第90話 大好き
「ん……とっても美味しいわ」
頰にかかる髪を耳にかけ、蒼太の手から移されたおかゆを小さな口で咀嚼している小雪。
それでも食べるペースは普段の2倍以上に遅く、ゆっくりと自分のペースで飲み込んでいる。
39度近くの熱が出ているも関わらず受け答えがしっかりとできているのは、蒼太という看病役がついたことで心によりどころができたからだろう。
「焦ることはないですからね。そのままのペースで大丈夫ですから」
「ええ、ありがとう……」
そんな会話もあり——看病は順調に進んでいると思われがちだが、実際のところはそうではない
「あの……。それで一度謝らせてほしいんですけど、食べさせるのが本当に下手ですみません。このようなことには全然慣れてなくて……ですね……。申し訳ないです……」
「気にしないで大丈夫よ。少しずつ成功率は上がってるでしょう?」
「そ、そうですけど……」
「それに、いくつティッシュを使うのか楽しみにしてることでもあるから」
「ちょ!? ……って、風邪を引いているんですから俺をからかうことに力を使わないでください」
「ふふっ、こほっこほ……」
「ほら、そうなっちゃうんですって」
全貌はこれ。小雪に『あーん』をして食べさせている蒼太だが、上手に食べさせようとすればするだけ手は震え、開けられた口に上手く運べなかったりしたのだ。
その結果、口の端にお米がついたりなど……ティッシュで拭く手間をかけてしまったのだ。
しかし、こればかりは慣れる以外にはないこと。
看病の中でもご飯を食べさせるような経験は今回が初なのだ。その初めての相手が新しい一面を見せて甘えてくる美人な小雪なのだから……。
「ついさっきわかったわ。ソウタさんが『看病をさせてもらえませんか?』って許可を取った理由。……こほこほっ、このようなことに自信がなかったから強く出られなかったのね」
「あ、あはは……全部バレてるんですね。
「……世渡り上手よね、ソウタさんって。そんな方が看病に慣れていないのはちょっと疑問だけれど」
「その年齢で成功を収めてる小雪さんの方が世渡り上手ですよ。俺なんかじゃ辿り着けない領域ですから」
20代後半ながら高級車のアウディーを乗りこなし、人ひとりを養えるほどに貯金もある小雪。それでも人を見下したりはせず、変なプライドもない。
蒼太の言葉はある意味正しいだろう。
「あの、それで話を戻すんですけど無理しておかゆを食べなくていいですからね。残していただいて全然構いませんから」
「ううん、全部食べられるから平気よ」
「そんなことないでしょう? 俺の食べさせ方が下手ってのもあるとは思いますけど、少しずつペースが落ちているじゃないですか」
「……っ」
「いっぱい詰め込んだら桃とかプリンが食べられなくなりますけど、それでいいんです?」
「……」
胃袋には一定量しか入らないのはもちろんのこと。そして小雪は風邪を引いているのだ。
美味しいと感想を漏らすほどのおかゆ一つでもすぐに満腹感を覚えることだろう。体調が悪ければ悪いほど食が細くなるのは当たり前なのだから。
「もったいない気持ちはあるでしょうけど、風邪の時くらいは緩くいきましょう? いろんな栄養を取ってもらって少しでも楽になってほしいですから」
「もう……そんな言葉をかけられたのなら甘える以外になくなるじゃない……」
「我慢とか、無理はしてほしくないですから。その気持ちが辛いことは俺が一番にわかってるつもりです」
ブラック企業を経験し、精神的にも身体的にも痛めつけられた蒼太だからこそ、当時に覚えた気持ちを相手に与えさせたくはなかった。
心に響かせられるほど真摯に訴えることができるのだ。
「はぁ……。ソウタさんには頭が上がらないわね、本当……。そう言ってもらえるのなら、先に桃を食べてもいいかしら」
「はい、もちろんです。食べたいものを食べていきましょう」
嬉しい返事を聞いたことで笑顔を浮かべる蒼太は半分ほど減ったおかゆをお盆に戻し、食べやすいサイズにカットした桃の皿を手に取る。
「それじゃあ口を開けてください」
「ん、あーん……」
そうして、桃を口に入れることに成功する蒼太。一口大にカットしているおかげでおかゆよりも食べさせやすかった。
そして、好物だけあってか小雪の頰はどこか緩んだように、美味しそうに瞳に光を宿していた。
