時間の流れ
「ちょ……………どういうこと?」
驚愕はしっかりと時間をかけて、私の全身を巡った。
体感の時間では、既に一分は過ぎている。
なのに、目の前の幼気な少女は未だニコニコと笑みを浮かべているのだ。
──時間が巻き戻っていない。
いや、まだ一分は経過していない。そう解釈するのが妥当だろう。
私の握っているアナログ時計は、五十五秒を指したままなのだから。
さらに、
「外を見てください」
そう言われたので、振り返って硝子窓の外を見ると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
「は………………………………………?」
雨夜の景色が、まるで氷漬けにされたように固まっている。
無数の雨粒が夜闇の中、空中に固定されていて、それが鮮明に観察できるのだ。
雨音はなくなり、図書館には本物の静寂が満ちていた。
ただ自分自身の心音が僅かに聞こえるだけ。
「なに…………これ…………」
手から時計が落ち、散々時間を要して溢れた声がこれだった。
それに零花はクスリと笑ってから、
「ただ、時間の流れを遅くしているだけです」
「…………はぁ。…………はぁ?」
当たり前のように言っているけれど、それはつまりどういう事?
「一秒を四百倍。つまり残り五秒で、約三十分ってとこですね。そんなに驚く事でもないですよ」
その言葉を受け、私は改めて外の景色を慎重に観察した。
雨を一粒凝視。
すると、それはゆっくりではあるけれど、確実に重力によって落下していた。この季節に似合うカタツムリのように、空中をノロノロと。
雨はかなり動きが鈍くなっているだけだ。止まっているわけではないらしい。
「…………………へぇ………凄いね」
私は引きつった笑みを浮かべた。
でも確かに、今更こんな事では驚かない。こちとら既に、時間の巻き戻りを何度も経験しているのだ。時間をゆっくり進ませるなんて、寧ろ簡単そうにすら思える。
「でしょう?」
「……………うん」
けれど、そう思えてしまった私は、私の中で何かが決定的に変わり始めている事に気がついた。
◇
「一応確認しておきたいんですけど、零花を呼んだって事は、パソコンにログイン出来たって事ですよね?」
「うん」
「どれくらいかかりましたか?」
「いやぁ、覚えてない」
私が正直に答えると、零花は椅子に飛び乗って私の頭を優しく撫でてきた。
「そうですか。それはお疲れ様でした……」
「どうも……」
「なら大丈夫です!では、早速始めましょうか!」
「……え?はい。お願いします……」
零花の一挙手一投足は推測が出来ない。だから、彼女の突発的な発言や行動に、私はいちいち驚かなければならなかった。
零花は、無邪気な子供と形容するのが適切だろう。決して感情の起伏が激しいわけではないが、喜怒哀楽が顕著に現れる。私や、その他の人間のように、思っている事を隠したり誤魔化したりしていない。
純粋無垢で、清廉潔白。出会った当初、純度百パーセントと自称していた意味が、ここにきて何となく分かった気がした。
そんな純粋な零花に、私もすぐさま純粋な問いをぶつける。
「………何を?」
「理雨さん、少し目を瞑って頂けますか」
「………分かった」
言われるがままに私は目を閉じた。
◇
今は時間がゆっくりと進んでいるせいか、雨音が全く聴こえない。
だから目を瞑っただけで、恐ろしく何もない場所に放り込まれた気分になった。
なんだか、タイムリープする瞬間に感じる、空白の間に似ている。
私はそう感じると、ひょっとしたらまたタイムリープしてしまったのではないか、と連想してしまい、思わず口を開いた。
夜中、トイレに起きた子供がドア越しに母親がいるのを「ねぇ、いる?」って確かめるみたいに、
「ねぇ、まだ?」
けれど、杞憂だった。
「もういいですよ。どうぞ、目を開けて下さい」
そうちゃんと返事が返ってきたため、私は目を開けた。
すると、
「ふぁお…………」
私が海外の人っぽいリアクションを取ってしまったのも無理はない。
そこには西洋の庭にありそうな黒いアイアンテーブル一脚。それと黒いアイアンチェア二脚が向かい合わせで並べられていた。
テーブルの上にはテレビなんかで見た事のある、アフタヌーンティー用のスタンドがあり、三段の皿には色とりどりのお菓子が並べられていた。
カヌレ、マカロン、タルト、クッキー、ドーナツ、エトセトラ。もっとちゃんとした名前があるのだろうが、菓子に然程詳しくない私には分からない。けれど、どれも見た事はある。
高級なお菓子屋さんのショーケースの中身をごっそりテーブルに並べたような光景が、眼下には広がっていた。
さらにティーカップからはいつのまにか湯気が立ち上っていて、紅茶の香りが私の鼻孔をくすぐった。
その出来事にぽかんとしていると、零花はさも当たり前のように、
「お茶にしましょうか」
「は?」
「ティーパーティーです」
「いや、何言って……」
「まぁまぁおくつろぎください!」
ぐいぐい手を引かれ、その硬い椅子に座らせられる。
零花は向かいに座ると、ずずいっとこちらに身を乗り出してきた。
「理雨さん砂糖入れます?あ、コーヒーの方が良かったですか?それともお抹茶?ジュースもありますけど、今はなんとなく温かい飲み物の方が良くないですか?どうします?」
「…………いや、え、紅茶でいい……けど…………」
私は気圧されながらも、若干引き攣った笑みで簡潔に答えた。
