第79話 歩行開始

 夜が深い。空の月は、雲の僅かな切れ目から出たり消えたりしている。


 そんな夜、スマホのマップを見ながら進む俺たち。


詩香しか出身やけど、こんな遠いとこから歩くんは初めてやからな。スマホないと死ねる」


 今は易々やすやすと歩けているが、八時間も歩くとなると話は別だ。足が変になり、ふくらはぎの筋肉が断裂し、肛門が裂け、脳が脳じゃなくなる。そんな気がする。


「不安じゃないのか?」


「何がや」


「足が変になったり、ふくらはぎの筋肉が断裂したり、肛門が裂けたり、挙句の果てには脳が脳じゃなくなるかもしれないぞ? 普通はそういうこと心配するだろ?」


「ちょ、どこまで妄想してんねん。さすがに脳は脳のままやろ」


 と言いつつ、声が少し上ずっている。やはり、こいつといえど不安を抱えている雰囲気だ。


「肛門が裂ける可能性はあるだろ」


「ほ、ほんま?」


 食いついた。


「穴の周辺には強い応力が作用するんだ。肛門は穴だろ? それにお前は女だから、もう一個穴がある。怖くないのか?」


「怖っ」


 ここで、普通なら「エロガッパ」とか言われるんじゃないだろうか。でもこいつは顔が可愛くないし、そんじょそこらの女とは異なる感覚を持っていてもおかしくない。あるいは、冷静に穴について考えた結果かもしれない。ちなみに、さっき言ったことは口から出まかせっていうか、大学で習ったことを無理矢理解釈しただけだ。結果的に食いついてくれて良かった。


「けんど、ま×こはち×こを受け入れるために強化されてんちゃう? さすがに裂けんと思う。っていうか、肛門も裂けんとってほしいけど」


「こら! はしたないこと言うな!」


「はしたないて、おじさんも高校生のときははしたなかったんちゃうか? 大人になってエロに飽きてしもうたからそんなこと言えるねん。エロの飽和ほうわ水溶液や。けんどウチは好奇心旺盛、希薄きはく水溶液。まだまだ若い女や」


 何が若い女だ、そう口に出そうになった寸前、はたと気づく。


「……何歳?」


「十七」


「それは永遠の十七歳とかいうバカ発言じゃなく?」


「高二やウチ。おじさんみたいに老けてないねん」


 こいつが十七歳だという事実を受け入れたくない。川岸でイナゴを食い、歩道の金網で塩焼きにされていたやつが、ピッチピチの十七歳だなんて。


「もうちょっと女の子らしい振舞いしてたら、フられずに済んだかもな」


「どういう意味やねん。ウチは十分女の子らしいやろ?」


「声の高さだけは女かもしれない。だがその他は壊滅だ。よく覚えておくんだ」


 自分のことを女の子らしいと思っている時点で成長はない。声だって、男より高いだけで可愛くない。田舎っぽいだけの、安っぽい声だ。


「ったく。俺はどうしてこんな不幸なんだ。まさか旅行先でお前に会うなんて。しかもお前の実家のある県に旅行してたなんて。どうして聖地の県にお前が生誕したんだ。田舎娘」


 当人がいる横を見て、いかに俺が不幸なのかを教える。


 ことは、できなかった。


「はれ⁉」


 横に田舎娘がいない。さっきまでいたのに。


「おい! どこだ! くっそ、いきなり迷子かよ!」


 辺りを見回すも、いない。どこ行ったんだ?


