気持ちいい遊び

 二十時五十九分五十九秒の私はさぞ驚愕する事だろう。


 その僅か一秒後の二十一時丁度の私には、数時間分の疲労が突如としてのしかかるのだから。

 そんな二十一時を迎えた私は途方に暮れ、お馴染みの場所から窓の外を眺めていた。

 あれからどれほど経ったのだろうか。


 つい一分前の、二十時五十九分の記憶さえあやふやになってきている事に気がつくと、私の胸の内に蟠る不安と焦燥が、あらゆる神経を伝って全身を駆け巡った。


「はぁ…………………」


 私はそんな感情に抵抗出来ず、呻くような短い溜息を吐き、そして考えるのを止めようとした。

 けれど図書館の静寂は、私の良くない妄想を掻き立ててきて、私はやっぱり現状からは逃避すら出来ないのだと悟ってしまう。


「逃げ道ないのはキツいわぁ」


 逃避出来なのなら向き合うしかない。だが、停滞に向き合うのは酷く恐ろしい。

 だから私は懸命に考えた。

 まだ私にできる事はあるはずだ。


「でももう、あとどこを探せっていうの」


 館内は十分隅々まで調べたつもりだ。

 もっと根気よく、本の間を一冊一冊隈なく探すとか、そこまでしなければいけないのだろうか?

 いや、それしかないのならば、それをするしかないのだろうが。今の私は、途方もない道のりをがむしゃらに突っ走れるほどスタミナを残してはいない。


 “今は出来ることに全力を尽くす”。少し前までそんな風に息巻いていた私は、残念ながらもうすっかり意気消沈している。

 やはりあの決断はリスキーだった。結果が伴わなければ、多大なる徒労感が私を襲う。

 徒労感は私にとって大敵だ。


 それに押し潰されそうな私は、許容出来ない現状にただポツリと取り残されている。

 私はすっかり座り慣れてしまった椅子に、だらけて全体重をかけた。


 薄目で時計を確認すると、生産性のない一分がもうすぐ過ぎようとしていた。


「…………………そうだ」


 ふとそこで、私は一つある事を思いついた。でも、事態を好転させるような思いつきではない。

 ただのその場しのぎ。ストレスの発散である。


 私はおもむろに立ち上がり、机のアナログ時計を掴んで、思い切り身体を捻った。そして吹き抜けめがけて、力任せに時計を放る。



「死ねぇーーーーっ!」



 私の雑な暴言と共に、時計は綺麗な放物線を描き、落ちて、落ちて、落ちて、すぐにガシャンという切なく無機質な音を館内に響かせた。


 案外気持ちがよかった。

 どうせ元どおりになるのだから、これくらいいいだろう。




           ◇




 目の前では、今しがた二階から投げて壊したはずの時計が、二十一時丁度から秒針を進ませていた。“ただいま”と言わんばかりに。


 私はその時計を、間髪入れずに再度投げた。一階で、プラスチックが割れる安い音が鳴った。

 それから頬杖をつき、卓上照明のスイッチをカチカチと弄る。けれど明滅する光が鬱陶しくなって、すぐにやめた。


 光が消えると辺りは一層暗く感じられた。


 ずっといた場所なのに、時間は一分も経っていないのに、この図書館は以前よりもずっと静かで切ない空間に変貌していた。

 すると、今までずっと考えるのを避けてきた心配事が、胸の奥を締め付けながら、気管を逆流するみたいに言葉になって溢れた。


「……………どうなっちゃうんだろ、私」


 もしもこのままだったら、という漠然とした疑問。

 こんな状況に陥れば、私でなくとも必ずこの問いに行き当たるはずだ。

 もしもの話ほど無駄なものはないから、私は普段ならばこんな事、考えようとはしない。だが、この状況では流石にそうもいかないらしい。



 ────もしも脱出出来なかったら?



 答えは明白だ。もしもこのままなら、現状を打破できないのなら、私はいずれ狂気に染まるだろう。



 そして、いずれは………………………………………………………………………………………。



「あー!やめやめ!」


 不毛な妄想が、行き着くところまで行き着いてしまったので、私は髪をわしゃわしゃと掻き乱した。乱れた髪が口に入り、咄嗟にペッと吐き出す。そのまま項垂れながら時計を確認。

 しかしそこに時計はない。


「あぁ、壊したんだった」


 私は立ち上がり、歩いて、吹き抜けからロビーを見下ろした。

 眼下には、小さなプラスチック片が散乱していた。時計の針が動いているか否か、私の肉眼でそれは確認出来なかった。

 それでも、「ざまあみろ」と負け惜しみみたいな悪口が溢れる。瞬間、少しだけ気持ちが楽になった。

 物を堂々と壊す行為なんて滅多に出来ない。そのなんとも背徳的な心地よさに、おそらく私は少しばかり惹かれているのだろう。


「………次もやろ」


 時間が巻き戻る故の娯楽。憂き身をやつすような行為だと分かってはいても、あと何回かは飽きずに続けられそうだ。

 それに、ストレスの蓄積は身体のパフォーマンスに深刻な影響を及ぼす。


 自分を巧く扱ってやるのも無駄を省く為にはかかせないから、この終末的娯楽は決して無意味じゃない。

 非生産的だが、無駄じゃない。




           ◇




 というわけで、第三球!