「そうですか」
「…………始めるって、これ?」
「はい」
「そう……」
どこからこの豪華なティーセットを出したのか、という新たな疑問が浮上するも、私はとりあえず黙って様子を窺う事に。
「…………………………………………」
零花は、素手でむしゃむしゃとお茶受けを食べ始めていた。たぶん行儀は良くない。向こうの人がどういう作法でティータイムを嗜むのかは知らないけれど、少なくとも目の前の少女のように小学生の三時みたくお転婆ではない。
すると、突然零花は手を止めた。そしてにっこり満面の笑みで、
「…………ほら、遠慮せず食べてくださいよ〜。疲れた身体には甘いものが一番ですよ」
口の周りにクッキーのカケラを引っ付けて、そう純粋無垢な瞳を向けられても困る。
「あ、もしかして上品な甘味が好みですか?和菓子ですか?ですよね?」
間髪入れずに、私の意向を勝手に自分の憶測から汲み取った零花は、即座に私の前に和菓子の数々を差し出してきた。
「うわっ……………」
ただ、それらもどこから出てきたのか分からない。
一瞬だった。なかったはずの皿には、最中、羊羹、饅頭に団子が綺麗に並べられている。
「………………び、びっくりやわぁ」
「他に何かオーダーがあれば言ってくださいね」
零花はまたもお菓子を食べ始めた。
和菓子から京都が連想されたからって、京言葉っぽい言い方でリアクションするのはあまりに安直だったんじゃないの私。と心中で反省する余裕は私にはない。
私は飛び込んでくる情報を整理するので精一杯だった。脳内キャパシティが悲鳴を上げている。完全にフリーズ状態だった。
それに構わず零花は、
「……食べないんですか?」
ハムスターみたく、頬っぺたにお菓子を詰め込んだ状態でキョトンと小首を傾げた。
「せっかく不思議な空間に迷い込んだんですから、不思議の国の誰かさんに倣って、ここは可憐な乙女としてお茶会イベントはこなしておくべきですよ?」
「可憐な乙女て……」
年下の少女にお世辞を言われて複雑な気分。それに、世界中で知られる不思議の国の美少女さんと並べられても困る。
「ていうか確かあれ、終わらないお茶会とかじゃなかったっけ?置かれている状況的にあんま笑えないんですけど……」
時間ループで終わらないお茶会を再現、なんて勘弁して欲しい。
そんな私の危惧に、しかし零花は口に入っていたお菓子を急いで飲み込んでから、冷静に微笑んだ。
「……まぁ、休息をとって下さいって事です。ここまでくれば、あともう少し頑張るだけですから」
「……………」
尚も変わらない私のじとっとした眼差しを受け、零花は手でお茶を勧めてくる。
「大丈夫ですよ。この状況を理解していただく為のお話も、ちゃんとさせていただくつもりですから。これはそういう場です」
「まぁ…………それなら」
それならば、文句はない。
全てを知っているらしい零花は、どうやら私にこの状況の解説もしっかり行ってくれるらしい。
郷に入っては郷に従うべきだと聞く。この非日常に閉じ込められている以上、瑠璃川零花という不可思議な存在に従う事が最善なのは自明の理だった。
ここは彼女のペースに合わせるのが最善だ。
私は素直にティーカップを持って、ゆっくりと口元に運ぶ。すると、その馥郁たる香りは一層濃くなり、今まで樹海と形容していた図書館は、一瞬でお花畑のような開けた場所に変貌したように思えた。
近づいてくる湯気と共に、私は紅茶を一口ちびりと口に含んだ。
「…………美味しい」
私は別に、お茶の何たるかをわきまえているわけではないが、これが上質な代物だという事だけはすぐに分かった。
お洒落なものには疎い私でも、零花の作り出したこの空間だけは本物で、混じり気のないものだという事を認識させられる。
紅茶の香りは私の肺を満たし、館内に堆積している紙の香りを暫く忘れさせてくれた。
その余韻に浸っていると、零花は少し声色を落ち着かせて、私の顔を真正面から捉えた。
「では僭越ながら、理雨さんを取り巻いているこの状況について説明させていただきます。あ、お菓子もどうぞ〜」
零花そう言って、私の前に猫や犬を象ったクッキーを差し出してきた。
私は仕方なく、且つ遠慮なく手に取ってぱくり。
「んま……っ!」
美味しい。基本的に甘いものは好きなので褒めるつもりでいたのだが、これは予想以上。
今食べたサクサク系の他にしっとり系もあるようなので、両方堪能するべく手を伸ばした、が。
「──!」
私は手を止めた。
そういえば、このクッキーは出所不明なのだった。私の知らぬ間に、この場に突如出現した謎のお菓子の一つなのだ。
当然そんなものには不安要素がつきまとう。
でも食べてみたい。
でも得体が知れないので怖い。
「………」
私が葛藤で手をぷるぷるさせていると、零花がぽんと手を打つ。
「そうですね。このお菓子を使って説明するの手っ取り早いでしょう」
居住まいを正した零花の黒い双眸は澄み切っていて、私は思わずお菓子に伸ばしていた手を下げてしまう。
「理雨さんにはここで、ある概念について知っていただく必要があります。これを知っていただけば、理雨さんの大抵の疑問は解決しますよ」
その真剣な声音に、私は甘さが残る生唾を飲み込んだ。
「それは、“きょうき”についてです」
◇
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