「ふ、不幸だ。俺は不幸だ。不幸だああああああ!」


 叫べば出てくるだろうか。


「おじさん」


「ハッ」


 遠くで声が。かなり遠い。遠すぎて、声がもわもわ聞こえた。


「何止まってるんだ、ただでさえ八時間もかかるってのに」


 駆け戻り、田舎娘のもとに到着する不幸者。でもいてくれて良かった。未開の地で迷子とかシャレにならないから。


「ウチって、壊滅ってほどなん……?」


「……まあ、壊滅だな。正直言って」


 そこを深刻に捉えていたのか。さすがにかわいそうだったかな。


「『可愛いは、作れる』。そうCMで言うてたけど、ウチは無理なんかな」


「まあ、多分」


 かわいそうだからとて、事実。事実を認めることから成長があるってもんだ。


「質のええシャンプー使つこうたら可愛くなれるとか、ある思うか?」


「ちなみに何使ってるんだ?」


 田舎娘は「弱酸性メリッテ」と答えた。俺の使ってるのと同じだ。


「アジエムスかペタルサスルーン使えば? つばとかいうのもあったっけか」


 女モンのシャンプーはよく知らないけど、CMでちょっとは見たことがある。なけなしの知識をはたいて、みじめな田舎娘に提案するなんて。いくら泊めてもらうためとはいえ、俺はこいつに優しくしすぎている。


 夜が深い。月は薄い雲に隠れたり、出てきたりしている。風はぬるく、昼間の熱気が地面からにじみ出ている。そんな、深夜三時三十分過ぎ。


「家訓があってな。奢者必不久おごる者久しからず、言うねんけど」


「そのことわざ、家訓なのか」


「そうや。うちは近汪おうみ商人の家計でな、おばあちゃんの家に掛け軸があって、その前に座らされて、覚えさせられたねん。まだ漢字も読めんかった子供のころにな」


 何が言いたいんだろう。


「カネモになっても質素な暮らしを続けなあかん。カネがあるからて、高いモンばっかりうて醜い富裕民になったらあかん。せやから高いシャンプーも、高い石鹼せっけんうたらあかん。カネは自分のためやなく、人のために使うべき。ウチは、そう思う」


 クソ真面目な顔で言う。より一層、可愛さが減少する。


 しかし、なるほど。お金があるから高いものを買える状況だけど、そこで調子に乗りたくはないということか。その考え方は美しい。けれども、


「別にシャンプーくらいいいと思うぞ。なんなら俺が買ってやろうか?」


「余計なことせんでもええ。ウチは善人面ぜんにんづらしたいわけやのうて、本当にそう思うてんねんから。近汪おうみ商人の詳しいことには興味ないけど、そういう考えはスバラシイ思うねん」


「そりゃそうかもしんないけど、シャンプーくらい買わせてくれよ。だって白金くれるんだろ? 宿泊とアイス2個じゃ釣り合わないだろ」


「そんなこと言うて、ウチをどうしたいんや」


「まあ、髪の毛の匂いを百合香ちゃんみたいに良い匂いにしたい、かな。なんかフルーティーな香りにすれば、トオル君って人の心もちょっと変わるんじゃないか? 今のお前からは、全然良い匂いしないから」


 髪の毛からは、何も匂いがしない。というか、全身から何も匂いがしない。悪いことではないが、ただでさえ顔が可愛くないのに無臭ってのは、フられた原因なんじゃないだろうか。


「おじさん、結構ズバズバ言うよな。ウチはええけど、他の女には嫌われるで?」


「大丈夫だ。お前を女と思ってないからズバズバ言ってるだけだから。そもそもお前を女と思ってるやつなんていないって」


 刹那、顔面を殴打される。


「いって……。おい! 同じとこ殴んな!」


「あんまり調子乗ったらあかんでおじさん。言い過ぎや。泊めてやらんで?」


 厳しい目つきで俺を上目遣いする田舎娘。


「そ、それだけはご勘弁を! マジで泊めてくれないと、本当にヤバいから!」


「なら言葉に気い付けや。ウチは女や、それを否定されたら不快に思うに決まってるやろ」


「……ズバズバ言ってもいいんじゃなかったのかよ」


 ぼそぼそ呟く俺。


「なんか言うたか?」


「何も言ってない」


 せっかくシャンプー買ってやろうと思ったのに。買う気をくした。


(絶対こいつを女と思ってるやつなんていないって)


 暗すぎる道は、まだまだ続いていく。

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