親ですけれど、今は仙怠せんたい八越やつこしで頑張って働いて、吉江よしえはん、吉江はんはのぞみの母親ですけれど、吉江はんと望を支えてます」


「いな……望、さんは、お母さんが専業主婦なんですね」


「ええ。それも茂雄の頑張りのおかげです。あ、吉江はんもそう言うてはったからね? 別に親バカなんとちゃいますよ? 昔はよう茂雄の尻を叩いてました。あの子は本当にいたずらっ子で、絶対主人に似たんやと――」


 そこから田舎娘の父親について延々と話された。唯一安心できたのは、ヤバい会社の人間ではなく、真の一流企業で働く人だということだ。どうしてお父さんが転勤になって仙怠せんたいにいるのかはさておき。


「望さんは、」


「望で結構ですわ。どうぞ呼び捨てにしてやってください、親しい間柄として」


「……望は」


 俺には百合香ちゃんがいて、まだ呼び捨てしたことがない。なのに、強制的に田舎娘を呼び捨てにすることになろうとは。断じてあんな可愛げのない田舎娘と結婚→セックスなんてしないが、この上品なおばあさんの前で何も言えなかった俺は、渋々屈したのである。くっそ……


「すごくいい子です。腹立つ時もあるけど、話しやすいです」


 見えないように手を後ろに回し、固い拳を握る。


「っははは。腹立ちますやろ? あたしの主人もいっつも腹立ててますねん。なんせ望は口が悪うてね。あたしには優しいんですけど、主人とはしょっちゅう喧嘩してます。まあ茂雄が転勤してからは一緒に住んでませんから、主人も寂しそうな顔してますけどね。ほら、あそこに庭ありますやろ? 縁側に座って、庭見ながら、『望』とか呟いてますねん。いっつも。わらけてきますやろ? この間まで喧嘩しかしてへんかったのに。っははは」


 おばあさんの指した指の先、ゆがんだ手製ガラスが張られた扉の向こうに、巨大な庭が覗いている。土間からだと一部しか見えないが、きっと一流の庭師が手入れしてるに違いない。


「あ、お茶冷めてしまいましたね。これ玉露で、甘味があって美味しいんですよ? あたしは歳やから苦いのが好きですけど、お若い方にはこっちがええかな思いまして。あら、あたしが喋くるから冷めてしまいましたねぇ。どうします? 新しいの淹れてきましょか?」


「い、いえいえ、おかまいな――」


 おばあさんは俺の声を聞き終える前に、また向こうへ消えてしまう。


(あちゃぁ、ダメだわ俺)


 ずずず、と、冷えたお茶を飲む。


「うっめぇ」


 疲れた体に浸透する玉露の香り。玉露でさえ体に浸透するんだ、きっと米とか肉とか鮎とかはもっと浸透するだろう。そして、田舎娘がそれらご馳走を俺に献上することですでに契約済だ。


(ひひひ、旨いメシがタダで食える。……って、待てよ?)


 あのおばあさんに作らせるのか。そう考えると途端に罪悪感が出る。なにせ、昔は可愛かったおばあさん。今はグータラ傷心センチメンタル亭主の世話と、広大な屋敷の掃除に精を出されているおばあさん。現在進行形で可愛くないガサツ娘とは違う。


「はいどうぞ。温かい、玉露でございます。とととと、こぼれそうや」


 奥から、そそそそとすり足でおばあさんが来る。満杯にしてくれたのだろうか、こぼれないように慎重を期しておられる。イグサの平原をつつまし気に歩く様子が、商売で大成功しても奢らずに生活している日々を彷彿とさせる。


「ありがとうございます」


 ずずずず


「どうぞどうぞ、まだまだありますのでね。あたしは二階を掃除してきますので、どうぞご勝手に上がってくださいな。やかんがコンロの上にありますのでね」


 つつましやかに言うと、おばあさんは二階に上がっていった。


 その階段。

 ちゃぶ台のある目の前の部屋の背後にある。階段は部屋の端っこか、そもそも部屋の外部にあるものだろう。しかし今はふすまが全開放されているため、あたかも巨大な草原の底から一気に伸びえたような大胆さがある。しかも勾配が急で、おばあさんは腰を曲げて手すりを掴みながら徐々に上っている。


(俺も、手伝わねば)


 田舎娘に対しては永久に抱きそうにない庇護欲が、もうすぐ八十を迎えるおばあさんに対して発動した。


 もし百合香ちゃんがあの急峻な坂をしんどそうに上っていれば、俺は猛烈な庇護欲を爆弾のようにぶちき、即座におんぶしてあげるのだろう。


 沙夜は無駄に可愛すぎるから、逆に庇護欲が低下する。ラーメン屋でむさ苦しい男を選別し、俺のアパートの寝室で俺の布団をびしゃびしゃにするような女に、庇護欲は湧かないのである。いくら顔が良くても。



 さて、温かい玉露をいただくとするか。


「うっさいわクソじじい! どこも行ってへん言うてるやろ!」


 なっ……なんだ?


「正直に言えや。オマエ、夜中抜け出して男と遊んでたんやろうが」


「違う言うてるやろさっきから! 脳細胞死滅してんとちゃうか」


「遊びよったとしか考えられん。どうせトオルとかいう色男のとこ行ってたんやろうが」


 ドスの効いたじじいの声が。


(あ、あれか? 田舎娘のおじいさんって)


 今分かった。田舎娘の遺伝子は、おじいさん譲りであることが。


「こんの……」


「文句あるなら言うてみい。ええ加減諦め言うてんのに、いつまでアホみたいに引きずってんねや」


「うるさいわい! トオル君は色男とちゃう、本当は優しいねん! クソじじいが思てるような酷い人とちゃうねん!」


 やばい、おじいさんめっちゃ怖い。俺、今はトオル君なんだけど、かなりヤバイんじゃないか?


「優し気な男こそ危ないんや。裏で卑猥なことやら悪辣なことしてるんや。嘘くそうヘラヘラわろうて、仏様に背くような行為を平然とな」


「何が仏や、お前の頭が仏やこのハゲ!」


「なんやとコラ、こっち来い。いっぺんどつかな分からんようやな」


「さっさ死ね分からずや! 老害!」


「心配せんでもいずれ死ぬわアホ孫! 与兵衛よへえ、お前もなんか言うたれ!」


 なんか、ケンカしてる。田舎娘って、あんなに狂暴だっけ?


「なんやクソガキ、ウチにモノ言えるんか? あ? ちび」


 一体何が起こっているんだろう。見に行って確かめねば。


 走って門を出ると、そこには。



「弟にクソガキ言うやつがあるかぁ!」



 バシィィィィィィィィィッ



「いったあああああああああああ!」


 背の低い小学生男児を横に連れた、しわっしわの気難しい顔のおじいさんが、田舎娘の丸っこい頭を爽快なほど美しく、高級怪しそうに黒光くろびか竹刀しないでぶちのめしたところだった。

 

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