小雪が食べたものはおかゆ半分に桃が1個。プリンには口をつけなかった。
体調を崩している分、どうしても少ない量であるのは仕方がないが水分も一緒に取っていることで蒼太の不安は少しばかり払われていた。
最後にぬるま湯を使って風邪薬を飲ませた蒼太は、睡魔で目を擦り始めた小雪の寝かしつけに入る。
——そんな時にも、服の裾を掴んでくる小雪はまた甘えを見せるのだ
『わたしが寝るまで膝を貸してほしいの……』と、そんな上目遣いで。
****
「こんなに甘えてしまってごめんなさい……。一人で寝るのはなんだか寂しくて……」
「頼っていただけるのは嬉しいですからそんなに気弱にならなくていいですよ。それに謝ることはなにもありませんよ」
柔らかく甘い匂いのするベッドの上で膝を折る蒼太は、太ももに小雪の頭を乗せていた。小雪の体勢はと言うものの、蒼太に背中を向けるような形で赤くなっている顔を見せないようにしていた。
部屋の照明はオレンジ色のナツメ球に変え、最低限の明かりしか灯っていない。
いつでも寝られる明るさであり、暗さでもあった。
「おやすみになるまでずっと隣にいますのでゆっくり体を休ませてくださいね」
「本当にありがとう……」
「体調の方はどうですか? 少しはよくなりました?」
「ええ、おかげさまで。薬も飲ませてもらったから明日には今日よりも楽になっていると思うわ」
「それが一番いいんですけど……楽になったからと言って今日みたいに無理をするようなことはやめてくださいね? 一日ばかりじゃ完治はしないんですから」
小雪ならそうしてもおかしくない。そう悟る蒼太だからこそ大きな釘を刺す。
今朝になったら必ず体温を測らせようと今のうちから考えているほどだ。
「ふふ、もうそんなことはしないわよ。ソウタさんにお説教を入れられるのは辛いもの」
好意を寄せてる相手から叱られる。厳しめの注意を受ける。こればかりは精神的にもダメージを受けること。
嫌われたくない……そんな感情を逆撫でされるわけなのだから。
「管理人としては仕方がないことですから。……私情が多く入ってるのは申し訳ないですけど」
「それでもわたしのことを考えてのことだから本当に嬉しいわよ。本当に……」
「そう言っていただけると助かります」
「ただ……これからのことを考えると複雑な気持ちなの」
「複雑……ですか?」
これからのこと——それは風邪が治ってのことに繋がる言葉でもある。
『一体何が?』と蒼太と同じようにピンとこない人間が多いだろう。
「風邪が治ったらこうして甘えることができなくなる……そう思って」
ストーカーから守ってもらうという
それが今回、寮内で一段と枠の外れた甘え方をしたによってストッパーのような心の器具が外れかけていたのだ。
「入居者のみんなもしていることなので、小雪さんだけが遠慮をすることはないですよ? ほら、一応は恋人関係でもありますからそういったことに慣れておくのは大事だと思いますし」
「いいの……? 一度でも許されるとわたしって歯止めが効かなくなるのよ……?」
「もちろん仕事中にされるのは困りますけど、休憩時間とか空き時間になら好きなだけ甘えていただいて構いませんから」
「そ……その言葉、後悔しないでちょうだいね……?」
「あははっ、期待して待ってますので早く元気になってくださいね」
蒼太は知る由もない。この要望を通してしまったことでこの先、悶々とした生活を強いられてしまうことを……。
小雪の甘えはただの甘えではない。蒼太を異性として見た甘えを考えているのだから。
「はぁ……。このようになるのなら、最初から我慢せずに体調を教えていればよかったわ……。もう入居者のみんなにはわたしが風邪を引いていることがバレているでしょうし、変な心配をかけさせることになったものね……」
「あっ、言い忘れてました。その点は安心してください」
「安心……?」
「はい、さっきは小雪さんに厳しいことを言ってしまったんですけど、もし俺が小雪さんの立場なら同じ行動を取っていたと思うんです……よね。気持ちは痛いくらいにわかるのでそちらの方では協力するような形で動かせていただきました。夕食を食べなかった理由は『本業の仕事が残っていたから』で通ってますよ」
「……」
