第31話 危なっかしい料理
「味噌って、お湯に直接入れるんですか?」
ぐつぐつ煮立った鍋の水。その前に立つのは、俺のためにねこみみメイドになってくれた百合香ちゃん。
「なんか網みたいなのに入れてから、箸で混ぜる気がする」
「わ、分かりました、やってみます!」
いつから使ってないのか分からないステンレス網を洗って、百合香ちゃんに渡す。ぎこちなくスプーンで味噌をすくい、網に入れる。
「手伝おうか?」
「ダメです、私がお兄さんのために作るんですから」
「そうか。そうだよな」
そーっと、味噌の乗った網を、煮立つ鍋に浸けた百合香ちゃん。
箸でぐるぐるかき混ぜている。回転の速度遅かったり速かったり、いまいち不安定で心もとない。
「やっぱり手伝お……」
「黙っててください! い、今集中してますから!」
「ご、ごめん」
怒られた。怒られたのに、俺の顔はニヤついている。こんな顔、キモいって分かってるのに……。
茶色くて意地の悪い味噌は、なかなか溶けない。小生意気なことに、百合香ちゃんに抵抗しているのだ。どこの味噌会社だ、百合香ちゃんに優しくしないこのクソ味噌を作ったのは。
「お兄さんに、美味しい味噌汁を」
ああ、その気持ちだけでもう十分だ。俺のために味噌汁を作ってくれてるその姿、それこそがすでに至福なんだぞ?
「溶けない。全然、全然溶けない。どうしようお兄さん」
困った顔を向ける。使命感が重荷になっているんじゃないだろうか。
「俺がやるよ。無理しなくてもいいって」
「……」
箸回しを止めて、停止する百合香ちゃん。メイド服が少し、窮屈そうに見える。
「やっぱりダメです。全部私がやるんです」
「強い意思だな。応援するよ」
「ほ、本当に?」
「ああ。頑張って」
ふぁあっと桃色に染まったほっぺた。
「あ、溶けてるぞ。味噌」
「私の脳みそのことですか?」
鍋じゃなく俺に視点が固定されてる。何か妙な思考回路に組み換えてしまった。
ぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつ
「やばい、吹きこぼれてるぞっ」「え? きゃ!」「火を弱めなきゃ」「私がやりますっ。えいっ」
ぐぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ
「逆逆、回す方向が逆!」「ご、ごめんなさい、えいっ」
ぐつぐつ……くつくつくつくつ……
なんとか吹きこぼれは抑制できた。ただ、百合香ちゃんが下を向いて、味噌しか入っていない鍋を見つめている。
「やっぱり、私には……」
もう諦めようとしている。まだ味噌しか入れてないのに。
「具なしラーメンってのもあるくらいだ。具なし味噌汁でも俺は十分だぞ?」
十分……ではないけど、一番最悪なのは百合香ちゃんがケガすることだ。もしそうなれば、学校から親に連絡が行き、俺との不純異性交遊が疑われ、百合香ちゃんが転校させられるかもしれない。同時に俺は退学処分となるだろう。
「そんな、具なしなんて。私のお兄さんに対する思いはこんなにたくさんあるのに、私が作る味噌汁には何一つ、思いのこもった具がないなんて」
「考えすぎだって」
「嫌ですっ。ねぎ切ります、お兄さんそこどいてくださいっ」
狭いシンク。まな板を置くスペースに手を置いて百合香ちゃんの勇姿を鑑賞してたもんだから、自動的に怒られる流れになってしまった。
「ねぎ、切れるのか?」
「切れます。たまねぎは切れないけど、ねぎはただ切るだけです」
小さな青ねぎでいいのに、不慣れな百合香ちゃんはぶっとい長ネギを買っていた。使い切る前に捨てる羽目にならなきゃいいけど。
「根っこは、お兄さん嫌いですよね?」
「誰だって嫌いだと思うな」
「分かりました、切り落として捨てます」
そう言って、包丁を握る。ねぎとの戦いが今、始まった。
高らかに振り上げられた包丁。白い蛍光灯の光をキラ、と不気味に反射させる。
「な、何をするつもり……」
「ええいっ」
バァン!
