第89話
店の中に入るとシンプルな着物姿の上品な女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。日向様。お待ち申し上げておりました。」
綺麗なお辞儀で迎え入れてくれる。
って、お待ち申し上げておりましたって、どういうことだろうか。
「うん。遅くなってしまってすまないね。今日は私の息子に似合う着物を用意して欲しいんだ。」
父さんも驚くことなく普通に接しているし。っていうか、遅くなってしまったって謝っているのはどういうことだろうか。
まるで、最初からここに来ることが決まっていたような言い方だ。
「父さん?」
オレは不思議に思って父さんを見上げる。
すると、父さんは柔らかな笑みを浮かべていた。
「なにも心配いらないよ。着飾った美琴ちゃんにももうすぐ会えるからね。優斗くんも着飾ってもらうといいよ。」
「さ、優斗様こちらへ。」
「え?あ、はい。」
オレは困惑しながらも女性についていく。その後ろでは父さんがにこやかに手を軽く振りながらオレを見送っていた。
「お色は何色がよろしいでしょうか?優斗様は肌がとてもきめ細かく白いのでどの色でも似合うと思われますので、お好きな色を選ばれるとよろしいかと思われます。」
店員の女性は菊池さんという着物の女性だ。
菊池さんがオレにいろいろな着物を進めてくる。
濃い色の布地が多く用意されていた。
その中でも一際黒く輝きを放つ黒い着物があった。
触ったらとても滑らかそうにも見える。
「あちらの黒いお着物が着になりますか?」
「あ、はい。」
流石にプロの接客業だけあって、オレが気になった着物がすぐにわかったようだ。
あの黒い着物はなぜか不思議とオレの心を引き付けるような気がする。
「試着してみましょうね。」
菊池さんはササッと着物を持ってくるとオレの身体に充てる。
「お洋服を脱いでくださるからしら?」
「ここで、ですか。」
「ええ。ここで。こちらは個室になっておりますので、誰も入ってきません。安心して試着いたしましょう。」
ニッコリ笑って菊池さんが告げる。
場所は6畳ほどの和室だ。
部屋のあちらこちらに和装の小物が整理整頓されて置かれている。
とても、試着室だとは思えないのだが・・・。
試着をということだったが、着物なので一人で着ることができずに、菊池さんに着せてもらった。和装は自分で着れないのが難点だ。
人に着替えさせてもらうのは小さな頃だけで。物心つくころには自分で着替えをおこなっていたから変な気分だ。どうにも居心地が悪い。
だが、自分一人で着替えることができないので仕方がないけれど。
っていうか、オレなんで流されて着物を着せてもらっているのだろうか。
今さらながらに自分に対してツッコミをいれる。
「まあ。とてもお似合いですよ。お見合い相手の方もこんなに素敵な優斗様のお姿を見てしまったら一目惚れしてしまいますわね。」
試着をしたオレの姿をすかさず菊池さんが褒めてくる。
この年で女性に裸にされた羞恥で、菊池さんの言葉に力なく笑う。
褒められてもなんだか嬉しくない。
お見合い相手に一目惚れされたって嬉しくないし。
・・・あ、あれ?
お見合い相手?
どういうことだ?
「菊池さん、あの・・・。」
「優斗くん。どうだい。気に入った着物は見つかったかい?」
菊池さんの言葉に疑問を持ったオレが、菊池さんに詳しく尋ねようとした時に、個室に父さんが入ってきた。どうやら待ちきれなくて様子を見にきたようだ。
「日向様。優斗様は何を着ても似合いますわね。このお着物を着た姿もとっても素敵ですよ。」
「ああ。本当だね。優斗くん。とっても素敵だ。それに、菊池さんとても良い着物を選んでくれたようだね。やはり菊池さんのセンスには脱帽するよ。」
「まあ。ありがとうございます。でも、こちらのお着物は優斗様がご自分で選ばれたのですよ。優斗様はお着物を見る目があるのですわ。」
「そうか。優斗くん。とても似合う着物が見つかってよかったね。では、菊池さんこの着物を着て行こうと思うから微調整をお願いできるかな?」
「ええ。もちろんですわ。私にお任せください。」
菊池さんはにっこりと笑って父さんに答えた。
っていうか、微調整ってなに?
これじゃダメなの?
問題なく着れていると思うんだけど。菊池さんが丁寧に着付けしてくれたし。
「優斗くん。菊池さんに任せておけば安心だからね。菊池さんの言う事をよく聞くんだよ?」
「え。あ、うん。」
ていうか、どういうこと?父さん。
菊池さんに任せておけば安心だって。まあ、確かに着付けが上手いからなんだろうけど。
でも、菊池さんの言う事をよく聞けとはいったいどういうことなんだろうか。
「さ、優斗様。もうお時間があまりないのでお仕度を整えましょうね。」
戸惑っているオレに、菊池さんはそう言ってから、オレはもう一度菊池さんの手で裸にされた。
そうして、着物を先ほどよりもきつく締め付けていく。
「く、くるし・・・。」
「我慢なさってください。お着物は着崩れしやすいのでしっかりと着付けをしないとなりません。少しキツイくらいでないとすぐに着崩れしてしまいますよ。」
そう言って菊池さんは遠慮なしにグッグッと締め上げていく。
「さ。できましたよ。これで完璧です。」
そう言って笑った菊池さんの笑みは、仕事をやり終えて満足したという表情をしていた。
・・・オレはぐったりとしたけどね。
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