買い物からの帰宅を調整してリビングで一人になれるようにしたり、看病品を奥に入れたり、レトルトのおかゆを使うことで手短に用意できるようにしたり、入居者にバレないようにするためのことは全て行った蒼太なのだ。
一つだけ……美麗には小雪の件がバレてしまっていることだが、これは言う必要のないこと。
美麗は蒼太側の陣営、話を合わせてくれるのは明白なのだ。廊下で待ち伏せされた時、手書きでメッセージで『お願い』と任されたのだから。
「ですので、これからどの転がすのかは小雪さんに任せますよ。
「な、なによそれ……。そ、そんな後出しをするなんて……」
「ズルいことばかりしてすみません。でも、小雪さんの味方になりたかったですから」
「……っ」
——ドクン。
知らぬところで協力してくれてた嬉しさに心を揺らされた瞬間に、心臓を掴まれるほどの嬉しい言葉をかけられる小雪。
心拍数は一気に上昇し、オレンジの照明と同化できないほど、顔が真っ赤に染まっていく……。
体が熱く、むず痒く、息苦しく……それでいて心地のよい気持ち。
もっと……もっと、それを感じたかった。
「……ソウタさん、最後にわたしの頭を撫でてくれないかしら……。もうそろそろ眠れそうなの……」
「下手ですけど、大丈夫ですか? むしろ眠れなくなるんじゃないかなと……」
「いつもひよりが気持ちよさそうに撫でられているから、お願い……」
「あはは……では、失礼します」
利き手を頭のてっぺんに置き、そこから毛並みに沿って優しく下ろしていく。
四回、五回とその動きをずっと繰り返していると……いきなりだった。小雪が膝の上で寝返りを打ち——、
「っっ!?」
「もっと……甘えさえてほしいの」
そのままぎゅっと蒼太のお腹に顔を埋めながら強く抱きついてきた小雪だったのだ。
一瞬、頭の撫でを動きを止める蒼太だったが……状況を理解して再び手を動かし始める。それはまるで子どももあやすように優しく。
「あはは、本当に甘えん坊さんになりましたね」
「年上なのに、こんな姿をごめんなさい……」
「いえいえ、好ましかっただけですから気になさらず。
その言葉を最後に、何分が経っただろうか。
「……」
「……」
無言の時間は長く続き……優しく頭を撫でられてた小雪は、ふと羨ましげな声を発した。
「ソウタさん、もしわたしに恋人がいたら……毎日このように甘えた生活ができるのかしら……」
「そうですね……。彼氏に愛される小雪さんだと思いますので、たくさん甘えさせてもらえると思いますよ」
そこから、また静寂が訪れる……。
聞こえる音は二つ。
小雪が微弱に動き、衣服が擦れる音とゆっくりと頭を撫でる音。
「ソウタさん……」
「なんですか?」
その問いの後、ふぁあ……と眠そうなあくびこぼした小雪は、蒼太を抱き枕にするように腕に力を込めてくる。
そんな密着した状態で……蒼太のお腹に口を当てるようにして想いを吐露したのだ。
「……大好きよ」
「……」
静かな室内には、その甘えたような声は霧散するよりも前に蒼太の耳に届く。
パチパチと、まばたきを繰り返しながら『大好き』の言葉を脳裏に巡らせる。
「…………」
「…………え?」
状況を理解した瞬間、そんな頓狂な声を上げれば……もう、真相はお蔵入りである。
「すぅ……すぅ……」
蒼太の膝の中で小さな寝息を立てていた小雪……。
「え、な、なに……!? え!? ……え?」
困惑する脳内で浮かんだのは三つ……。
頭を撫でられることが『大好き』だということ。
管理人としての蒼太が『大好き』だということ。
そして最後に……異性として蒼太が『大好き』だということ。
「……って、なにバカなこと考えてるんだよ俺は……。最後までちゃんと看病しないとなのに……」
真面目さが
もし、蒼太が小雪を起こそうとしたり、寝顔を観察したのなら……きっとこの選択は変わってただろう……。
小雪は強く目を瞑り、口も同様に……顔の全てをゆでダコのような赤さに変えていたのだから……。
寝たふりをしているだけでなく、勇気を振り絞った『大好き』なのは見るだけですぐに気づくほどわかりやすいものだったのだから……。
****
次話、小雪さんの後日談でラストになります。
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