家中に響く、
「……」
「切れました! 簡単に切れました!」
このメイドは、だめだ。
俺が常識を教えねば。
「ちょっと百合香ちゃん、俺が手本見せるから見ててくれ」
「嫌、嫌ですっ。全部私がやるんですっ」
強情なメイドさんだ。本家のメイドならとっくにクビだろう。
「うーん……じゃあ、俺と一緒に切ろう。俺が百合香ちゃんの手を持って、どうやってどれくらいの力で切ればいいのか教える。どうだ?」
「お……お兄さんの手が、私の手に……?」
頬を桃色に染めて、あたふたする百合香ちゃん。
最初は可愛いと思っていたが、だんだんめんどくさくなっている自分がいる。
「また沸騰が激しくなってるな。もうちょっと火を弱めるか」
誰もいなくなっていたガスコンロに行って、つまみを回す。
「あ!」
「どうした?」
「私が全部やるって言いましたよね! なんでお兄さんがやってるんですか!」
「いいだろこれぐらい。百合香ちゃん気づいてなかったし」
「それがダメなんです! 完全な私のお手製じゃなくなりました!」
面倒だ。これだから女ってのは。
「つべこべ言うんじゃない。ほら、手を貸して」
強引に百合香ちゃんの左手をつかみ、背中に覆いかぶさる。
「ちょっ、お兄さん⁉」
また
「包丁を持ちなさい」
「な、なんかお兄さん、怒ってますか?」
「別に」
絶対に包丁でケガしないように、包丁を持った百合香ちゃんの右手を包むようにつかむ。
「力抜いて。ねぎ、何か月も前だけど切ったことあるんだ」
本当は人生で一度もねぎを切ったことがない。でも、百合香ちゃんよりは上手い自信がある。
「分かりました。お兄さんがそう言うなら、大人しく従います。私は従順な召使いですから。用済みになって捨てられても文句一つ言わない、都合のいいメイドですから」
手がふにゃふにゃになった百合香ちゃん。重力をモロに感じる。
これじゃ力を抜きすぎだ。何も覚えられない。
「そんなこと言ってたら、いつまでたっても上達しないぞ? ほら、左手を猫の手にして」
「猫の手って何ですか?」
「グーを握って」
俺に手首をつかまれた華奢な左手、その細い指がグーを握る。
「そのグーを、ちょっとずつ開いて」
つぼみが開くように、ちょっとずつ開くグー。
「はいストップ。その位置だと指先が第一関節で保護される。だがら指先を切らないで済む。分かるか?」
「……はい」
不満そうに返事する。きっと、全部自分でできないのが悔しいんだろう。でも、ケガだけは避けなければならない。
「切るときは、トントンって音が鳴るくらいでいい。トン、トン。これくらい。まかり間違っても、さっきみたいな勢いで切っちゃいけない」
「……はい」
不満げな百合香ちゃんの右手を支配した俺は、懇切丁寧にその右手に力加減を教え込む。
髪の毛から香るオレンジの匂いが、たまらない。こんな至近距離で嗅げるなんて。
手、柔らかいなぁ。細いし。こんなにも弱弱しい手、俺が守らねば。
俺の胸と百合香ちゃんの背中がくっついてるのか……あったかい、世界中どこの温泉よりもあったかい……。
百合香ちゃんのお尻って今、俺のコカンと至近距離にある……よな。…………ああでも前にあぐらの上に座られたことあったし、セーフ。でも、あれは百合香ちゃんから乗ってきたよな。今は俺から覆いかぶさる格好で…………
「お兄さん、手が動いてないですけど?」
「え⁉ あ、ごめんごめん! さて切ろう、ねぎを」
トトトトトトト
「え⁉ お兄さんこれ、速すぎるんじゃ?」
「まさか、そんなことは」
トトトトトトトトトトトトトトトトトトト
「速いです、明らかに速い……なんか怖いですぅぅっ」
「ニュートンの運動方程式dp/dt = F は、力が速度ではなく加速度に比例すると示している、力が大きくなることはないから。いや待て、ねぎを切る速度は -Aωsin(ωt) と表示されるならば加速度は -Aω^2*cos(ωt) 、角周波数が大きいわけだから加速度の最大値も大きくなり、力も大きい値を示し……」
「お兄さんねぎ切ってません、包丁が横に進んでませんっ、私の手がいっぱい動いてるだけですっ。お兄さんが変になっちゃった、どうすればいいのお兄さん、お兄さぁぁん!」
ダメだ。別種の危険が俺を襲っている。これは危険だ。
「ちょっと俺、トイレ行ってくる」
「え? じゃあ私は」
「俺が出てくるまでねぎ切っちゃダメだぞ! ちゃんと待ってるんだ!」
「は、はい! ⁇」
ぽかんとして、包丁を片手に持つ百合香ちゃん。殺人を犯した後の犯人みたいだ。そのポーズは怖い反面、偶然にもダメな俺に対する警告とも受け取れる。
醜い俺の俺め! 鎮まれ!
ということで、トイレに。
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