扉の外の世界

 目覚めたのはいつもの学習スペース。くぐもった雨音が、どこか懐かしく感じた。

 私はすかさず零花の名前を呼んだ。


「零花!」

「……………………」

「……………………………………」


「はぁああーーーい!!!」


 三回目ともなればもう驚きはしない。狂器とやらで瞬時に私の目の前に現れた零花と、堂々と対峙する。

 私の立ち振る舞いを見て、零花も何やら察しがついたようだった。

 だから今度はちゃんと、私からその距離を縮めた。

 それから、若干たどたどしい言い方で指示通りの言葉を伝える。


「その……第二フェーズとやらは終わったよ」

「……あぁ、はい、あ!そうですか!では、第三フェーズに移行しますっ!」


 零花は数秒思案した後、覇気のある宣言と共に、自らの制服のリボンをするりと解いた。そのまま襟元を優しく緩める。


 するとその華奢な首元に、小さな鎖が姿を現した。白いきめ細やかな肌と美しく調和する、黒い鎖。

 たぶん、ペンダントだ。


 零花はそれを首元から、その小さな鎖の感覚を確かめるように撫でた。そして、鎖骨から胸元へと落ちる鎖を、黒い袖から覗く細く小さな指先で手繰り寄せる。柔肌と鎖が擦れ、鎖同士も小さく当たって鳴った。沈黙のせいかそれは妙に妖艶な音色に感じられた。


 鎖の先には、鍵が付いていた。


 それはやはり黒い鍵だった。私の想像通りの形をしていて、まるで絵本で見るような、おもちゃの宝箱についていそうな、けれどそれでいてちゃちではない。錠を解き固く閉ざす──その役割を担うに相応しい、存在としての重みがある。


 零花はペンダントを首から外すと、その鍵を自らの掌の上に乗せた。


 そしてもう片方の手を翳すと、鎖が消えて鍵だけに。

 零花はそれを私に手渡してきた。


「どうぞ」

「……………」


 零花と私の手が触れる。

 零花の温度が残った鍵──あれだけ切望していた鍵を、私はようやく手にした。


「そんな女スパイみたいな隠し方ある?」

「えへへ…………」


 零花は頰を少しばかり朱に染めると、はだけた胸元を隠し、リボンを結び直した。



 それが隙に思えた──


「あ……あのさ」

「これで外に出て、校舎の屋上へ向かって下さい」


 ──けれど、やっぱりだめだった。



 私の語気の微妙な変化を感じ取るのか、零花は私が今の気持ちを吐露しようとすると、必ずそれを遮ってくる。

 仕方がなく、私は頷いた。


「屋上にはリョーヤがいるはずですから」

「りょうや?」

「はい。レインコートを着ていて、ぱっと見分かりにくいとは思いますけど。行けばあっちから声をかけてくると思います」

「…………そっか。そりゃ助かる」


 私はそう言い残し、身を翻した。そしてまっすぐ階段へと向かう。


「頑張ってくださいね!」


 零花の快活な見送りに、「やめてよ」と、そう胸の内で返事をし、後方に手を振った。

 追いかけてくる足音はなかった。




           ◇













 私は目の前にある硝子の扉に触れた。


 そこから伝わってくる温度は、酷く冷たい。


 けれど、硝子など常日頃から触り慣れているから、別に大した感想は浮かばなかった。


 硝子は知っている。


 だから納得できる。


 許容できる。


 そして私は今、“狂器”という概念すら許容できているのだ。


 だからそのせいだ。この扉を開け、外に出る事に躍起になっていたあの時とは、私の心持ちはまるで別のものになっていた。

 私の関心は既に扉にはなく、扉の向こう側にある。


 果たしてそれは一体何を意味するのか。その答えはきっと単純だ。

 私は変わったのだ。



 “佐藤理雨”は狂器という概念を知り、“狂器という概念を知った佐藤理雨”になった。



 それだけだ。


 そしてそれはもう、別人と言って差し支えないのかもしれない。


 それくらい、明確な変化だ。


 私は手に持っていた鍵を、あの忌々しい鍵穴に差し込んだ。回すと、カチャリという軽い音と共に、鍵は静かに砕けた。

 私は再度扉に触れる。

 扉は依然として硝子でできていて、依然として冷たいままだった。ただ硝子そのものの温度を伝えてくるだけで、その向こう側の温度を全く教えてはくれない。


 この硝子の扉の先の世界は、既に私の知っている世界ではなくなってしまっているのではないだろうか。ふとそんな風に思った。


 扉を開くと、そんな漠然とした恐怖が、隙間から流れ込んでくる雨の香りと共に私を包んだ。

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雨色の独り言 りう @riu_306

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