第51話 酔いの帰り道

「蒼太さん、今日はごちそうさまでしたぁ……」

「どういたしまして」

 居酒屋アンジュの支払いを済ませ、幸福感に包まれながら退店した二人。

 お酒で火照った体、外の冷たい風が心地よく当たっていた。


 現在の時刻は1時20分。

 暗闇の空には満月が浮かび、宝石のような星々が輝いている。車通りも少なく、落ち着きのある空間が一面に広がっていた。


「んー、蒼太さん。次はどうしましょう……?」

 そんな静かな中で唐突に琴葉は促していた。


「ん? どうするってなにが?」

「ここからの行き先……ですよ」

 トコトコと小幅で距離を詰め、蒼太に上目遣いで問いかける琴葉。

 酔っている分、ふらつかないための歩幅を取っているのはさすがだった。


「琴葉はどこか行きたいところある?」

「えっと……蒼太さんに全部、任せます……」

「どこでもいいの?」

「はい……」

「……もう一回聞くけど、本当に?」

「ええ。今日は蒼太さんに付き合いますので……」

 

 扇情の声色を出す琴葉は、蒼太の上着の裾を親指と人差し指で握り、赤らんだ顔のまま小さく頷いていた。

 もう——あのスイッチが入っていたのだ。

 飲みの個室で蒼太の体に思いっきり抱きついてしまったことで……。酔った状態で、確かめた男の身体。もっと感じたいとその気持ちが湧き上がっていた。


 そして、スイッチが入っていたのは蒼太も同じこと……。


「据え膳食わぬはってことでいいの?」

「はい。して……いただけますか?」

「……じゃあ遠慮なくお持ち帰りさせてもらうよ。今めちゃめちゃ恥ずかしいんだけど」

「私も恥ずかしいので大丈夫です……」

「そ、それならいいんだけど……」

「……ふふっ、男性とのサシ飲みをするとこうなってしまうんですね。勉強になります……」

「お酒の力って凄いよなぁ」

「そう……ですね。現に男性のお体を求めてしまっていますから……」


 蒼太の裾を掴む手により一層力を入れる琴葉は、その言葉通りに逃すつもりはないのだ。

 もう頭の中は煩悩に支配されていた。この先のことを想像し、下腹部の奥が熱くなっていた。


「あっ、そう言えばタクシーを呼び忘れていましたね……。早く向かいたいのにうっかりです」

「それなんだけど、ここからは歩いていかない? タクシー代に使うのは何かともったいないからさ」

「……っ、わかりました。そ、そうですね。たくさんするならそのお金の分を追加した方がいいですよね」

「じゃあ琴葉はこれを着てくれる? ここからは少し時間かかるだろうし、その服じゃ身体が冷えると思うから」


 長袖のドッキングワンピースを着た琴葉だが、月が浮か蕪湖の夜中ではまだ寒さを感じる気温だ。

 蒼太は紺色の上着を脱いで琴葉に手渡した。


「……もぅ、そんなに優しくしてもいいことはありませんよ……?」

「いいことはこれからあるんじゃない?」

「ふふっ、そうでした……。では上着をいただきます」

「どうぞ」


 蒼太の上着を受け取った琴葉は小さな肩に回して腕を入れた。

 だが、琴葉にとってその服はブカブカだ。着終わった後、腕の裾からは綺麗なピンク色の爪しか出ていなかった。


「んー、やっぱり大きいですね……。でも……蒼太さんに抱きしめられているような感覚がします……」

「そんな恥ずかしいこと言わない」

「ふふっ、ごめんなさい」


 完全にカップルのするような会話だが、お酒がなければ絶対に成り立たないものだ。


「じゃあ、準備もできたし歩くか」

「はい」

「——琴葉をおんぶして」

「…………えっ?」

 芸人のような間の取り方を見せた琴葉である。口を小さく開けてぽかーんとした顔で蒼太に視線を送ってた。


「足元がふらついてるのに歩かせるわけないだろ? 正直、歩くだけでキツイだろうし無理はさせないよ」

 この時には膝を降り、背中に乗りやすいように体勢を低くした蒼太である。


「わ、私は大丈夫ですよ。全然平気です」

「おんぶ」

「大丈夫……です」

「おんぶ」

「だ、だって……」

「おーんーぶ」

「……は、は……恥ずかしいです……もん」


 蒼太の背後にいる琴葉だ。その表情は見えていないが震えた声色から顔が真っ赤になっていた。