 新たな六十秒がスタートした瞬間、私は気持ちを無理矢理切り替えて、椅子からバッと勢いよく立ち上がった。さらに、自身の逞しい妄想力を駆使して、図書館内に瞬時に球場を創り出(イメージ)した。


 妄想の観客は、全員が固唾を飲んで私を見守っている。

 野球には正直毛ほども興味がないので、“ツーアウト満塁”という、私でも思いつくベタなシチュエーションを用意。

 そして見える見えると念じれば、私の正面──図書館中央を貫く螺旋階段の手前辺りにバッターボックスが見える!むっきむきの強面打者と、キャッチャーミットを構えた仲間が見える!

 私はキャップの代わりに、制服の下に着ていたパーカーのフードを被った。それをくいくいっと整えつつ、(エア)ロジンバッグを手に取って、粉が手に馴染んだっぽい所で、その手に例のアナログ時計を握る。


 その時には既に“私コール”が始まっていた。妄想の観客が全員「理雨!理雨!」と声援を送ってきてくれていた。私も口でぽそぽそ「りーう、りーう」と同じコールを呟いて、己の士気を高める。

 スポーツ観戦をほとんどしない私は、なんとなくのイメージでプロっぽさを意識した。

 左脚を思いっきり上げて振りかぶる。

 その時、脚を上げたせいで制服のスカートが捲れた。

 結構捲れた。


 でも気にならない。

 そのまま体重移動。


「だって、独りだしーーーーーっ!!」


 叫びながら、振り上げた手を思い切り振り下ろした。


 瞬間、目の前の妄想の光景は霧散。


 そうだ──ここには私を応援してくれる観客はいない。相手打者もいない。私のぱんつを見る人なんてもちろんいない。


 私の妄想力は、肝心な所で力尽きてしまったらしい。


 急に舞い戻ってきた孤独な現実。


 慣れないフォームで投球なんてしたものだから、体重を全部請け負った左脚がブレーキをかけ切れずに、私はつんのめる。咄嗟に右脚を前に踏み込むも、その時腰の辺りで嫌な音が鳴った。


「かはッ……!?」


 喉から変な声も出た。


 そして、へろへろと力無い山なりのボール(アナログ時計)の行く末を、私は見届ける事がないまま床に倒れこむ。

 その拍子に肺が圧迫されて、声にならない呻き声が漏れた。

 日頃の運動不足が祟った。身体のそこかしこがちょっとだけ痛む。


 それと、こんな事をしても誰も笑ってくれない事に、心がほんの少しだけ痛んだ。

 私はうつ伏せ状態のまま、そこを感情の捌け口にしてやろうと床を叩く。


「わたしの、ぱんつを、みてよ」


 今日のは、お気に入りの水玉模様のものだ。水玉というより、雨粒をモチーフにしているので、雨水玉模様と呼ぶのがいいかもしれない。


 けれど、そんな私の自慢のぱんつを見てくれる人は、ここには誰もいない。


 本来見せびらかすものじゃないけど、今はもう寧ろ見て欲しい。

 見られたら、私は安心すら出来るだろう。


 倒れた態勢を一切崩さず、動いた拍子に乱れた服装はそのまま。ただ一箇所動いている手は床を叩き、虚しい音を館内に響かせている。


 孤独に追い込まれた残念な女子高生の、可哀想でだらしない有様がそこにはあった。




           ◇




 きっと、さっきの山なりへなちょこボールは、あの豪腕打者によってホームランに変えられてしまったのだろう。延長戦にもつれ込み、試合は未だに続いている。


 こうしてまた新しい六十秒が始まっているのだから間違いない。


 机の上に帰ってきた時計を眺めて、私は溜息を吐いた。


「はぁ……」


 ものに当たるのも大概にしろ、という誰かからのお告げだろうか。腰をやってしまった痛みは消えていたが、醜態を晒したせいで精神的にはダメージが残っていた。


「あっはは……」


 無理に笑おうとしたら、乾いた声が漏れた。

 誰も私の醜態を笑ってくれない状況で、私でさえ自分を笑ってあげられない。

 唯一の娯楽である破壊に、既に飽き始めていた。これは、元々飽きっぽい性格の私も驚く程のスピードだ。

 そして飽きてしまえば、目をそらす事は出来なくなる。


「どうしよう…………」


 またしてもこの問いに直面した私は、これに答えが見出せない事を知っている。だから私は逃げるように、やけに重く感じる脚を動かして席を離れた。


 余計な思考を排除する為に向かったのは、一階を見下ろす事ができる吹き抜け。階段脇の手すりに腕を置き、その腕に顎を乗せて、正面の硝子越しにある風景を眺める。


 ここから見えるのは、渡り廊下と校舎の一部分。


 たった一枚硝子を隔てているだけなのに、その当たり前の景色が、とても遠くにあるみたいに感じられた。


「はぁ………」


 ふとそこから一階を見下ろしてみる。改めて見ると、二階からでもかなり高さがあった。

 思わず脚が竦んでしまう。



 ──いっそここから飛び降りてしまおうか。



 それは私が、その選択肢に想到するのに十分過ぎる光景だった。

 前々回の六十秒でここを見下ろした時、落とした時計が無残な姿になっていた事を想起する。

 この高さでは中途半端に怪我をして、余計苦しむだけの結果が待っていそうだが、打ち所が悪ければ、或いは──。


「………………なんてね」


 私は口端を無理矢理上げて、戯けて見せた。馬鹿な事を考えている自分に対して。




           ◇

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