第1章
繰り返される二十一時
時間は有限で、個人に与えられる分なんて本当に微々たるものだ。
だから私は、それを他人の為に使うつもりは全くないし、これからもずっと私自身の為だけに使い続けようと思っている。誰にも分け与えてやる気はない。
私がこんなにも醜く腐った信念を抱くようになったのはいつの頃からなのか、もう記憶に定かではないが、既に今の私がこの信念に侵されている事は紛れもない事実だった。
ただ、私はそんな自身を変えたいと切に願っている。
けれど現在に蔓延る事実は、残念ながら覆しようがない。時間を巻き戻せば、あるいは変えられるかもしれないけれど、どこまで戻せばいいのか分からないのなら、やはりそれは変えられないのと同義だ。
仮に分かったとしても、そんな重要なターニングポイントが、一分前であるはずもなく。
──だからこれは無駄だ。
すぐにそういう結論に辿り着く。
実際に本当に無駄な一分間を、何度も過ごしてしまった。
私はそれを許容し始めている自分に嫌気がさして、出口へと向かった。
ここは気味が悪い。
今は夜だから、私の居る図書館には人の気配が全くない。おまけに今日は雨が降っていて、寂寞とした温度が壁からジワリと内側に滲み、溶け込んできている。紙が木から造られている事を考えると、この空間は死を匂わせる樹海を彷彿とさせた。
危機感は募るばかりである。
私はここから早々に退館するべく、出入り口である硝子戸の前に立った。
硝子戸を隔てた向こうは雨のせいで霞みがかかっていて、遠くまで見通せない。もう六月も後半に差し掛かったが、梅雨が明ける気配は全くなかった。
そしてそれに惹かれるように、銀色の取っ手に手を触れる。
力を込めた。
しかし、扉は開かなかった。
分かってはいた。ここは、何より一番最初に調べた場所だったから。
私は硝子戸を前に目線を落とす。
視界に捉えたのは、深く深く、底知れぬ程暗い色で鈍く光る、黒い穴だ。本来サムターンがあるべきであるそこには、鍵穴がある。
その揺るがない現実に私は唇を浅く噛み、ただ雨音に耳を傾けている事しか出来なかった。
私はどうやら、外に出ることを許されていないらしい。
閉じ込められているのだ。この図書館に。
──この奇妙な、時間の檻に。
刹那、外でしとしとと寂しげに降る雨が、夜の空気にじんわりと溶けた。正面の硝子が曇り、曇り続けて私の視界を塗り潰す。
最後に見たのは眩い光で、聴いたのは鼓膜を劈く程の轟音。
私の意識は、そこで一旦プツンと途切れた。
帳は落ちたばかり。
今日は、とても長い夜になりそうだった。
◇
気がつくと、私は図書館二階の学習スペースにいた。
依然、ここは図書館だ。
夢などではなく、私は目覚めてもベッドの上にはいない。
椅子に腰掛けていた。
本来ならば温かみのある木製の椅子なのだが、今はそんな温もりは感じられない。
椅子に加工された木は既に死んでいる。腰から背中にかけて伝わる温度は、そんな不躾な印象を私に与えてきた。
私はそんな捻くれた印象を受け入れ、暫くそこに座りこんでいた。
身体に疲労は溜まっていないはずなのに、なぜか酷く重い。
それなのに思考は鮮明に冴え渡っていたから、私はどこにも逃避する事ができず、ただこの現実に直面している。
この中に閉じ込められてから一体どれくらいの時間が経過したのか、私はもう分からなくなっていた。
ただ絶望的な事に、もうすぐ一分が経過する事を私は理解していた。
────まただ。
私がそう直感した刹那。
唐突に揺さぶられる意識。
歪む視界。
体温が外気に溶け出してしまうような、不可思議な感覚。
そして、聴こえる凄まじい轟音。眼に映る眩い閃光。
音や光の正体は分からない。ただ、それを感じ終える前に、私の世界は正常に再構築される。
◇
瞬間で冴え渡る意識。
私は依然として同じ椅子に腰掛けていた。
視界には見慣れた勉強机と、硝子を隔てた雨夜の景色。振り返ると、そこには私の座っている物と同じ椅子と机が数脚整然と並んでいて、ここが図書館二階学習スペースであるいう事をはっきりと認識させられる。
目の前の机に置かれているのは、白を基調としたちゃちなアナログ時計のみ。プラスチック製で壊れやすい。裏を見るとツマミがあって、たぶん目覚まし機能でも付いているのだろうと思った。
そして、鋭い字体の数字に囲まれた時針分針秒針が、現在の時刻を示している。
針は直角。丁度二十一時を指していた。
「はぁあぁぁぁぁぁ………………………」
私はそれを見て深く深く溜息を吐いた。肺の空気を全て吐き出すくらいに。
苦しくなって息を吸うと、今度は館内に充満している紙の香りが私の肺を満たした。
「なんで、学校なんて来ちゃったかなぁ…………」
頭を抱え、ここにやって来た事を激しく後悔。
「すみませーん、もう解放してくれませんかー?」
天を仰ぐように首を擡げても、機能していない天井照明が無言を貫くばかり。代わりに先程からアナログ時計の秒針が、煩く不快に拍子を取ってくる。律動的に、確実に、思考を掻き乱すその音が、私は鬱陶しくて仕方がなかった。
それでも秒針は、そんな私に構わず無慈悲に進む。
時刻は二十一時。それと五十秒。
チクタクという音色がやけに大きく響く。秒針は私の焦燥を掻き立てた。
私は堪らず、行くあてもなく走り出した。出口を目指す。
背後で椅子が倒れた音がしたが、そんな事は気にもとめず、図書館中央を貫く真っ白な螺旋階段を駆け下りた。
迫り来る何かから逃げ惑うように自然と歩幅が大きくなり、それに追いつけない私の鈍間な身体は、躓き、態勢を崩してしまう。
「ッ───!」
硝子戸の前に倒れ込んだ私は、闇雲に扉の方へと手を伸ばす。
だがその手は、雨にも、扉にさえも届かなかった。
次の瞬間、またも私の世界は轟音と閃光の始まりと共に崩れゆく。
朦朧とする意識の中、硝子戸の先の景色がぐにゃりと曲がり、どろどろと溶ける。
やがて、自分の肉体と周囲との区別がつかなくなった。
◇
「……………………………はぁっ………!」
肌をじっとりと撫でる空気で意識が冴え渡った。
目の前の景色は相変わらずだ。
ここは図書館二階学習スペース。机と椅子だけの空間である。
分かってはいても、目の前に否応無く存在するのだから、私は嫌でも時計を確認してしまった。
針が示すのは、二十一時丁度。
時間は進んでいない。
そしてまたも、一分なんてあっという間に経過してしまうのだった。
「勘弁してよ……………」
◇
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