「琴葉がそのつもりならそれでもいいけど……おんぶさせてくれないなら琴葉はここに置いていくし、お持ち帰りするのもやめるからね?」

「っ!! な、なんでそんないじわる言うんですかぁ……」

「じゃあほら、早く乗って」

「うぅぅ……」

「カウントダウン、10、9、8、6——」

「っ、7を言ってないです……っ」

「5、4、3——」

「ぬぅぅ……。わ、わかりましたからぁ……」


 残り3秒にてギブアップ宣言が放たれた。ここまで来たなら絶対にお持ち帰りされたい琴葉なのだ。

 羞恥を我慢するように口を波の形に変えておんぶされることを決意する。蒼太の首に両腕を回し、その背中に胸とお腹をつけた。

 そうして準備を完成させて耳元で呟く。


「できました……」

「了解っと」

「……っ!」

 その声を合図にして蒼太は立ち上がった。

 両手は自身の腰に回し、琴葉の下着が見えないようにワンピースを巻き込みながらぷにんとした太もも裏を支えた。

 これで琴葉の両足は地面から離れる。


「じゃ、行こっか」

「うーぅ……。やっぱり恥ずかしいです。誰かに見られるかもしれないのに……」

「あえて人通りのあるところ行ってみる?」

「そ、それだけはやめてくださいよぅ……」

 子どもがよくされるおんぶだが、物心がついた頃にはほぼなくなってしまう行為の一つ。

 おんぶをされた記憶などうっすらとしかない琴葉は、何十年もされていなかった

 。もっと言えばお酒も回り、これからやることを想像している状態なのだ。


 キャパシティの限界を超え、に負けたように大きな背中に顔を埋めていた。


「あれ、もしかして余裕ないの琴葉?」

「……っ、あるに決まってるじゃないですか」

 分かりやすい見栄。


「へぇ、じゃあこうしてみよっと」

「んんっ!?」

 途端に漏れる琴葉の声。蒼太はとあるコトを行ったのだ。


「なっ、なんでヒールを脱がすんですかぁ……っ!」

「ん? おんぶをする時に靴を履くのはマナー違反だしね。誰かにぶつかった時に不快な思いをさせるし」

「ぶつかる人なんていないですよ……っ」

「琴葉、夜なんだから静かにしなくちゃ」

「んぁっ」


 完全に優位を取る蒼太は、残った片方のヒールもすぽっと脱がした。

 黒のタイツに包まれた足首、そして足先が露出する。薄い生地のものを履いているため、黒の透けた中に肌色が浮かんでいる。


「そ、蒼太さんが脱がすからじゃないですかぁ……っ。早く返してください……っ」

「ヤーダ」

「お願いです……。あ、足を見られるのは恥ずかしいんです……っ」


 おんぶをされた状態でタイツの足を激しく動かしている琴葉はべちんっと蒼太に攻撃を加えるが、全く痛みはない。マッサージをされているほどの強さだ。


「じゃあ今から喋るのと攻撃するの禁止。もし破ったら靴履いてないまま地面に下ろすからね」

「っ!?」

「あとお持ち帰りもしない」

「もぉ、蒼太さんのいじわる……」

「はいはい。俺は意地悪ですよー」


 そんな軽口を言い、背中から下がってくる琴葉を「おいしょ」と押し上げた蒼太はおんぶを続けながら暗い道を歩き続けていた。



 ****



「すぅ……。すぅ……」

 蒼太の耳に規則正しく、落ち着いた息が聞こえてきたのはおんぶして10分が過ぎた頃だった。


「琴葉寝た?」

「すぅ……」

 返事はこの寝息だけ。身体は動いておらず熟睡していた。


 元より蒼太はコレを狙っていたのだ。

『喋るのと攻撃するの禁止との命令』

 これは琴葉を眠りに誘うためのものでしかなかったのだから。


「さてと、そろそろお持ち帰り、、、、、しなくちゃな」

 蒼太はすぐに方向転換をする。向かい先はホテルなどではない。——蒼太や琴葉の住む家、女子寮である。


「はぁ……。やっぱりお酒って怖いや」

 アルコールにより乱れていたのは蒼太も同じ。

 タクシーを使いたくなかった理由は歯止めが効かなくなると確信していたから……。


 頭を冷やしてくれたこの静まりの空気には、蒼太の一言が漏れていた。

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